Jovian-Cinephile1002’s blog

古今東西の映画のレビューを、備忘録も兼ねて、徒然なるままに行っていきます

『 ティーンスピリット 』 -ドラマも音楽も盛り上がらない-

ティーンスピリット 20点
2020年1月12日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:エル・ファニング
監督:マックス・ミンゲラ

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200114011641j:plain

 

Jovianはエル・ファニングのファンである。しかし、それでも言わなければならない。これは駄作である。完全なる失敗作である。2020年は始まったばかりだが、海外クソ映画オブ・ザ・イヤー候補の最右翼であると言える。

 

あらすじ

ヴァイオレット(エル・ファニング)は英国に暮らす、歌手を夢見るポーランド系移民。ある時、“ティーンスピリット”の予選が地元で開催されることを知ったヴァイオレットは、オーディションに申し込みを行う・・・

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200114011703j:plain
 

ポジティブ・サイド

オープニング直後にエル・ファニングが歌う“I was a fool”という歌は雰囲気があった。ストーリーの向かうところを暗示するEstablishing ShotならぬEstablishing Songだった。

 

またクライマックスの“Good Time”からのファニングの独唱そして熱唱は、『 ソラニン 』よりも上、『 リンダ リンダ リンダ 』に並ぶカタルシスをもたらしてくれた。

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200114011724j:plain

 

ネガティブ・サイド 

Jovianが古い人間なのだろうか。今世紀の歌手の歌の数々にあまり魅了されなかった。『 アリー / スター誕生 』でも同じことを感じたが、音楽映画であるにもかかわらず、無条件に入っていける、ノセテくれる楽曲があまりにも少ないのは致命的である。そういう意味では『 ボヘミアン・ラプソディ 』や『 ロケットマン 』、『 イエスタデイ 』は秀逸だった。

 

また、このタイトルからは何をどうやってもNirvana“Smells Like Teen Spirit”を想起せずにはいられない。しかし、映画全体を通じてカート・コバーンのような「叛逆」や「打破」といった荒ぶるパワーは感じられなかった。もっと言えば、アイデンティティに悩む10代特有のドラマがない。敬虔なカトリックであるヴァイオレットの母親とヴァイオレット自身の距離感の描写が不足しているし、学校で特別に影が薄い存在として描かれているわけでもない。家庭や学校でヴァイオレットが疎外を感じる描写や演出があまりなく、ヴァイオレットが馬の世話と音楽に逃避することへの説得力が生まれていない。その馬が買われていく時にも、取り乱しはするものの、鬱になるでもなく、さりとて音楽の力で立ち直るでもない。オープニングで、ブルーアワーの牧草地で馬を世話しながらiPodの音楽に耽溺する様はいったい何だったのだろうか。

 

ヴラドというキャラクターの構築も中途半端だ。呼吸法のレクチャーには、亀の甲より年の功といった趣が感じられたが、それだけ。元プロのオペラ歌手として、精神論以外のアドバイスを送ることはできなかったのか。大手レーベルとの駆け引きでも、クロアチアで培った経験や業界の裏事情通であるところなどを披露し、ナイーブでいたいけなヴァイオレットを金の亡者の大人たちから守るのかと期待させて、それもなし。唯一褒められるのは、甘やかされてダメになりそうなクソガキをぶっ飛ばしたところだけ。

 

ヴァイオレットの成功があまりにトントン拍子で、彼女自身が抱えていた問題の描写も弱いことから、サクセス・ストーリーがサクセス・ストーリーに見えない。同じく音楽にフォーカスしていた『 ボヘミアン・ラプソディ 』や『 ロケットマン 』、『 イエスタデイ 』は、成功を掴めば掴むほどに、自身の抱える心の闇がより深まっていくことがはっきりと描写されていた。だからこそ、最後のステージでカタルシスが爆発した。ヴァイオレットは違う。元々抱えていたアイデンティティの問題や学校や家庭での疎外もいつの間にやら解消、というかそんなものは最初からなかったかのようである。

 

これにより、ヴァイオレットが自らの人生に欠いているpositive male figureとしてヴラドを受け入れるようになる、というプロットが空回りしている。ネックレスの件も同じである。実の父親を心のどこかで求めていながら、しかし、父親代わりの人物を実の父以上に慕うようになるという下地が描かれていない。ヴラドが母親に花束を贈っただけでは説得力など生まれない。それともお互いにポーランドクロアチアからの移民で、同病相哀れむということなのだろうか。母子家庭であるヴァイオレットの家族と、ヴラドと自身の娘の関係の描写がとにかく薄くて浅くて弱い。この出来で、ヒューマンドラマで盛り上げれと言われても無理である。

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200114011747j:plain

 

総評

エル・ファニングの熱烈ファン以外にはお勧めできない。というよりも、エル・ファニングの熱烈ファンにすらお勧めしづらい。単に彼女の体の線が露わになるタンクトップで髪を振り乱して踊り狂うところを見たいというファンぐらいしか堪能できない作品である。脚本および監督のマックス・ミンゲラの力量不足は明らかである。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

I get that a lot.

「よくそう言われる」の意味である。ヴラドに年齢を尋ねられ、ヴァイオレットは21歳だとサバを読む。そこでヴラドに「もっと若く見えるぞ」と言われ、“I get that a lot.”と返した。このthatは、

“Let’s go for a drink after work.”

“That sounds awesome.”

のように、一つ前の事柄全般を受ける代名詞のthatである。それをしょっちゅうgetする=「よくそう言われる」となる。

現在、【英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー】に徐々に引っ越し中です。こちらのサイトの更新をストップすることは当面はありません。

I am now slowly phasing over to https://jovianreviews.com. This site will continue to be updated on a regular basis for the time being.

『 スノーデン 』 -裏切ったのは国家なのか、スノーデンなのか-

スノーデン 70点
2020年1月11日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:ジョゼフ・ゴードン=レヴィット シャイリーン・ウッドリー ニコラス・ケイジ
監督:オリバー・ストーン

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200112234758j:plain

 

Jovianが高校3年生の頃、クリスマスの季節に関西学院大学国際基督教大学から絵葉書が送られてきた。おそらく、模試の時にそれらの学校を第一志望と書いていたらからである。テストの業者がその情報を大学に売るか渡すかしていたのである。そして、高校卒業の直前、代ゼミやら駿台から「あなたの学力なら入学金無料!授業料は半額!」みたいな手紙も届いた。おそらく高校(もしくは一部の教師)が名簿を業者に売ったのであろう。それが1990年代のことである。今では個人情報やプライバシーは保護されている。建前上はそうなっているが・・・

 

あらすじ

エドワード・スノーデンジョゼフ・ゴードン=レヴィット)は愛国心から軍に入隊。しかし、負傷により除隊となる。だが彼は諦めることなく、NSA、そしてCIAに入局し、国家に奉仕していく。その中で、テロリストだけではなくアメリカ内外の一般人の情報まで監視するプログラムが存在することに彼は疑問を抱き始め・・・

 

ポジティブ・サイド

スノーデンの告発と亡命はリアルタイムでニュースになっていた。正直なところ、当時は「やっぱりね」ぐらいにしか思っていなかった。なので、本作が劇場公開された時も、スルーを決め込んでしまった。今回、はじめてこの映画を観たことで、エドワード・スノーデンの人物像に迫ることができた。伝記映画というのは対象をある程度美化するものだが、彼は紛れもない同時代人。多少の誇張はあっても美化はされていないだろう。彼の語る言葉は、充分に美しい。

 

決して肉体的に恵まれているわけでもないスノーデンが、なぜ軍に入隊することを志願したのか。アダム・ドライバーと同じである(彼はかなり大柄だが)。除隊の仕方までよく似ている。つまり、説得力がある。しかし、スノーデンの生き方に共感できるのは、彼が国家に忠誠を誓おうとするからではない。彼が国家に忠誠を誓い、国家に奉仕しようとする心が、彼自身の正義感や信条と一致しているからである。日本の右翼の言論が単なるネトウヨの妄言に埋め尽くされてしまって久しいが、個人の信念と国家の方針ならば、個人は自らの信念を優先すべきである。人類史の流れを大雑把にまとめれば

 

集団生活 → 共同体・国家の成立 → 個人の確立

 

となる。もしくは銀英伝ヤン・ウェンリーの言葉を借りれば

 

「人間は国家がなくても生きられますが、人間なくして国家は存立しえません」

 

となるだろうか。

 

本作はスノーデンの経歴を詳細に映し出す一方で、彼の私生活の描写にも時間を割いている。そこから分かるのは、彼は生身の人間であったということである。飯田譲治が小説『 アナザヘブン2 』で、殺人事件を捜査中の刑事が、妻に自分の追っている事件の詳細を話すことができず、ストレスを溜めて、暴発してしまうくだりがあった。日本でもそうだろう。自衛官の妻や夫、両親や子どもは、仕事で何をしているのか、どんなストレスを抱えているのかを聞こうにも聞けないだろう。そうしたスノーデンの苦しみを、彼の伴侶であるリンゼイを通じて我々は知る。そこにいるのはCIA職員だとかNSA職員ではなく、一人の小市民である。普通の人間である。人間の条件とは何か。思いやりがあることである。これは何も、他人に優しく接するということではない。他人も自分と同じ人間であると認められるということである。スノーデンの勤務するNSAやCIAは確かにテロ実行犯と思しき人物をマークしているのかもしれない。しかし、それらの人物を確証なく抹殺することにためらいを見せない。また自国民を監視することにも抵抗を感じていない。憲法修正第4条の精神など、どこ吹く風である。どうだろうか。スノーデンは国家を裏切ったのだろうか。それとも、国家がスノーデンを裏切ったのだろうか。

 

スノーデンが母国を捨ててまで語りたかったこと、それもやはりヤン・ウェンリーが語っている、「法にしたがうのは市民として当然のことだ。だが、国家が自らさだめた法に背いて個人の権利を侵そうとしたとき、それに盲従するのは市民としてはむしろ罪悪だ。なぜなら民主国家の市民には、国家の犯す罪や誤謬に対して異議を申したて、批判し、抵抗する権利と義務があるからだよ」と。弱い者いじめに精を出す政権が安定して続くどこかの島国に暮らす我々は、スノーデンの発したメッセージにもっと敏感にならなくてはならない。

 

ネガティブ・サイド

分かる人には分かるのだろうが、CIAやNSAのシステムやらプログラムに関する話は、ほとんど何も理解できなかった。とにかく超巨大な通信傍受システムが秘密裏に、しかし超大規模に運用されているのだということは伝わったが、話のスケールが大き過ぎ、なおかつ使われている jargon が晦渋過ぎて、ただの小市民にはリアリティが感じられなかった。もっと、スノーデンの私生活部分にスポットライトを当てても良かったのではないか。だが、それをすると彼が恐れたプライバシーの侵害になるのが痛し痒しか・・・

 

スノーデンの告発に協力するジャーナリストたちをもう少し掘り下げても良かったかもしれない。ネームタグやCIA副長官と一緒に映っている写真などからスノーデンの identification を行うというのは、記者にしてはあまりにも脇が甘いと感じた。

 

スノーデンの日本での生活もごく短時間描かれるが、相変わらず日本の家屋の何たるかを欧米の映画人は正しく理解できていないようである。『 GODZILLA ゴジラ 』ですら、間違った日本の住居を描写していたのだから、これも仕方がないのか。

 

総評

劇中でさらりと、日本がアメリカ様によって首根っこを押さえられていることが語られている。日本は戦後一貫してバイ・アメリカンであったが、ここまで主権を侵害されていると、もはや属国である。本作はエンターテインメントであるが、それは reader よりも watcher の方が多数派だからである。オリバー・ストーン監督は多くの人々に、スノーデンのメッセージを受け取って欲しいと思っている。ならば受けとろうではないか。そして、安全とは何か、安全の代償に事由を差し出してよいのかどうか、真剣に考えようではないか。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

whistleblower

内部告発者」の意である。直訳すれば「笛を吹く人」である。サッカーで反則が行われた時、審判は笛を吹く。そう考えれば、悪いことを見逃さず、それを周囲に知らしめる人であるというイメージも湧いてくる。blow the whistle = 笛を鳴らす、というのも「不正を通報・告発する」という意味の慣用表現として使われる。

現在、【英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー】に徐々に引っ越し中です。こちらのサイトの更新をストップすることは当面はありません。

I am now slowly phasing over to https://jovianreviews.com. This site will continue to be updated on a regular basis for the time being.

『 フォードvsフェラーリ 』 -戦友と共に戦い抜くヒューマンドラマ-

フォードvsフェラーリ 75点
2020年1月11日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:マット・デイモン クリスチャン・ベール
監督:ジェームズ・マンゴールド

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200112171325j:plain
 

タイトルはやや misleading である。アメ車のフォードとイタ車フェラーリの戦いというよりは、フォード社内のイニシアチブ争いがメインになっている。そういう意味では『 OVER DRIVE 』というよりは、『 七つの会議 』&『 下町ロケット 』的である。もちろん、カーレースは迫力満点で描写されており、アクション面でも抜かりはない。

 

あらすじ

フォード社はフェラーリ社を買収しようとするも失敗。フォード2世はその腹いせにフェラーリを公式レースで破ることを決意。ル・マン24優勝経験者のキャロル・シェルビー(マット・デイモン)を登用する。シェルビーはドライバー兼開発者のケン・マイルズ(クリスチャン・ベール)と共に、新車の開発に邁進するが・・・

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200112171539j:plain
 

ポジティブ・サイド

マット・デイモンが光っている。元ドライバーとしての炎がくすぶっていながら、健康上の理由でレースには出られない。カリスマ性と口舌で車のセールスマンとして成功しながらも、勝負師として完全燃焼しきれないというフラストレーションが隠せていない、そんな男を好演した。このレーサーでありながら会社員という二面性が、シェルビーというキャラクターを複雑にし、また味わい深い人物にしている。サラリーマンがロマンを感じやすく、なおかつ親近感を覚えやすいのである。

 

そんなシェルビーのsidekick を演じたケン・マイルズも渋い。ふと、『 ベイビー・ドライバー 』のベイビーは、ケンの孫、つまりピーターの息子なのかな、などとあらぬことも考えた。スポーツカーはスポーツカーらしく乗れと顧客に言い放つのは、傲慢さからではなく、クルマへの純粋な愛着からである。そのことは、自分のクルマを“she”と呼ぶことからも明らかである。男性は自分の乗り物をしばしば愛車や愛機と呼ぶのである。だからといってケンがクルマ一辺倒の男だというわけではない。彼にはプロフェッショナリズム以上に妻と息子への愛情があり、チームへの信頼がある。開発中のクルマのパーツや性能の不満をあけすけに語るのは、それをチームが改善できると確信しているからだ。

 

この現場組と、フォード2世をはじめとする経営側、つまり背広組の間のイニシアチブ争いがプロットの大きな部分を占めている。フェラーリ買収の失敗はドラマの始まりであり、1966年のル・マン24時間レースは、ドラマの大きな山であるが、本筋は男たちの友情と、ある種の権力闘争である。営業と企画、支部と本社など、普通のサラリーマンが入りこめる話である。特に、現場のリーダーであるシェルビーに己を重ね合わせる一定年齢以上の会社員は多いのではないか。中間管理職として胃が痛くなるような展開が続き、ただでさえ心臓に爆弾を抱えているようなものなのに、胃にまで穴が開いてはかなわない。そんなシェルビーがル・マンのレースで、犯罪スレスレの行為で敵チームをかく乱する一方で、フォード社の獅子身中の虫とも言うべき副社長を相手に一歩も引かない対決姿勢を鮮明にする。このような男を上司にしたい、またはこのような男を同僚に持ちたい、と感じるサラリーマンは日本だけで300万人はいるのではないか。

 

レースシーンも迫力は十分である。特に7000rpmの世界は新幹線のぞみ以上の世界で、人馬一体ならぬ人車一体の世界である。“There's a point at 7,000 RPMs where everything fades. The machine becomes weightless. It disappears.”というシェルビーの呟きが何度か聞こえるが、何かもが消え去った世界でケン・マイルズの脳裏に浮かんだものは何であったのか。それは劇場でご確認いただきたい。

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200112171600j:plain
 

ネガティブ・サイド

レースシーンの結構な割合がCGである。CGの醸し出すウソ臭さは、気にする人は気にするし、気にしない人は気にしない。Jovianは気になってしまうタイプである。ちょうどグランフロント大阪ピクサー展でサーフェシングやライティングについて見学をしてきたというタイミングの良さ(悪さ?)もあったのかもしれないが。

 

背広組で唯一、現場の力になろうとするリー・アイアコッカジョン・バーンサル)の存在感が皆無である。上層部へのプレゼンの失敗フェラーリの買収交渉失敗、副社長の現場介入阻止の失敗と、失敗続きである。これが史実なのだろうか。もうちょっと美化した描き方はできなかったのだろうか。

 

翻訳に一か所、間違いを見つけてしまった。新聞のヘッドライン“FORD LOSES BIG”が,

「 フォード、巨額の損失 」と訳されていたが、これは誤りである。正しくは、「フォード、(レースで)惨敗」である。林完治氏のポカであろう。

 

総評

これは血沸き肉躍る傑作である。レースのスリルと迫力よりも、モノづくりに全精力を惜しみなく注ぎこむ男たちのドラマを楽しむべきである。男と男が分かり合うためには激しい言葉をぶつけあうことも必要だが、取っ組み合いの喧嘩の方が早い場合もある。我々がシェルビーとマイルズの関係に魅せられるのは、二人が子どものまま大人になっているからなのだ。男一匹で観ても良し、夫婦でもカップルでも良し、家族でそろって観るのも良しである。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

I’ll be damned.

「こいつは驚いた」というニュアンスの表現である。かなりインフォーマルな表現である。とにかくビックリした時に使おう。“I’ll be damned.”だけでも頻繁に使われるが、 I’ll be damned if ~ という形で使われることも多い。

I’ll be damned if he knocks out the champion.

I’ll be damned if I fail this test.

現在、【英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー】に徐々に引っ越し中です。こちらのサイトの更新をストップすることは当面はありません。

I am now slowly phasing over to https://jovianreviews.com. This site will continue to be updated on a regular basis for the time being.

『 シライサン 』 -可もあり不可もあるホラー-

シライサン 50点
2020年1月11日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:飯能まりえ 稲葉友
監督:安達寛高

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200112003729j:plain
 

貞子 』が無残な駄作に堕ちてしまった2019年。2020年は、新たなジャパネスク・ホラーの勃興が期待される。そこへ本作である。結果としては、可もあり、不可もある作品であった。

 

あらすじ

瑞紀(飯豊まりえ)はレストランで食事中に、親友の眼球が破裂し、心不全を起こすというが不可解な死に方をするのを目撃してしまった。同じ大学の春男(稲葉友)の弟も、同じような死に方をしていたと知った二人は、調査に乗り出す。そこで分かったのは「シライサン」という名の女性にまつわる怪談だった・・・

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200112003751j:plain
 

以下、マイルドなネタばれ記述あり

 

ポジティブ・サイド

日本には昔から、「だるまさんがころんだ」や、ゲーム『 スーパーマリオブラザーズ3 』以来おなじみの“テレサ”など、見ていれば近づいてこないという存在があった。しかし、それをホラー映画のネタにしようというのは斬新である。まさに、古い革袋に新しい酒である。この発想は、『 イット・フォローズ 』の、遠くからゆっくりと毎回違う姿で近づいてくる“それ”の突飛さや斬新さと並ぶと思う。

 

また、半陰半陽の貞子の後継者として、近親相姦の繰り返しの結果として誕生してきたと示唆されるシライサンの設定も悪くない。異様に大きな目というのも、遺伝子の異常で説明がつきそうだからである。またシライサンが、しゃなりとした身のこなしでチリンと鈴を鳴らすシーンはかなり怖かった。『 地獄少女 』でブレイクダンスを踊った変なハゲチャビン爺さんは、シライサンの爪の垢を煎じて飲むべきである。

 

「目をそらすな」というのは、慣れてしまえば簡単そうに思えるが、あの手この手で目をそらさせようというシライサンはなかなかに策士である。人間の心の隙や弱さというものをよく理解している。特に忍成修吾演じるライター間宮への責めは反則スレスレではないか。そして、クライマックスの春男への責めは反則ではないか。しかし、怪異というのは理不尽なものである。これで良いのである。

 

巻き込み型の怪談は、昔からの定番である。本作はイヤホン360上映のお知らせを開演前に行ってくれるが、その通知から『 シライサン 』の世界は始まっている。20世紀FOXが『 ターミネーター ニュー・フェイト 』などで見せたように、映画上映前から映画世界がスクリーンに展開されていく。単純な仕掛けであるが、このような工夫は歓迎したい。また、エンディング・クレジットも見逃してはならない。特に脚本家の名前に注目されたい。以上である。

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200112003811j:plain

 

ネガティブ・サイド

様々な描写が中途半端である。シライサンが呪いの対象者を死に至らしめる過程が、特にそうである。目玉を抉りとって潰す様を全部映してしまうというスプラッタ路線で行くか、効果音や叫び声などを最小限に抑えて、観客の想像力を最大限に刺激するような心理的な細工を徹底する路線で行くか、何らかのポリシーを貫いてほしかった。死に方が怖いのではなく、シライサンの顔が不気味であるという怖さになってしまっていた。

 

またシライサンは一種のミームであると考えられるが、その呪いのルールを解明することにもっと時間を費やしてよかった。シライサンの呪いがどのように伝播するのかをもっと検証するべきだった。『 リング 』の怖さは“そのビデオを見たら一週間後に死ぬ”ということで、面白さはどんな“オマジナイ”でその死を回避できるかを探るということだった。同じく、シライサンに関しても、考察をもっと深めるべきだった。ミームとしてのシライサンをfidelity=忠実さ、fecundity=繁殖力、longevity=寿命の全て、またはいずれかの観点から分析するべきだった。例えば、シライサンの呪いの成立する為には、どの程度正確に怪談を語らなければならないのか、あるいは怪談の形式ではなくとも、話の筋さえ合っていれば良いのか、それともシライサンという怪異が存在するということだけを知ればよいのか、などの分析・考察に瑞紀と春男、そして間宮は奔走するべきだった。ホラーは、理詰めでどうにもならない部分と、理詰めでなんとかなる部分のバランスを、適切に配分することで生まれるからである。

 

そして、肝心のシライサン対策が忘れることだとは・・・ ご都合主義にもほどがある。また瑞紀の考え付くシライサン対策が、まんま『 トゥルース・オア・デア 殺人ゲーム 』 の対策と同じである。もっとオリジナルでユニークなアイデアが欲しかった。

 

最後に細かい指摘を三つだけ。

 

1.GoogleマップGoogleアースを使え。

2.現役の大学生は「大学時代からの友人」とは言わない。

3.愛する人が死んでいいことが一つだけある話、必要か?

 

総評

貞子や伽椰子の後継者になれるかどうかは分からない。それは映画ファンは一般大衆が決めることである。だが、シライサンはジャパネスク・ホラーの歴史の一ページを刻んだことは間違いない。それなりに恐怖を感じさせるし、主演の二人も素人っぽさを醸し出す演技は、ホラーのテイストによく合っていた。ディープなホラー映画ファンには自信を持ってお勧めはできないが、カジュアルな映画ファンにはお勧めをしたい。カップルのデートムービーにも使えるだろう。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Don’t look away.

「目をそらさないで」の私訳である。Lookときたら、atかforというのが中高の英語の定石だろう。しかし、lookには様々な語がくっついて、その意味を豊かに膨らませる。Awayもその一つで、look away=目をそらす、である。『 デッドプール 』でデットプールが、エージェントをぶちのめす前にカメラに向かって、また最終決戦前に下着を脱ぐ前にネガソニックに、“Look away.”と言っていた。

現在、【英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー】に徐々に引っ越し中です。こちらのサイトの更新をストップすることは当面はありません。

I am now slowly phasing over to https://jovianreviews.com. This site will continue to be updated on a regular basis for the time being.

『 箱入り息子の恋 』 -細部とクライマックスに難あり-

箱入り息子の恋 50点
2020年1月10日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:星野源 夏帆
監督:市井昌秀

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200111013022j:plain

 

劇場公開されたのは2013年の作品である。日本の少子化、それを加速させる要因の一つである未婚および晩婚化の傾向を描いているわけではないが、主役の星野源は、阿部寛とは全く異なる意味での『 結婚できない男 』の属性が付与されている。ただ、正しくは『 結婚の準備ができていない男 』というべきなのだろう。なかなかに面白いドラマであった。

 

あらすじ

天滴健太郎星野源)は年齢=彼女いない歴の、うだつの上がらない市役所職員。そんな息子を見かねた両親は、代理見合いパーティーに出席し、今井夫妻の娘、菜穂子(夏帆)と健太郎の見合いをセッティングする。しかし、見合いの場で初めて分かったのだが、菜穂子は全盲だった・・・

 

ポジティブ・サイド

星野源が非常になよなよしている。これは褒め言葉である。無表情で、声も小さく、職務に精勤してはいても昇進は一度も無し。そして趣味は貯金。こうした属性に共感できる男性は実は多いのではないか。養老孟司が何かのエッセイで「しつけというのは、本来は不自然なもの。「 男の子に、『 男の子らしく外で遊べ 』と言うのは、そう言わないとインドア派に育つから。女の子に、『 女の子らしくおしとやかにしなさい 』と言うのは、そう言わないと活発に育つから 」と書いていたのを思い出した。つまり、星野源演じる健太郎は、ある意味ではとても自然な男の姿なのだ。甘やかされて育てられたという背景も臭わされるが、非常に現代的な日本男児の姿が見えた。本作はそんな健太郎ビルドゥングスロマンなのである。

 

男が変わる契機というのは、現実でもフィクションでも大体は女絡みと相場は決まっている。天滴という名字が牽強付会にも思えるが、健太郎と菜穂子の最初の出会いはそれなりに印象的だったし、二回目のお見合いも開始1分で修羅場に突入というテンポの良さ。当事者不在で火花を散らす親同士に、案外日本の少子化の原因の一つはこれなのかもしれない、などと考えた。つまり、親が子どもなのだ。親が幼稚なままなら、その子どもも、子どもは作らんわなと思う。

 

Back on track. 非モテの高齢童貞と全盲の美女との関係が徐々に発展していく過程は悪くなかった。一歩間違えれば『 タクシードライバー 』のトラヴィスのようなアホなデートになってしまってもおかしくないのだが、吉野家が絶妙なバランスの上で良い味を出している。テーブルの店でいきなり隣同士に座るのは難しいが、吉野家のようなカウンター席主体の店なら、隣同士に座れる。吉野家というのは殺伐とした、女子供はすっこんでいるべき場所のはずだが、菜穂子にはそんなものは関係ない。このロマンチックさのかけらもないデートがこの上なくロマンチックに映るのは、星野源のカッコ悪さと夏帆の飾らない可憐さのバランスが取れているからであろう。健太郎は菜穂子も、筋金入りの箱入りであるという意味では似た者同士なのである。この不器用な二人の歩みは、2020年代でも共感呼べることだろう。

 

ネガティブ・サイド

夏帆の盲目の演技は普通に良かったが、演出がそれをダメにしている。『 マスカレードホテル 』はヒントとしてそれを行っていたが、本作はうっかりだろう。もしくはそこまで考えていなかったか。全盲の菜穂子が夜にピアノを弾く時に、なぜ電気をつけているのか。普通はつけない。『 セント・オブ・ウーマン/夢の香り 』でも『 見えない目撃者 』でも、全盲の人間は自分のプライベートな空間では、夜でも照明は必要としないのである。初めてのラブホテルの室内が暗かったので、余計に気になってしまった。

 

また、健太郎の趣味が格闘ゲームとカエルの飼育だけ、というのも気にかかった。というのも、あまりにも察しが良いからである。菜穂子は健太郎に「言葉にしてくれて嬉しい」と伝えた。対照的にするなら、菜穂子は言葉に出しづらいので態度や仕草、たとえば健太郎の手を取り、手のひらを自分のほほに置かせる、あるいは期するところありげに小さく舌なめずりをしてしまう(少しはしたないか・・・)、もしくは相手の胸に顔をうずめるでも何でもよい。もじもじした様子だけで朴念仁の健太郎が察するというのには違和感を覚えた。健太郎の趣味に映画鑑賞や小説を読むことなどがあれば、まだ納得しやすかったのだが。

 

また、韓国ドラマや韓国映画的な唐突な交通事故というのは、あまりにもクリシェである。しかも悪いのは菜穂子ではなく、どう考えても運転手だろう。大杉漣黒木瞳の迫真の修羅場に水を指す、不自然極まりないイベントであった。

 

最終盤はギャグである。飼育槽から何とか脱出しようと試みるカエルは、まさに健太郎という“男性自身”である。だが、それなら何故、健太郎と菜穂子のまぐわいの在り方にまでこだわらないのか。メスに後ろから覆いかぶさるのがカエルのオスなのではないか。ドレープカーテンを使ったペッティングは、カエルではなくナメクジに見える。非常にシネマティックでロマンチックなシーンであるはずなのに、ただのギャグにしか見えない。演出が何もかも中途半端なのである。そして全盲の成人の部屋のベランダの柵がそんな落ちやすく作られているわけがない。菜穂子の父親はカネなら充分持っているはずだし、菜穂子の為に家のリフォーム代をケチるような男ではない筈だ。ベランダからの転落にはリアリティがまったく存在しない。無理やりで滅茶苦茶なまとめ方である。

 

総評

障がい者との付き合い方について一考を促される作品である。また、草食系などと呼称される男性や、その家庭の在り方などについても、まあまあ上手く描けているように思える。何よりも夏帆が可憐である。百戦錬磨の感じが出ていないのが新鮮である。細部のリアリティが色々と欠落しているが、全体的にはきれいにまとまった作品である。ラブシーンもあるが、高校生ぐらいからなら視聴しても問題ないだろう。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

When A Man’s In Love

www.youtube.com

歌詞はここでどうぞ。

健太郎は表情にもジェスチャーにも乏しい男だが、男が恋をした時にはこの歌のようになるものである。健太郎も内面はそうだったはずだ。

以下は真面目なレッスン。

A special needs person / A person with special needs

本ブログでも「障害者」とは書かずに、「障がい者」と表記するようにしているが、英語でもhandicapped personやdisabled personとは最早言わない。A person with disabilities または a special needs person / a person with special needsという表現が一般的である。特別なケアを必要とする人、ぐらいに訳せるだろうか。れいわ新撰組によって、日本人の意識も変わってくるだろうか。

現在、【英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー】に徐々に引っ越し中です。こちらのサイトの更新をストップすることは当面はありません。

I am now slowly phasing over to https://jovianreviews.com. This site will continue to be updated on a regular basis for the time being.

『 フランシス・ハ 』 -Girls Be Ambitious-

フランシス・ハ 75点
2020年1月9日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:グレタ・ガーウィグ アダム・ドライバー
監督:ノア・バームバック

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200109221744j:plain

 

レディ・バード 』の監督グレタ・ガーウィグの主演作。モノクロ映画というのは観る側の想像力を掻き立てるものがある。

 

あらすじ

NYの街でモダン・ダンサーになることを夢見るフランシス(グレタ・ガーウィグ)は親友のソフィーと二人暮らし。しかし、ボーイフレンドとの同居を拒んだことから破局。その上、ソフィーは将来を見据えて転居することに。フランシスは仕方なく元カレの友人のルームメイトであるレヴ(アダム・ドライバー)の家に転がり込むが・・・

 

ポジティブ・サイド

主人公フランシスが何とも愛おしい。美人だからとかセクシーだからとかではない。彼女の人生は、実はまったく上手く行っていない。にもかかわらずフランシスはへこたれない。ウソでもホラでも何でもござれの奇妙なバイタリティで突き進んでいく。しかし、その方向も全然正しくない。こんなキャラクターが主人公なのに、なぜこれほどフランシスを応援したくなってしまうのか。

 

一つには彼女の目指すものがモダン・ダンサーであるということ。Jovianは職業柄、TOEFL iBTというテスト対策を教えることが多い。そこでは、しばしばアメリカ史が扱われるが、その傾向はほとんど常に“時代の転換点”である。モダン・ダンスはバレエの枠を破壊することから生まれた。フランシスは、サクラメントの片田舎出身の自分という枠を、ニューヨークで華々しく踊る自分という像でもって壊そうとしている。ダンスとは自己表現の極まった形である。ところが、これが上手く行かない。いつまで経ってもフランシスは実習生(apprentice)のままである。自分というものをさらけ出しているにもかかわらず、それが認められない。なんとも現代的ではないか。

 

もう一つには、彼女の年齢もあるのだろう。27歳というと、一昔前の日本なら所帯を持ち始めることを期待される年齢だろう。それはアメリカでも同じようである。だが、モラトリアム期間が長くなった現代、27歳は本当ならまだまだ自分の可能性を模索することに多くの時間を費やしてよい年齢にも思える。一方で、親友のソフィーが結婚に向けて動き出したように、人生の形をある程度定めることを考え始めなくてはならないのも事実である。このあたりが『 ブリジット・ジョーンズの日記 』と共通するところで、それゆえに男性よりも女性の支持や共感を得るポイントだろう。この、若いけれどもそれほど若くない、というジレンマをブリジットとは違う切り口で描いたところに本作の価値がある。

 

さらに、彼女の出身地と、実際に暮らしている場所のギャップもある。『 レディ・バード 』でも描かれていたが、サクラメントは極めて保守的な土地だ。ニューヨークとは全く異なる世界とも言えるだろう。だが、サクラメントで家族や地元の人々と過ごすクリスマスの何と充実していて、なおかつ何と寒々しいことか。濃密な交流が行われているにもかかわらず、フランシスは溶け込めない。充実した人間関係とは、親交のある人間の数ではなく、親交の深さで測られるべきなのだ。そして、非モテ=undatableとのレッテルを貼られた自分が、本当に必要としているものが何であったのかに気がつく。保守的な土地から先進的な土地に出てきた自分の考えが保守的になっていたことに、フランシスは気付く。哲学者M・ハイデガーの言う「気遣い」、日本語で言うところの「有難み」である。自分探しとは、畢竟、自分と世界との関わり方を規定するということなのだ。

 

モノクロ映画ゆえに色の表現が乏しいが、それゆえに想像力が刺激される。実際に、フランシスが腕から出血しているところはよく見えないし、実家のまな板の色が赤であることも伝わらない。しかし、バームバックの狙いはそこではない。フランシスの行く先々では、様々な人々の会話や交流が生まれるのだが、それらが必ずしも描かれない。夏合宿の寮の管理人として、廊下でうずくまって泣く少女とのシーンが好例である。大人と子どもの鮮やかな対比が描かれ、フランシス自身が自分の姿に気付く・・・というシーンは描かれない。だが、それで良いのである。世阿弥の言う「秘すれば花なり」である。想像力を刺激する。それだけで、それは素晴らしい芸術である。

 

フランシス・ハの「ハ」は、おそらく間投詞だろう。英語圏でも、よく使われる音声である。Jovianは大昔、ナムコの『 エースコンバット 』シリーズにハマっていた。その一つ、『 エースコンバット・ゼロ ザ・ベルカン・ウォー 』でWingmanのピクシーというキャラは鉄器を撃墜すると“Ha!”と叫んでいた。またディスク表面のタイトル表記も、このことを裏付けているように思う。我々が文字を大きく書くのは、それを大きな声で読んで欲しい時である。以上より、フランシスは最後の最後にフランシスに成長した。そのことに、自ら感嘆の声を上げていると考えられる。何とも素敵な演出ではないか。

 

ネガティブ・サイド

アダム・ドライバーの出番が少ない。まあ、それはしょうがない。彼が本格的に売れる前の作品なのだから。

 

二番目のルームメイトとなるベンジーがいい奴すぎる。こんな素敵な男性がいるのだろうか。Jovianは大学の四年間を男子寮で暮らしていたから分かる。こんなに良い男はめったにいない。ベンジーに一瞬でもグラリと来ないフランシスはどうかしている。一瞬の気の迷いのようなものでもよい。ベンジーとフランシスの間にロマンティックな空気が流れる瞬間があればよかったのだが。

 

最後の最後は『 オズの魔法使 』のように、一瞬だけカラーに転じても良かったかもしれないと、少しだけ思う。

 

総評

女の友情が基軸となっているが、男でも同じである。自分が何者であるのか、または何者になるのか、そのことに悩み苦しむのが若さである。奇しくも同じテーマは同じくバームバック監督の『 ヤング・アダルト・ニューヨーク 』でも繰り返されている。回り道に見えても、振り返ってみれば、それが最適なルートだった。人生とは往々にしてそういうものである。日本ではアラサー前後の男女がデモグラフィックである。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

pass up

見逃す、の意味である。テレビ番組を見逃すのではなく、チャンスを見逃すの意味で使われる。劇中では“It is too good to pass up.”=「それ(そのアパート)は良過ぎて、逃す手はないの」という具合に使われていた。またジョージ・ルーカスも『 ザ・ピープルVSジョージ・ルーカス 』で“It was an opportunity I could not pass up.”というように、この表現を使っていた。

現在、【英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー】に徐々に引っ越し中です。こちらのサイトの更新をストップすることは当面はありません。

I am now slowly phasing over to https://jovianreviews.com. This site will continue to be updated on a regular basis for the time being.

『 ロード・オブ・モンスターズ 』 -典型的C級怪獣映画-

ロード・オブ・モンスターズ 30点
2020年1月8日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:エイドリアン・ブーシェ
監督:マーク・アトキンス

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200109161003j:plain

 

TSUTAYAのボックスカバーは、思いっきり『 ゴジラ キング・オブ・モンスターズ 』をパクっていて、これはクソ映画に違いないと確信した。I was in the mood for some American garbage, especially after watching a great Korean film and a great French film.

 

あらすじ

海底資源探査の会社を経営するフォード(エイドリアン・ブーシェ)は、偶然にも巨大な“怪獣”に遭遇してしまう。マグマを血液に持つ規格外の生物“テング”に立ち向かうため、フォードは地質神話学者や沿岸警備隊と連携する。そして、テングを倒すには伝説の怪獣“生きた山”を目覚めさせるしかないと分かり・・・

 

ポジティブ・サイド

原題はMonster Island、これだけ聞くと『 怪獣総進撃 』を思い出してしまうし、敢えてそうさせようというマーケティング上の理由があるのだろう。中身はゴジラとは似ても似つかない怪獣が現れるストーリーからである。少しでもビューワーの気を惹くためなら、多少の無理めな邦題やパッケージ・デザインでも行ってまえ!というノリは買いである。

 

設定は荒唐無稽だが、劇中で披見される科学的知識や地質神話学の知見は、まあまあ納得できる。太古、“怪獣”とは地震や火山噴火、津波の謂いであったとうのは宗教学専攻だったJovianにも首肯できる意見である。

 

また遠洋に船を出す爺さんが良い味を出している。いきなり映画『 アビス 』を持ちだして、“They are down there. = 未知の生命は海底にいる”と呟く様は渋い。海の男は、海を知り尽くしているという雰囲気よりも、海はどこまでも奥深い領域であると弁えた雰囲気を湛えているものなのだろう。その方が東洋の世界観の産物である“怪獣”とよくマッチすると、あらためて思わされた。

 

ネガティブ・サイド

科学的な知識はそれなりに正しいのに、主人公たちは自分で使っている機材やテクノロジーについての設定をすぐに忘れてしまう。間抜けにも程がある。海中探査用ROVの映像には1分のタイムラグがある、と冒頭で説明しておきながら、その後の描写ではほぼリアルタイムで映像を見ているとしか思えない反応を示す。監督兼脚本のM・アトキンスは何をやっているのか。また40メートル級の津波はどこへ行った?

 

またテングの質量が250万トンというのは無茶苦茶にも程がある。最新ゴジラが9万トンなのだから、その30倍弱の重量というのは規格外過ぎる。怪獣映画の基準はゴジラであるべきで、そこから逸脱しすぎるとファンタジーになる。

 

またテングの卵から生まれるのが、似ても似つかぬクリーチャーというのは何故だ?テングがヒトデで、なおかつメスで、オスを探しているのではないか?という仮説は「お?『 GODZILLA ゴジラ 』のMUTO的な展開か?」と期待させてくれたが、それもなし。興奮を煽っておきながら、おあずけされるとはこれ如何に。怪獣映画ファンはマゾでないと務まらないのか。

 

そしてクライマックスの“テング”と“生きた山”の激突とその結末は・・・とんでもない拍子抜けである。男性キャラクターはあっさりと死ぬ、というポリシーを持っていた本作であるが、最後の最後に来てそれを引っ繰り返した。これをドンデン返しと受け取れというのは、いくらなんでも無理である。ポリシーは一貫してこそポリシーである。ひどいクソ映画であり、ひどいクソ結末である。

 

総評

超低予算、超短期間撮影、超ローテクで作った割には、クソ映画レベルにまとまっている。決して、超絶駄作ではない。怪獣好き、洋画の中で唐突に日本語が聞こえてくるのが好き、という変わった趣向の持ち主なら楽しめるかもしれない。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

They are down there.

英語のWe, You, Theyというのは奥深い人称代名詞である。日本語ではWeの用法があるが、それは主に企業や組織で使われている。保険会社やクレジットカード会社のコールセンターのオペレーターは例外なく「私ども」という言葉を使うが、複数形にすることで組織代表になるわけである。Theyには、その場にいない者たち全般の意味となり、SF映画生物学者天文学者たちはしばしば

“We are not alone. But where are they?

という問いを立てる。「我々地球人は(この広い宇宙の中で)孤独ではない。だが彼ら=宇宙の他の生命体たちはどこにいるのだ?」の意である。ここまでスケールが大きくなくとも、Theyというのは英語ネイティブがあらゆるレベルで頻繁に使う言葉である。これを自然に使えるようになれば、英会話力は中級以上である。

現在、【英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー】に徐々に引っ越し中です。こちらのサイトの更新をストップすることは当面はありません。

I am now slowly phasing over to https://jovianreviews.com. This site will continue to be updated on a regular basis for the time being.