Jovian-Cinephile1002’s blog

古今東西の映画のレビューを、備忘録も兼ねて、徒然なるままに行っていきます

『 シークレット・チルドレン 禁じられた力 』 -T・シャラメのファン以外は観る必要なし-

シークレット・チルドレン 禁じられた力 25点
2019年10月28日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:ティモシー・シャラメ キーナン・シプカ
監督:アンドリュー・ドロス・パレルモ

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傑作『 君の名前で僕を呼んで 』のティモシー・シャラメに、怪作『 A GHOST STORY ア・ゴースト・ストーリー 』で撮影を務めたアンドリュー・ドロス・パレルモが監督した作品ということで、TSUTAYAで借りてみた。シネ・リーブル梅田での上映をスルーしたのは正解だった。これは、一部の好事家だけが観るべき作品である。

 

あらすじ

ザック(ティモシー・シャラメ)とエヴァキーナン・シプカ)の兄妹は、両親と共に人里離れた農地に暮らしている。二人にはテレポーテーション能力があった。父親は妻の病気は子ども達の異能の力に対する神罰であると考えていた。そして、妻の病死を機に父はエヴァを追い出し、ザックを虐待するようになり・・・

 

ポジティブ・サイド

BGMを極力抑え、自然豊かな景色を背景に淡々と繰り広げられる家族の生活は、どこか『 君の名前で僕を呼んで 』に通じるものがある。自然の音を聴かせることで、画面に映っている以上の奥行きを想像できるようになる。基本的な技法であるが、効果的に使っている監督は多数派ではない。

 

一種のクローズド・サークルで展開するサスペンスという点では『 イット・カムズ・アット・ナイト 』にも似ているし、父親が暴力衝動に駆られそうになるという緊張感をゆっくりねっとり盛り上げようとする展開は『 幼な子われらに生まれ 』に通じるところがある。

 

印象に残ったのはそれだけだった。

 

ネガティブ・サイド

父親が子らに与える折檻が、まず怖くない。というか笑える。一見すると身動きが取れないように思えるが、服さえ犠牲にすれば簡単に脱出できるのではないか。それとも、小さい頃から釘と金槌がトラウマになるように躾けられていたのか。いや、そんな描写も演出もなかった。

 

頭のいかれた親父といえば『 シャイニング 』が白眉であるが、こちらの親父もそれなりに怖い。しかし、妻を想う心は一際に強い。だったら、さっさと病院に連れて行け!または医者を呼べ!と何度か思わされてしまった。

 

色々とノイズ的なシーンも多かった。鶏を追いかけるのは『 ロッキー2 』へのオマージュなのかモンタージュなのか。そして、あれだけ自然に囲まれ、農園を営んでいて、鶏が目隠しすると寝てしまうのを知らない妹。本当に野生児なのか。リアリティが欠如している。

 

外の世界で妹が体験することも、特に真新しいことは何もなし。脚本にも問題があるのだろうが、パレルモ氏は、撮影はできても監督は難しいのかもしれない。

 

総評

ティモシー・シャラメのファン以外には観る意味はない。隔離されて暮らす超能力兄弟ならば、映像もされた小説『 NIGHT HEAD 』の方が遥かに面白い。静かな超能力映画を鑑賞したい向きには『 テルマ 』をお勧めしておく次第である。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

between you and me

 

「ここだけの話だが」、「これは秘密にしてほしいのだけれど」のようなニュアンスである。This is between you and me, but I am thinking of running in the election. などのように使う。難しいことは何もない表現だが、これを言える、または聴けるということは、その人が信頼に足る人である、あるいは誰かを信頼できているということを意味する。英語の難易度としては初級だが、コミュニケーションの難易度としては上級だろう。

現在、【英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー】に徐々に引っ越し中です。こちらのサイトの更新をストップすることは当面はありません。

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『 マレフィセント2 』 -ご都合主義もほどほどにすべし-

マレフィセント2 45点
2019年10月27日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:アンジェリーナ・ジョリー エル・ファニング ミシェル・ファイファー
監督:ヨアヒム・ローニング

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マレフィセント 』は非常に時代に即した映画だった。異種の間で愛が育まれるのかという問いは、現代においてその重みを増すばかりだからだ。古いおとぎ話を再解釈する意義は確かにそこにあった。だが、続編たる本作はどうか。現代的なメッセージも盛り込まれてはいるものの、ご都合主義的なストーリーの粗が目立つ。

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あらすじ

ムーアの王女オーロラ(エル・ファニング)は、アルステッドの王子フィリップから求婚され、受諾する。アルステッド王妃のイングリス(ミシェル・ファイファー)はオーロラと彼女の保護者的存在であるマレフィセントアンジェリーナ・ジョリー)を晩餐会に招待するが・・・

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ポジティブ・サイド

CGは美麗の一語に尽きる。もちろんCGっぽさは何をどうやっても隠せないのだが、ムーアの民の活き活きとした暮らしぶりや、終盤のバトルシーンのグラフィックは実にハイレベルである。日本の白組あたりは、予算ではなく別の分野で勝負してほしい。ディズニーと物量勝負をしたら負ける。絶対に。

 

アンジェリーナ・ジョリーの代表作は『 60セカンズ 』と『 トゥームレイダー 』だと思っているが、代名詞的な作品は『 マレフィセント 』と本作『 マレフィセント2 』だろう。特にララ・クロフトアリシア・ヴァイキャンダーという後継者が出現してしまった。しかし、マレフィセントの後継者はおそらく出ないだろう。ハリソン・フォードが「自分が死ねば、インディアナ・ジョーンズというキャラクターも死ぬ」と公言しているが、それと同じくらいにジョリーはマレフィセントにハマっているし、キマっている。まばたきをせず、抑揚を小さく、しかし腹の底に響いてきそうな迫力を持って話すマレフィセントという魔女は、特殊メイクではなくジョリーの演技力で生み出されているということがよく分かる。

 

エル・ファニングも可憐で、しかし芯の強いオーロラ姫を過不足なく体現しているが、本作で彼女以上の存在感を放ったのはミシェル・ファイファー演じるイングリス王妃である。権謀術数に長け、確かな戦術眼と軍の指揮能力も持ち、そして王妃と母親という仮面をかぶることができるというスーパーウーマンである。40年後のエル・ファニングも、きっとこのような大女優に成長するのだろう。各世代を代表する女優3名の共演は、非常に見応えのあるものだった。

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ネガティブ・サイド

晩餐会でジョン王が倒れるシーンのオーロラ姫に喝!!!何故にそこでマレフィセントを疑うのか。前作の感動的な展開は一体何だったのか。今作の冒頭で、屈託なくムーアの民と語らい、触れ合うオーロラ姫の姿を見て、我々は彼女がマレフィセントをはじめ、異形の者たちとも全く問題なく心を通い合わせることができる人間に成長したことを確認した。それが、婚約者に招かれた晩餐会でこのように豹変してしまうとは・・・ 言葉を失ってしまう。

 

マレフィセントにも喝!!!なぜ陰謀に倒れたジョン王に何でもいいから魔法で手を尽くさなかったのか。人間の話が字面通りにしか通じない、レトリックを解さないマレフィセントならば、自分に疑惑がかかっているという空気を読まずに、何らかの措置を講ずるのではないか。前作からのキャラが、強引なストーリー展開のためにぶれまくってしまっているのが残念でならない。

 

マレフィセントの種族が登場するのもご都合主義でしかない。終盤のバトルシーンをよりspectacularなものにすることが第一の目的にしか見えない。前作で種を超えた愛の成就を語っただから、今さら同種を持ち出す必要はない。語るとすれば、それは我が子の愛を成就させるために、我が子を手放すという愛の形だろう。

 

終盤のバトルシーンも迫力はあるが、説得力はない。闇の妖精たちには、斥候を放つという概念は無いのか。いや、「よろしい、ならば戦争だ」「戦争だ!」と意気込むからには、戦いの概念を有していることは間違いない。というよりも、人間に地下世界に追いやられたのも、戦闘に敗れたからだろう。なぜ自分よりも強い相手と戦おうという時に、正面突破を図ろうとするのか。それも、高射砲的な兵器で画面を彩りたかった脚本家や監督のご都合主義である。

 

マレフィセントの大変身も既視感ありありである。 ゴジラ キング・オブ・モンスターズ 』のラドンを既に観た映画ファンには物足りないと感じられたはずである。そして、その後の先頭の終結シーンもご都合主義の極みである。戦争や抑圧がどのような負の感情を生み出すのかは、韓国が日本に、ベトナムが中国に、イラクアメリカに抱いている感情を慮れば理解できる。異形のマイノリティとも手を取り合うことができる、というアメリカの新しいイデオロギーをスクリーンに映し出したいのであれば、もっと説得力のある脚本が必要である。ヒューマンドラマだった前作に対して、本作はアクション作品になってしまっている。

 

総評

非常に評価の難しい作品である。エル・ファニングが出演しているだけで5~15点は加点してしまうJovianをもってしても、45点が限界である。とにかく物語にリアリティがない。おとぎ話には普遍的な真実の一端が含まれていなければならないが、それも無し。製作者側としては現代的な寓話にしたいのだろうが、それならば前作を子供向けに、本作を大人向けに作るべきだった。これではあべこべである。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

One can never be too careful.

 

アルステッド女王の台詞で、確か字幕は「油断大敵よ」だった。直訳すれば、「人はどれほど注意しても注意しすぎることはできない」だが、そんな冗長な日本語よりも油断大敵という四字熟語の切れ味を買おうではないか。英語の学習者であるという方は、是非以下の英文を訳されたい。それによって貴方の勤務先がホワイト企業か、それともブラック企業かが判別できるだろう。

 

You can never work too hard.

 

You can’t work too hard.

 

前者は「どれだけ一生懸命に働いても、一生懸命すぎることはない」=「もっともっと一生懸命に働け」ということで、このように訳した貴方はずばりブラック企業勤めだろう。後者は前者と同じ意味だが、文脈によっては「あまりにも一生懸命に働いてはいけない」という禁止命令になる。このあたりの意味の判別が瞬時にできれば、英語学習の中級者である。

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『 メアリーの総て 』 -時代に翻弄され、時代を乗り越えた作家-

メアリーの総て 65点
2019年10月26日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:エル・ファニング ダグラス・ブース ベル・パウリー
監督:ハイファ・アル=マンスール

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フランケンシュタインの怪物の影響は現代まで連綿と続いている。日本では漫画『 ドラゴンボール 』の人造人間8号などは好個の一例だろう。けれども、そのキャラクターと物語を生み出した作家メアリー・シェリーについてはそれほど知られていない。だが、今という時代に彼女の映画が作られたことには必然性があったのだ。

 

あらすじ

19世紀のロンドン。書店の娘メアリー(エル・ファニング)は物書きになることを夢見て、様々な本を渉猟していた。ある日、妻子のあるパーシー(ダグラス・ブース)と恋に落ちたメアリーは、彼と駆け落ちする。それは、彼女の波乱万丈の人生の始まりだった・・・

 

ポジティブ・サイド

現代物でも歴史物でも、ロンドンという都市には陰鬱な雰囲気がある。それは本作でも巧みに表現されている。街の空気が重苦しく感じられ、母親などから仕事を手伝うようにプレッシャーをかけられても、メアリーは快活さを失わない。彼女は自身の内に響く言葉を解き放つことを恐れない。『 未来を花束にして 』の二世代前の時代、女性が自分らしく生きることは想像を絶するほどに困難だったと思われる。だからこそ、メアリーのキャラクターが立つし、観る者はメアリーを応援したくなる。エル・ファニングは少女と女性の中間のような存在を好演してくれた。ラブシーンもちょこっとあるので、スケベ映画ファンはほんの少しだけ期待してよい。

 

異形の、しかし心優しい怪物を構想し、執筆する背景になにがあったのか。メアリーは16歳という若さで情熱に身を任せ、妻子ある男と駆け落ちしたが、そんなものは誰がどう見ても幸せにはつながらない。現代の目で見てもそうだし、家族や当時の人々もそう思っていたことだろう。弱冠18歳にして「フランケンシュタインの怪物」を生み出した彼女は、そのエンディングに関して、パーシーからアドバイスを得る。しかし、それを採用しない。なぜなら、それこそが彼女の心だから。なぜなら、その作品が彼女の子どもだから。ボリス・カーロフ主演の『 フランケンシュタイン 』で、怪物が少女と湖畔で遊び、語らうシーン、そして怪物が武器を手にした村人たちに追われるシーンが思い起こされた。少女が誰を象徴しているのか、村人たちが誰を象徴しているのかに、しばし思いを巡らせてみるのも一興だろう。

 

美とは何か。創作とは何か。メアリー・シェリーの10代を通じて、色々なものが見えてくるし、考えさせられもする。

 

脇を固めるダグラス・ブースは見事なクズ男を演じた。パーティーで詩文を恭しく詠んでは、先進的な思想をひけらかして女性を引っかけていくという典型的なプレイボーイで、加えて生活力や金銭管理能力にも劣る。そんなすきに慣れそうにないキャラクターを見事に好演。日本でいえば、一頃の藤原竜也だろうか。『 マイ・プレシャス・リスト 』でタイトル・ロールのキャリー・ピルビーを演じたベル・パウリーも印象的。「詩人に気に入られる女性はあなただけじゃない」とメアリーに言ってのけるシーンに、女性という生き物のプライドを垣間見たように思う。

 

ネガティブ・サイド

ストーリーのペーシングに難がある。メアリーという女性がいかにしてフランケンシュタインの怪物を構想し、執筆したのかという場面までなかなかたどり着かない。監督や脚本家に、「メアリーという人間を掘り下げて描き出したい」という願望が強すぎたように思う。その割には、彼女が赤ん坊を早くに亡くしてしまったことの負い目が、それ程強調されていなかった。怪物は二重の意味でメアリーの子ども(血を分けた我が子が復活した姿と創作物)なのであるから、子に先立たれた親の悲嘆について、もう少し詳細な描写や演出が欲しかった。

 

メアリーとポリドリ医師の距離感というか、この二人がもっと熱心に生や死について語らう場面があってもよかったはず。当時の英国の死生観や科学観をもう少し丁寧に劇中で描けていれば、メアリーが創作のためにどのようなインスピレーションを得たのかを我々としては想像しやすくなる。

 

総評

近代ホラーおよびSF文学史に興味がある向きならば必見だろう。現代は過去の様々な作品が脱・構築され、フェミニスト・セオリーが適用され、再生産されている時代である。女性作家としてはジェーン・オースティンと並ぶ、まさに元祖である。彼女のbiopicを見ずして、現代の映画製作のコンテクストは語れない・・・は、さすがに言い過ぎか。エル・ファニングのファンならば鑑賞必須である。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

speak ill of ~

 

~の悪口を言う、~を悪しざまに言うの意である。序盤でメアリーが「私の母を悪く言わないで」というシーンがある。反対の意味の表現として、speak highly of ~がある。~を褒める、の意である。こちらも序盤にパーシーがメアリーの家にやって来る時に使われていた。TOEICにはまず出てこないが、英検やTOEFLには偶に出てくるかもしれない。

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『 空の青さを知る人よ 』 -閉塞感に苛まされたら、空の青さを思い出せ-

空の青さを知る人よ 75点
2019年10月22日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:吉沢亮 吉岡里帆 若山詩音
監督:長井龍雪

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これはJovianの観た限りの邦画アニメでは2019年で1,2を争う良作である。一部で『 天気の子 』とそっくりの構図(それも『 千と千尋の神隠し 』や『 天空の城ラピュタ 』から来ているのだが)があったりするが、全体的に音楽プロモ・ビデオ的だった『 天気の子 』とは違い、ミュージシャンをフィーチャーした本作の方が、より確かな人間ドラマを描いているのは皮肉なものである。つまり、それだけ本作の完成度が高いということである。

 

あらすじ

埼玉県秩父市。相生あかね(吉岡里帆)と相生あおい(若山詩音)の姉妹は両親を亡くして以来、二人暮らし。あかねは18歳の時に恋人のプロのミュージシャンを夢見る慎之介(吉沢亮)の上京にはついて行かず、地元の役所に就職した。そして今、18歳になったあおいは音楽で身を立てるために上京しようとするが、そこに13年前の慎之介の生霊が現れ・・・

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ポジティブ・サイド

良い意味で期待を裏切られた。吉沢亮が出ている作品はだいたい駄作か凡作。吉岡里帆の出ている作品はだいたい珍品。そうした私的ジンクスを2人そろってたたき壊してくれたからである。

 

まずは吉沢亮の意外なvoice actingの上手さに驚かされた。『 二ノ国 』というクソ作品のクソな声の演技や、『 HELLO WORLD 』の至ってオーソドックスでアベレージな声の演技と比較すれば、その技量は際立っている。もしも本職の声優たちが本作で脇を固めていても、これだけハイレベルな声の演技ができるのなら、素人っぽさで浮いてしまうこともなかっただろう。18歳のシンノと31歳の慎之介を演じ分けるだけではなく、キャラクターの表情や仕草に合わせた、今ここではこの声が欲しい、という声を出せていた。監督のディレクションの賜物だろうが、本人の努力もあったはず。『 キングダム 』で秦王・政をシンクロ率95%で演じ切ったが、あれはflukeではなかった。高良健吾の後継者はこの男で間違いない。

 

吉岡里帆の感情を抑えた、控え目な声の演技も見事だった。『 見えない目撃者 』で殻を破ったと感じたが、その印象は誤りではなかった。慈しみや愛情を豊富に感じさせながらも、拒絶する時の声音には芯の強さがあった。これも監督の演技指導と本人の探究心と練習によるものだろう。順調にキャリアを積み重ねていけば、30歳ごろには演技派と呼ばれるようになれるかもしれない。この調子で覚醒を続けて欲しい。

 

あかねとあおい、二人の姉妹が二人の慎之介と相対する時に交錯する想いは何とも複雑玄妙だ。青春をすでに過ごし終えた者とまさに青春を謳歌している者が、それぞれに異なる悲哀を経験するからだ。誰かを好きになるという気持ちは、素晴らしいものだ。だが、それは往々にしてままならない感情でもある。あかねはある意味で閉じた土地に自分を縛りつけ、止まった時間の中に生き続けている。それがあおいから見た姉の姿である。それを引っ繰り返す終盤のシークエンスは、お涙頂戴ものの典型でありながら、それでも万感胸に迫るものがあった。これは男女の複雑な恋模様であるだけでなく、家族愛であり、姉妹愛であり、自己愛の物語だからでもある。

 

ストーリーはドラマチックであるが、終盤では実にシネマティックになる。つまり、画面いっぱいにスペクタクルが展開されるということである。冒頭で述べた『 天気の子 』そっくりな構図がここで描かれるが、浮遊感や爽快感は本作の方が上であると感じた。ここではあいみょんのタイトルソングが絶妙な味付けになっている。彼女の楽曲が最高の調味料なのであるが、それは歌が主役であるということではない。音楽が映像を盛り立てているのであって、逆ではない。『 天気の子 』はこのあたりのさじ加減を誤っていたと個人的には感じる次第である。もしも良作アニメ映画を観たいという人がいれば、本作を強く推したい。

 

ネガティブ・サイド

本作は変則的なタイムトラベルものと言えないこともないが、多くの作品が犯してしまう間違いをやはり犯してしまっている。最大のものは生霊シンノの「あんとき」という表現である。その話のコンテクストを映像で表現しているので気付かなかったのかもしれないが、そこから読み取れるのは、シンノの体感では成長したあおいと出会ってしまったのは18歳のあかねと別れることになってから1日後である、ということだ。昨日のことを自分から、あるいは誰かに求められて説明する時に「あんとき」というのは、違和感のある日本語である。ここは「そのとき」であるべきだったと思う。

 

本作のグラフィックは非常に美しい。一部、実写をそのままフルCG化したようなショットが随所に挿入されていたようだが、そうした美麗なグラフィックがノイズになってしまっていたように思う。公園内の木々や落ち葉のショットが特に印象的だったが、そこあるべき動き、例えばちょっとした風のそよぎなどが、一切感じられなかった。そのため、かえって非常に無機質な印象を与える風景のショットが見られる。『 あした世界が終わるとしても 』では、実際の人間の如くゆらゆら揺れるキャラクターCGが不気味な印象を与えてきたが、本作の風景の一部は美しさと引き換えに生々しさ、リアルさを失ってしまっていた。それが残念である。

 

キャラクター造形で言えば、31歳の慎之介があかねと再会した場面にも違和感を覚えた。帰ってきたくなかった地元で再会したくなかった(多分)初恋あるいは初交際の相手に、あそこまでだらしなく迫るものだろうか。音楽に操を立てて、それが報われなかったからと言って、昔の女に慰めを求めるのは端的に言ってカッコ悪すぎる。同じ夢破れかけた男として、余りに見るのが忍びない。そうか、だからあかねは「がっかりさせないで」と言ったのか。オッサンが見るにはキツイが、ストーリー上は整合性があるシーンである。これは減点対象ではないか。

 

総評

観終わって、実に爽やかな気分になれる。それは本作が人間の心のダークな領域に恐れることなく光を当てているからだ。ダークと言っても、サイコパス的な心理ではない。普段、他人には決して見せない心の在り様を、ある者は人目を憚って、ある者は赤裸々に、スクリーン上で見せてくれるからだ。ビターなロマンス要素あり、優れた楽曲と優れた声の演技があり、カタルシスをもたらしてくれる映像演出もある。中高生から中年ぐらいまで、幅広くお勧めできる上質なアニメである。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

I don’t like those who say they like me.

 

あおいの「私は私を好きだと言う人は嫌い」という台詞である。those who + Vは、しばしば「~する人々」、「~する者たち」など、誰とは特定せずに一般的な人間全般を指す時に用いられる。書き言葉でも話し言葉でも、どちらでもよく使われる。昔、ハマっていたシリーズ物のゲームのトレイラー

www.youtube.com

でも確認できるので、興味のある人はどうぞ。

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『 ガリーボーイ 』 -インドの矛盾を暴き、乗り越えていくビルドゥングスロマン-

ガリーボーイ 80点
2019年10月20日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:ランビール・シン アーリアー・バット シッダーント・チャトゥルベーディー カルキ・ケクラン
監督:ゾーヤー・アクタル

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野村周平主演の『WALKING MAN 』と本作を比較して、やはりインド映画好きのJovianはこちらを選んだ。『 パティ・ケイク$ 』のインド版のようなものと思っていたが、実際は近年のボリウッドが目指す娯楽性と社会派メッセージの両方を備えた良作であった。

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あらすじ

ムラド(ランビール・シン)はムンバイの貧民窟の問題のある家庭に暮らす大学生。悪友と車上盗を行うなどしながらも、幼馴染にして医大生のサフィナ(アーリアー・バット)と交際していた。ある日、ムラドは大学のイベントでシェール(シッダーント・チャトゥルベーディー)のラップを聴いたことで、自身もラップに開眼。二人でラップにのめり込んでいくが・・・

 

ポジティブ・サイド

劇中でも一瞬だけ触れられる通り、これは『 パティ・ケイク$ 』よりも『 スラムドッグ$ミリオネア 』の方がジャンル的にはやや近いか。ラップでサクセスを追求していく男の物語であるが、そこにあるのはインド社会の大いなる矛盾と、自身の生き様について抱える葛藤である。ラップの良いところは、元手がゼロ円で始められるところである。必要とされるのはリズム感とインスピレーション。その二つをムラドが有していることが、序盤にさりげなく描かれている。観光客に家の中にまでずかずかと踏み込まれ、勝手に写真は撮られ放題。まるでオブジェか何かのように扱われるムラドがラップを口ずさむシーンは、この男が凡百のガリーボーイではなく、ひとかどのガリーボーイであることを言葉数少なく、声も小さく、しかし雄弁に物語っていた。

 

ムラドが日の当たらない場所から日の当たる場所に出ていくきっかけになったシェールとの出会いも鮮烈だ。ラップという黒人音楽の一つの完成形が、インドという全く異なる土地で大きく花開いている背景には、複雑な民族問題、宗教問題、社会問題(カースト制度)、さらに貧富の格差の拡大問題がある。本作はそれらにはフォーカスしない。しかし、それらを隠さずに正面から描き切る。何かを元凶に描くのではなく、満たされない現状から雄々しく抜け出していく男の姿は、我々をこれ以上なく勇気づけてくれる。

 

何よりも、ムラドが当初は抵抗することが出来なかった父に立ち向かえるようになったのが大きい。『 シークレット・スーパースター 』でも描かれていた通り、インドにおける父親像は(山岡士郎視点での)海原雄山のごとき暴君である。その暴君を相手に立ち上がるムラドの姿に、インド社会全体を支配する権威への反抗を重ね合わせて見ることができるだろう。

 

本作の肝となるべきラップもハイレベルだ。字幕担当の方は大変な苦労をされたものと思う。『 ジョーカー 』でもcentsとsenseをかけて、「高価」と「硬貨」と訳し分けたのは上手いと感じたが、本作でもラッパーたちは韻を踏みまくる。字幕にも要注意だし、耳に自信のある人はヒンディー語の歌詞にも耳を傾けてみよう。

 

ラッパーたちの姿も実に見事に活写されている。プロモビデオの製作シーンでは、ムラドが才気煥発する様が映し出されている。カラフルさにはやや欠ける本作であるが、スラム街を縦横無尽に駆けて歌うムラドとシェールは、乾いた色合いの画面にダイナミズムを与えていた。また光を使った演出で目についたのは、ムラドが駐車場に停めた車の中でイヤホンを装用してラップを歌いまくるシーン。『 ベイビー・ドライバー 』冒頭のアンセル・エルゴートを彷彿させるパフォーマンスだが、周囲のビルから車体に降り注ぐ黄金色のカクテル光線が決してムラドには降り注がない。そして観客にもムラドの声は聞こえない。この降り注ぐ光を浴びることができないというシーンは、最終盤に劇的なコントラストをもたらす。ベタな演出ではあるが、見事なものだと唸らされた。

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ネガティブ・サイド

サフィナのキャラクターは、もう少し普通にはならなかったのだろうか。実在の人物に基づいていると言われればそれまでだが、ドキュメンタリーではないのだから、適度に人物や出来事を美化したり、あるいはぼかしたりすることは許されるだろう。癇癪持ちというのを通り越した、エクストリームな暴力女の元に戻っていく(?)ムラドに共感することは難しかった。

 

犯罪行為に手を染め続ける旧友との距離感も観ているこちらとしては、なかなか把握しづらかった。ムラド自身の生い立ち、これまでに共に積み重ねてきた濃密な時間という、サフィナと共通する要素がムラドを繋ぎ止めているのだろう。ただ車上盗は何とか許容できても、子どもを巻き込んだ drug trafficking は許容できない。これも事実だと言われてしまえばそれまでだが、自分で持つにはかなりヘビーな交遊関係である。

 

総評

ラップの素養が無いJovianにも楽しめた。ラップのハードコアなファンには粗が目に付くかもしれないが、それでもランビール・シンのパフォーマンスは圧倒的である。様々な社会的矛盾に押し潰されそうになりながらも、決して膝を屈しないムラドは多くの人を勇気づけることだろう。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

You’re gonna kill it.

 

カルキ・ケクラン演じるスカイがステージに向かうムラドにかけた言葉がこれだった。直訳すると意味が分からなくなるが、kill it = 上手くいく、やり遂げる、成功する、というような意味である。ただ基本的にはネイティブ・スピーカーにしか通用しないだろう。インドのようにテレビ番組の半分が英語音声という国なら話は別かもしれないが。イディオムを使いこなせれば中級者以上だが、こういう表現はあまり推奨されない。日本のビジネスマンの多くが英語でコミュニケーションを取る相手は、北米やヨーロッパではなく東南アジアやラテンアメリカ諸国になっている。最大公約数的な英語をKISS(Keep it simple and short)の法則に従って使うのが無難である。

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劇中の冒頭でムラドが聴いていたのは

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だった。Rod Stewartの歌声は、麻薬のようである。一度聴いてしまうと忘れられない。

 

『 スペシャルアクターズ 』 -予想通りで予想以上の面白さ-

スペシャルアクターズ 65点

2019年10月20日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:大澤数人
監督:上田慎一郎

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カメラを止めるな! 』で華々しくメジャーな舞台に登場し、『 イソップの思うツボ 』で評判をガクンと落とした上田慎一郎監督であるが、本作は標準以上に出来に仕上がったと言える。前作は、監督三人態勢が祟っていたのだろうか。

 

あらすじ

大野和人(大澤数人)は売れない役者。極度に緊張すると失神するという症状に悩まされていて、アルバイトで何とか食い扶持を稼いでいる。ある時、数年ぶりに弟の宏紀と再会した。弟は「スペシャルアクターズ」という、芝居でトラブルを解決するという会社に所属しているという。和人もなりゆきでスペシャルアクターズに所属するが、そこに「旅館をカルト宗教団体から守って欲しい」という依頼が入り・・・

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ポジティブ・サイド

上田慎一郎の持ち味はドンデン返しである。それがこの監督がキャリアをかけて追い求めていくものなのだろう。例えば、是枝裕和監督は家族とは何かを問い続けているし、宮崎駿は「子どもはいかに生きるべきか」を描き続けている。そうした頑迷固陋と言えるほどのポリシーを持つ映画人がいてもよい。実際に本作は、まあまあ楽しめた。

 

どこらへんがどうドンデン返しなのか。よく似た作品にデヴィッド・フィンチャー監督の『 ゲーム 』が挙げられる。もしくは邦画の『 ピンクとグレー 』も少し似ている。つまり、ドンデン返しが来るぞ来るぞと期待しながら観て、その上でそれなりに驚かされたということである。詳しくは劇場で鑑賞して頂くのが一番である。

 

役者は皆、無名である。だからこそこちらも先入観を抱かずに、フレッシュな視線で鑑賞できる。主人公を演じた大澤数人は、大根役者を演じるという、ある意味では非常にチャレンジングな仕事を見事に務めた。芝居がかった喋りではなく、実際に職場などにいればイライラさせられるかもしれないトロい語り口とモッサリした動きは、まさに本作の主人公そのものであった。

 

本作の面白さの肝は、芝居で何でも解決する会社、すなわち「スペシャルアクターズ」が、カルト教団「ムスビル」を撃退する展開である。つまり、騙してくる奴をお芝居で騙し返すわけである。そこにサスペンスとドラマが生まれている。しかし、息詰まるようなサスペンスではない。どこかB級チックで、ユーモラスなサスペンスである。このあたりはイソップではなく、カメ止めのテイストである。上田監督も原点回帰を果たしつつあるようである。数人の弟、スペシャルアクターズの幹部の面々、旅館の若女将、ムスビルの幹部たちが織り成す面白おかしく、それでいてシリアスなプロットを是非劇場で堪能いただきたい。

 

ネガティブ・サイド

血しぶきが弱いなと感じた。もっとカメ止めのゾンビのように、ブフォーッ!!という感じで血反吐を吐かなければだめだ。ただし、NGが出た時にできるだけ素早く撮り直しができるように、あのような演出にしたのだろうなとは理解できる。だが、クライマックスの超展開はカメ止め並みのワンテイクが観てみたかった。または和人視点のPOVでも面白かったかもしれない。我々が上田慎一郎に求めるのは無難な映画ではなく、実験的な映画なのである。カメ止めも手法や演出が新しかったのではなく、それらを意表を突く形で繋ぎ合わせたところに面白さがあった。もっと上田監督はもっと自分のクリエイティビティに忠実になるべきだ。

 

また裏教典の中身が拍子抜けであった。てっきり、薬物による催眠誘導や各都道府県で賄賂の効く警察や政治家のリストなのかと思っていたが・・・ この程度で「ヤバいもん」というのは誇大広告であろう。

 

あとはもう少しのリアリティが必要だろうか。現代人は何をするにしても、まずはPCやスマホで対象を検索する。カルト教団のムスビルを検索するのであれば、その他も検索対象になってしかるべきだろう。もちろん、逆SEOの跡もうかがえたが、やはりそこは2ページ目以降にすべきだったのではないか。

 

総評

カメ止めの切れ味が蘇ったわけではない。それはおそらく無理な注文である。だが本作は平均以上の面白さを感じた。上田慎一郎はOne Hit Wonder = 一発屋ではないことを証明したと言えるだろう。『 イソップの思うツボ 』にがっかりした向きも、本作にならある程度は満足させてもらえるはずだ。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

This company pays you by the day.

 

金銭的に困窮している数人がスペシャルアクターズに入ることを決心した言葉「ここ、給料、とっぱらいだよ」の英訳例。「とっぱらい」=その日払いということで、pay by the dayとなる。韻を踏んでいるので覚えやすいだろう。

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『 イエスタデイ 』 -パラレル・ユニバースものの佳作-

エスタデイ 70点
2019年10月19日 大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:ヒメーシュ・パテル リリー・ジェームズ エド・シーラン ケイト・マッキノン
監督:ダニー・ボイル

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Jovianが生まれた時には、ビートルズはすでに解散していた。しかし、彼らの残した影響の巨大さは空前絶後であろうと思う。Jovianは父の薫陶よろしきを得てロッド・スチュワートのファンとなったが、ビートルズエルトン・ジョンビリー・ジョエルカーペンターズジャニス・ジョプリンティナ・ターナーなども好んで聴くようになった。そうした幼少期が今の職業の肥やしになっている。今さらながら父に感謝。

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あらすじ

ジャック・マリク(ヒメーシュ・パテル)は売れない歌手兼ギタリスト。幼馴染のエリー(リリー・ジェームズ)は彼のマネジメントをしているが、マリクは泣かず飛ばずのまま。あるフェスの帰り、マリクが音楽からの引退を決意した夜、世界中で謎の停電が起き、運悪くマリクはバスにはねられる。病院でマリクは目覚めるが、そこはビートルズが存在しなかった世界になっていて・・・

 

ポジティブ・サイド

ボヘミアン・ラプソディ 』や『 ロケットマン 』、未鑑賞だが『 エリック・クラプトン 12小節の人生 』や『 ホイットニー ~オールウェイズ・ラヴ・ユー~ 』など、故人であるか存命であるかを問わず、ミュージシャンの人生にフォーカスした作品が近年、多く作られてきている。その中でも本作はユニークである。ビートルズという伝説的なバンドをフィーチャーするのではなく、彼らが存在しないパラレル・ユニバースを描くことで、その存在の希少性、功績の巨大さを逆説的に浮かび上がらせようという試みが面白い。

 

ロケットマン 』でも、名曲“Your Song”誕生の場面を我々観客が目撃した時、鳥肌が立つほどの衝撃を受けたが、本作のタイトルにもなっている“Yesterday”をマリクが披露する場面では、リリー・ジェームズを始めとする登場人物たちが同じような衝撃を受けていた。さらにビートルズというバンドとその音楽の芸術性と完成度の高さを表現するための手段として、本作はエド・シーランを本人役で出演させている。この試みも面白い。当代随一のアーティストを映画に出演させることは、『 はじまりのうた 』がMaroon 5アダム・レヴィーンを起用したように、また今後公開予定の映画『 キャッツ 』がテイラー・スウィフトを起用しているように、それほど珍しいことではない。しかし、彼ら彼女らは本人役ではない。現代アーティストと史上最高とされるバンドを、パラレル・ユニバースという異論の出にくい環境で比較するというアイデアは、もっと称賛されてしかるべきだろうと思う。

 

主演を張ったヒメーシュ・パテル演じるジャック・マリクは、どこかフレディ・マーキュリーを感じさせてくれる。つまり、移民の子で第一世代のイングランド人で、白人のガールフレンド(的な存在)がいて、学歴があり、音楽に打ち込んでいる。そんな男がビートルズの楽曲を使って、世界を席巻していく様は痛快である。と同時に、成功の代償に手放してしまったものの大きさに気付いて後の祭り・・・というところもフレディ・マーキュリー的だ。これは陳腐ではあるが、しかしストーリーに自分を重ね合わせやすくなるという利点もある。特殊な設定の世界であっても、物語そのものは理解しやすくなっているということで、Jovianとしてはこの点をプラスの方向に評価したい。その特殊な設定の世界という点でも、とある超有名バンドが存在しなくなっていたりして、芸が細かい。

 

またリリー・ジェームズの献身的な姿勢と、それゆえに彼女が自分の職と土地から離れられないジレンマは、ベタではあるが観る者の胸を打つ。幼馴染で友達以上恋人未満という絶妙な距離感の女性を、彼女は確かに描出した。終盤の鍵穴のシーンにもニヤリ。我ながら、男というのはアホな生き物であると感じながらも、ジャックとエリーを心から祝福したい気分にさせてくれる。

 

本作ではビートルズの数ある傑作の中でも名曲中の名曲と誉れ高いある歌が、歌われそうになっては中断されてしまうというコメディ的な展開がある。その歌のタイトルと、マリクとエリーの関係、そして最後に降臨する人物の語る言葉の意味を繋ぎ合わせれば、本作のメッセージの意味はおのずと明らかになる。タイトルにもなっている“Yesterday”だけではなく、終盤の入り口で盛大に発表される曲は、マリクの心の叫びと完全にシンクロしているが、歌われることのなかったあの曲こそが、全編を通じて実は奏でられ、歌われていたのである。素晴らしい構成である。

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ネガティブ・サイド

ローディーを務めてくれる親友役が、いつの間にかそれなりに有能な奴に見えるのは何故なのだ。いや、有能であることは構わない。しかし、ほんの少しでよいので、この男の成長というか、ジャックとの二人三脚の様子をもう少し活写してくれないと、ジャックが成功への階段を上っていくプロセスにリアリティが生まれない。

 

ケイト・マッキノンのキャラクターも紋切り型に過ぎる。彼女は悪い役者ではないが、今作では光らなかった。『 ボヘミアン・ラプソディ 』や『 ロケットマン 』を通じて、我々は稀代のアーティストにはろくでもない敏腕ではあるが人間としては低俗なマネージャーがついていることを既に承知している。このキャラクターがエリーの対比になっていることは分かるが、エリートの共通点があまりにも無さ過ぎる。その点で、マリクが彼女との契約に合意してしまったシーンのリアリティが低下してしまっている。そこが残念である。

 

総評

原理主義的なビートルズのファンを除けば、誰にでもお勧めしたい映画である。ただし、ビートルズの音楽をこれっぽっちも素晴らしいとは感じないという人は(かなりのマイノリティだろうが)、鑑賞する必要はない。本作はビートルズの音楽の素晴らしさを再認識・再発見する一種の装置であると同時に、巨大な“遺産”を手に入れた個人がどう生きるべきかを問うビルドゥングスロマンにしてヒューマンドラマでもある。ビートルズの楽曲を一切聴いたことがないという若い世代にも、ぜひ観て欲しいと心から願う。

ちなみに本作を鑑賞した帰りに寄ったラーメン屋の有線放送で『 Hello World 』のテーマソングだった Offcial髭男dismの”イエスタデイ”が聞こえてきた。奇縁である。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

That’s music to my ears.

 

学校で教えているエリーが、生徒の答えを聞いてこのように返す。Thatやmyは適宜に入れ替わることがあるが、この形で用いられることがほとんどである。直訳すれば、「それは私の耳にとっては音楽である」だが、実際のニュアンスとしては「それが聴きたかった」、「素晴らしい返答/答え/ニュースだ」である。洒落た表現であるし、音楽を基軸にした本作から紹介するのにふさわしい慣用表現だろう。

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