Jovian-Cinephile1002’s blog

古今東西の映画のレビューを、備忘録も兼ねて、徒然なるままに行っていきます

『検察側の罪人』 -正義と真実、全ては相対的なのか-

検察側の罪人 60点

2018年8月25日 MOVIXあまがさきにて観賞

出演:木村拓哉 二宮和也 吉高由里子 平岳大 大倉孝二 芦名星 山崎紘菜 松重豊

監督:原田眞人

 

 SMAP解散により、図らずも実現してしまったキムタクと二宮の共演、または競演。相乗効果を生んだとまでは思わないが、新鮮に映ったことは間違いない。

 タイトルが物語る通り、検察の側に罪人が存在する。法という武器を手に、容疑者を起訴する。しかし、その検察(だけではなく警察、司法などのシステム全体)が数多くの冤罪を生んできたことは誰もが知るところである。それこそ昭和の中期頃までの日本の警察および検察は、ヤクザよりも遥かに酷かったとすら聞く。何がどうヤクザよりも酷いのか。それは二宮の演技の見せ場に絡めて後述したい。

 エリート検事の最上毅(木村拓哉)は、民間高利貸しおよび不動産業を営む老夫婦の殺人事件に携わるうち、捜査線上に、自らの同級生だったとある女子の殺人事件の容疑者と目される男が浮上したことを知る。不起訴となり、過去の亡霊となっていた殺人事件の被疑者、松倉重生(酒向芳)が思いがけず現れたのである。現在の事件と過去の事件、両方を結ぶ線を探るべく、最上は信頼できる弟子とも言うべき沖野啓一郎(二宮和也)に取り調べを委任する。

 本作の主題は、検察官同士の対決であるが、その奥に潜むテーマは深く、暗い。最上は自らの信じる正義を執行するために法の定める手続きを無視し、犯し、隠蔽する。客観的な正義が存在すると信じる沖野は、その力を振るいながらも最上に師事し、最上を支持するが、そこに不正を嗅ぎつけた時、袂を分かち、対決する道を選ぶ。二つの異なる正義のぶつかり合い・・・がテーマであれば、実は話が早い。本作が追究しようとするのは、正義の相対性である。絶対の正義と絶対の正義のぶつかり合いは相対的である、と主張したいわけではない。人は、絶対の正義である信じていたものですら、あっさりと捻じ曲げてしまうような非常に強靭な、ある意味で都合の良い精神構造をしている。人は法が定める正義に粛々と従いながら、自らの信じる正義をいとも簡単に上位に置いてしまう。最上は裏社会の人間である諏訪部利成(松重豊)と持ちつ持たれつの関係なのだ。警察や検察がヤクザとズブズブというのは公然の秘密だが、そこに越えてはならない一線があるのも事実だ。それを踏み越えてしまうのは最上だけではなく、沖野もそうなのだ。検察官という職務の上で知り得た情報を、弁護側に渡すなどという無節操なことができるのならば、公安なり内調なりに転職すれば良いのである。成り行きでベッドインする事務官の橘沙穂(吉高由里子)ともども、それがお似合いだ。

 本作のもう一つのテーマは、暴力の構造を暴き出すことだ。作中でやたらと強調されるインパール作戦。無謀、無責任、無駄死に、犬死になど、兵士の命を軽んじることこの上ない作戦であった。なぜこのような命を粗末にする作戦が罷り通ってしまったのか。それは、軍の上層部は、自分たちが下士官、下級兵から反抗や反逆を喰らうことは無いと確信していたからという部分も大きい。インパール作戦の立案者は、無謀な作戦と累々の死者の責任を全うすることも無く悠々と生き、悠々と死んだ。一方で、インパールから独自の判断で撤退した師団長は、真実を証言できる法廷に立つ機会すら与えられなかった。一方が他方を一方的に殴ることができるのは、反撃が来ないことを知っているからだ。沖野は松倉に対し、過剰なまでの人格攻撃や脅迫的言辞を弄し、最上の意図する有罪のストーリー作りに途中までは加担しようとする。そこで見せる攻撃的、威圧的、高圧低、脅迫的な言動は圧倒的である。これは個人の正義感や職務上の義務感以上に、やり返されないという確信あってこその態度に思えて仕方がなかった。なぜなら、「真実を解明したいという強い動機」がそこには一切無かったからだ。そこにあったのは、最上へのリスペクトであり、自らの正義と権力を執行するというエゴイスティックな考え方だけだったからだ。

 本作の最後のテーマは、人間と、その人間の行使する力は、どこまで不可分なのかということであろう。我々は往々にして「罪を憎んで人を憎まず」と言ったりするが、実際は「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」の方が多いではないか。冤罪が証明され、裁判の勝利を祝う。それ自体は喜ばしいことである。だが、その人間が過去に罪を犯し、まんまと時効まで逃げ切っていたとしたら、我々はそれを素直に受け入れられるのか。そこまで極端な例ではなくとも、我々はしっかりお務めを果たした前科者の社会復帰を喜ぶよりも忌避する傾向の方が強いのではないか。トレイラーにもある「正義の剣」なるものが存在するとしよう。だが、その剣自体は、振るう者が正義であることを何ら証明しはしない。むしろ、我々は最上の持つ力を法律という国家権力よりも、裏社会、闇社会の人間である諏訪部とのつながりの方に見出す。最上は家族との関係も必ずしも上手く行っているわけではない。妻とセンテンスで会話もできないのだ。こうした人間が「正義の剣」を振るう様は、異様とすら映る。それこそが原田監督の意図であろう。本来、犯罪者と犯罪は別個に分けて考えるべきで、それは検察や警察にしてもそうである。検事=正しい行いをする人などというのは先入観であり偏見である。

物語のそこかしこに某ホテルチェーンとしか思えない一族の偏った思想や、どこかの島国の一党独裁政権を揶揄しているとしか思えない言葉が数多く聞かれる。そうした風刺の最も強烈なものは前述したインパール作戦であろう。これがプロット全体の通奏低音になっており、正しいと信じ抜いた道の先には死屍累々の結果しかなかった。残念ながら、これは歴史的な事実である。我々は客観的な正義や客観的な悪が存在するという思考に慣らされているが、それらは実は極めて恣意的なものであるということを本作は提示する。

登場人物たちのいくつかの行動は理解に苦しむというか、あまりにご都合主義的な面が見られるところもあり、そのあたりは減点せざるを得ない。特にいくつかのアイテムを調達しようとするキャラが、あんな大声で電話するか?とリアルタイムで訝しむ人は多いだろうし、一般人にも逮捕の権利はあるのだから、某女性キャラはその場で取り押さえられていたら、そこで何もかもが水泡に帰していただろう。そうした目立つ欠点を持ちながらも、非常にパワーのある作品であるとの評価は変わらない。一国の総理大臣が推定無罪の原則を無視して民間人を「詐欺師」と断罪してお咎めなしという亡国、もとい某国の国民は『三度目の殺人』とともに本作を鑑賞すべきだ。個人の信じる正義の拠って立つ基盤の強固さ故の脆さと、客観的な正義なるものがどこかに佇立するのだという幻想を見せつけられる。人を選ぶ映画であるが、単なるエンターテインメント以上の作品に仕上がっている。