Jovian-Cinephile1002’s blog

古今東西の映画のレビューを、備忘録も兼ねて、徒然なるままに行っていきます

『月に囚われた男』 -月という二面性の表象-

月に囚われた男 65点

2018年3月10日 レンタルDVDにて観賞

出演:サム・ロックウェル ケビン・スペイシー

監督:ダンカン・ジョーンズ

 

 この5年だけでも、人類の月に関する知識やイメージはどんどんと再構成されていっている。月の空洞、月の発光現象、月の誕生にまつわる仮説(ジャイアンインパクト説が書き換えられる日もそう遠くなさそうだ)、極地の氷の存在・・・ 月は最も身近な天体にして、いまだにその正体がよく分かっていない地球の兄弟姉妹、もしくは子どもなのだ。しかし、月に関して確実に分かっていることもいくつかある。大きさや質量、その組成などだ。非常に興味深い事実、または常識として、月は常に地球に同じ麺を向けている。自転と公転の周期が一致しているとも言えるが、とにかく地球から月の裏側が決して見えない。月には隠れた領域がある。つまり、月は二面性の象徴である。これが本作のテーマであろうと思う。

 サム・ロックウェル演じる3年契約の派遣労働者サム・ベルは月面基地に住みながら、黙々と資源採掘と地球への輸送業務に従事していた。相棒は人工知能のガーティ(声はケビン・スペイシー)。ところがある日、事故に遭い、気がつくと自分と瓜二つの男が基地内にいる。あいつは俺なのか・・・?

 この謎そのものはそれほど長く引っ張られるわけではない。恩田陸の小説『月の裏側』みたいな精神的・心理的なホラー展開も無いので、そちら方面に耐性の無い方でも楽しむことができる。ただ、何を以ってホラーと呼ぶべきか、その定義は曖昧模糊としていることは認めなければならないが・・・

 月というある意味では究極の極限環境に独り。そこに現れた異物が自分だったら?人は人と分かり合えなかったり、傷つけあったり、それでも良好な関係へと改善させていったりということができるが、相手が自分なら?自己と非自己の境目はどこにあるのだろうか。主に西洋哲学が二千年に亘って発し続けてきた問いである。目に見えているもの、感覚が捉えられるものの向こう側の領域、それを《超越》と哲学では呼ぶが、この映画はまさに超越の領域がどんどんと顕わになってくるその過程に真髄がある。見えなかったものが見えてくる。それこそまさに「月」の《表象》だからだ。

 そこに人工知能のガーティの存在である。今年で製作50周年記念の『2001年宇宙の旅』を思い浮かべずとも、我々は人工知能が決して協力的な存在ではないことを知っている。しかし、この映画のガーティは、ケビン・スペイシーの非常に抑えた Voice acting の効果もあり、非常にユニークな、もっと言えば親しみを感じる、融通が利くキャラクターとして、卓越した存在感を発揮する。我々が知覚できない人工知能の奥底の領域でどのような演算が働いたのか、ガーティの言動に我々は人間らしさを見出す。月面に存在する機械の人間らしさと、地球でのうのうと暮らしている生身の非人間性。その鮮やかな対比は、二人のサム・ベルの対立と協力よりも、圧倒的に衝撃的に個人的には感じられた。

 この映画の欠点というか、創作品全般に言えることだが、もっと受け手を信用してほしい。エンディングのあのナレーションなどは完全に不必要、蛇足だ。哲学的な思考を促す作品だからといって、その観賞者が必ずしも浮世離れしているわけではない。そこだけが少し残念な、SFの佳作である。