Jovian-Cinephile1002’s blog

古今東西の映画のレビューを、備忘録も兼ねて、徒然なるままに行っていきます

『 メリー・ポピンズ 』 -1960年代ミュージカルの傑作-

メリー・ポピンズ 70点
2019年1月15日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:ジュリー・アンドリュース ディック・ヴァン・ダイク
監督:ロバート・スティーブンソン

 

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元々は絵本である。しかし日本では、おそらく歌の『 チム・チム・チェリー 』の方が有名かもしれない。一部の世代や地域の人であれば、小学校もしくは中学校の音楽の教科書に載っていたかもしれないし、今でも幼稚園や保育園では歌っているかもしれない。エミリー・ブラント主演の新作が公開される前に、復習鑑賞も乙なものかもしれない。

 

あらすじ

時は1910年、ところはロンドン。バンクス家のジェーンとマイケルは悪戯ばかりで、乳母役が次から次に辞めていく。父は厳格な銀行家。母は参政権獲得運動に没頭と、家庭を顧みない両親。ジェーンとマイケルは自分たちが望む乳母役募集の広告をしたためるも、父はそれを破いて暖炉に捨ててしまう。しかし、その紙切れは雲の上の魔法使い、メリー・ポピンズジュリー・アンドリュース)の元に届いて・・・

 

ポジティブ・サイド

ジュリー・アンドリュースの歌声の美しさ。そしてそれ以上に、彼女の演技力。決して優等生ではない子どもたちに接するに、優しさや包容力、ユーモアだけではなく、一定の厳しさ、威厳を以ってする乳母役を見事に体現した。これはそのまま『 サウンド・オブ・ミュージック 』のマリア役に結実したわけである。もちろん、ダンスの面でも卓越した技量を見せる。

 

だが、それよりもストリートパフォーマーにして煙突掃除人のバートを演じたディック・ヴァン・ダイクの歌唱とダンス、パントマイムには驚かされた。『 グレイテスト・ショーマン 』のヒュー・ジャックマンザック・エフロンよりも、エンターテイナーとして上質なパフォーマンスを披露してくれたように感じた。特に、煙突掃除人の大集団を率いる形の歌とダンスは圧巻の一語に尽きる。『 マジック・マイク 』と『 マジック・マイクXXL 』のチャニング・テイタムでも渡り合えない(マジック・マイクはそもそも歌わない・・・)。特に夕焼けを背景に掃除人たちのシルエットが躍動するシーンは印象的だった。Jovianは今でも映画で最も衝撃的な体験といえば、『 オズの魔法使 』でモノクロがカラーに切り替わる瞬間を挙げる。映画は第一に映像の美しさ=光の使い方を追求すべきものだが、1960年代に、印象的な影の使い方があったのかと感心させられた。

 

小道具や特殊効果の使い方にも工夫と手間が見られる。部屋を片付ける魔法などは当時の映画製作技術からすれば、数時間ではとても撮れなかっただろうし、大砲の振動で家が揺れるシーンも、カメラを揺らして、それに合わせて小道具を落下させたりしていたはずだ。日本でも映画製作技術が発達したことで、例えばラドンモスラキングギドラを大人数でピアノ線で操演する技術は、ロスト・テクノロジーになってしまったと言われている。CGや特殊効果全盛の今、知恵と工夫で魅せる映画は逆に新鮮である。

 

ラストで、メリー・ポピンズが傘と共に帰っていくシーンには哀愁が漂う。しかし、それさえも54年ぶりの続編を予感させるものと受け止めれば、肯定的に映る。これは良作である。

 

ネガティブ・サイド

メリー・ポピンズ登場までが長い。何と開始から21分以上、メリー・ポピンズが姿を現さない。雲の上にいるのがちらりと映りはするものの、ディック・ヴァン・ダイクの熱演をもってしても、相当に長く感じた。このあたりのペース配分には一考の余地があったことだろう。

 

また、メリー・ポピンズ初登場シーンで、面接希望で長蛇の列をなしている女性たちを魔法で文字通りに吹き飛ばしたのは、参政権運動に熱を上げたり、職を求めたりする女性を貶める意図があってのことだろうか。時代が時代とはいえ、少し気になった。ロンドンでも当時は『 未来を花束にして 』のようなムーブメントが盛んだったのは間違いないが、それが(おそらく公開当時でも笑えない)ユーモアにされているのは、現代視点からするとさらに笑えない。

 

また、銀行家たちの貴族意識、選民思想に凝り固まった姿も鼻についた。Jovianのかつての同僚にヨークシャー出身のイングランド人がいたが、彼は時々、”Americans destroyed our English.”と言って、アメリカ人の文法的に破格な英語をネタにしていた。これはユーモアだが、本作に描かれる銀行家たちの歴史観は、ちょっと笑えない。もちろん時代背景が異なることは重々承知しているが、こういった考え方をいたいけな子どもたちに注入しようとすることの是々非々は、地域や時代に関わらず常に問われるべきことであろう。古今東西の古典的な名作と言うのは、時代を超えた普遍的なテーマに挑んでいるから、古典なのである。その意味では本作は傑作ではあれど古典ではない。

 

総評

1960年代は、伝説的なミュージカルが多く生み出された時代である。『 ウェストサイド物語 』、『 チキ・チキ・バン・バン 』、『 サウンド・オブ・ミュージック 』、『 マイ・フェア・レディ 』など。それらに優るとまでは言えないが、決して劣りはしない。エミリー・ブラントによる続編が上映されるまでにDVDや配信サービスで鑑賞しておくのは、悪い考えではないだろう。

『 クリード 炎の宿敵 』 -家族の離散と再生の輪廻にして傑作ボクシングドラマ-

クリード 炎の宿敵 85点
2019年1月12日 梅田ブルク7にて鑑賞
出演:マイケル・B・ジョーダン シルベスター・スタローン テッサ・トンプソン ドルフ・ラングレン フロリアン・“ビッグ・ナスティ”・ムンテアヌ
監督:スティーブン・ケイプル・Jr.

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クリード チャンプを継ぐ男 』には、まだまだ追求すべきサブプロットがあった。アドニスのキャリアのその後はもちろん、ロッキーのホジキンリンパ腫、ビアンカのキャリアと聴力の問題、独りになってしまったメアリー・アンなどなど。それらを描きつつも、トレーラーが明かしたある名前に、ファンは騒然となった。運命の決着はいかに。

 

あらすじ

世界タイトルマッチの惜敗から、6連勝で世界ランクを駆け上がったアドニスマイケル・B・ジョーダン)はついに世界ヘビー級タイトルを獲得する。その勢いのままにビアンカテッサ・トンプソン)にプロポーズ。ビアンカもほどなく妊娠し、アドニスは幸せそのものだった。しかし、そこに父アポロの怨敵、イヴァン・ドラゴ(ドルフ・ラングレン)の息子、ヴィクター(ロリアン・“ビッグ・ナスティ”・ムンテアヌ)が現れ、アドニスに挑戦を表明する。勝負を受けるべきでないと判断するロッキー(シルベスター・スタローン)からアドニスは離反、ヴィクターとの対決に臨むも・・・

 

ポジティブ・サイド

毎度のことではあるが、ボクシング映画に出演してボクサー役を演じる役者には敬服するしかない。体作りやボクシング的なムーブの習得は生半可な努力では不可能だからだ。わけても本シリーズは、ボクシングのリアリティを特に強く追求する。それは実際にパンチを当てるからではない。ボクサーのメンタリティをよくよく表現しているからだ。そこに、家族を持たなかったアドニスが、家族を得て、そして自分が決して知ることがなかった父という存在に、自分が成ろうとするドラマが織り込まれる。そしてそれは、ロッキーにも当てはまることだ。偉大すぎる父を持つ息子は、反発してカナダに移り住んだ。息子がいながらも、息子に対して上手く接することができないロッキー。父がいないながらも、その父の影を追うアドニス。この父と子の関係に、ドラゴ親子のドラマが重層的に折り重なって来る本作は、ボクシング映画にしてヒューマンドラマでもある。その両者の融合にして極致でもある。『 エイリアン 』がSFとホラーの両ジャンルで頂点を極める作品であるように、本作もマルチ・ジャンルの作品として、一つの到達点に達していると称えたい。

 

冒頭でいきなりWBC世界ヘビー級タイトルマッチに挑むアドニスクエスチョン・マークが浮かんだファンも多いだろう。前作ではライト・ヘビー級ではなかったか、と。しかし、HBOの実況に前作から引き続きマックス・ケラーマンとジム・ランプリーが登場、そして字幕や画面には出てこなかったが、コメンテーターとしてロイ・ジョーンズ・Jrを迎えていたことに思わずニヤリ。ライト・ヘビー級からヘビー級に“飛び級”して王座を獲得した実在のボクサーをリングサイドに置くことによって、アドニスの体重増と階級アップを説明しようというわけだ。ボクシングファンに向けたファンサービスであると同時に高度なアリバイ作りというわけで、再度ニヤリ。

 

それにしてもマイケル・B・ジョーダンの演技とボクシングは素晴らしいの一語に尽きる。メディアを前にしてのオープン・ワークアウトでは圧巻のミット打ちを披露するが、このわずか十数秒のために、何十時間、いや百数十時間は費やしてきたのではないか。それは本シリーズのみならず、すべてのボクシング映画出演者にも言えることだが、スタローンや『 サウスポー 』のジェイク・ジレンホールを超えたと評しても良いように思う。ボクサーの苦悩、それは打ちのめされての敗北にあるのではない。その姿を誰がどう見るのか。それが問題なのだ。苦労人・西岡利晃は世界王座防衛の旅に、娘をリングに上げていた。つまり、西岡は自らの雄姿を娘に見せたかったのだろう。では、アドニスは自分の雄姿を誰に見せたかったのか。そして誰に見せられなかったのか。前作のクライマックスで彼は父アポロの姿を想起することでダウンから立ちあがった。今作で彼が絶体絶命のピンチで想起するのは誰なのか。彼が体感した世界とは何だったのか。Jovianはそのシーンで鳥肌が立った。あまりにも的確で、なおかつそれがあまりにもドラマチックで、あまりにもシネマティックでもあったからだ。スティーブン・ケイプル・Jrという新人監督の力量は見事である。ほぼ新人だったライアン・クーグラーを見出したのと同様に、スタローンはこの偉才をどうやって見出したのか。その眼力の確かさには御見逸れしましたと言うしかない。

 

本作が単なるスポーツもの、ボクシングものに留まらないのは、アドニスとロッキーの関係以上に、イヴァン・ドラゴとヴィクター・ドラゴの親子関係に依るところが大きい。あまり細かく述べるとネタばれになるのだが、あの亀田親子を思い出せば分かりやすいのではないか。ボクシングによって挫折を味わった父(亀田父はそもそもプロになれなかったが)が、自らの息子にボクシングを叩き込む。そこに母親の姿は無い。しかし、その母親(ブリジット・ニールセン)が帰って来た。まるで『 レッド・ドラゴン 』で蘇った(という表現は正しくないが)チルトン博士と再会した時のような気持ちになれた。『 ビバリーヒルズ・コップ2 』以来だったか。スタローン・・・ではなく、ドルフ・ラングレンの妻役として華麗にリターンして、息子の心をかき乱す。ドラゴ親子のひたすらに内向きな関係性は亀田親子のそれとよく似ている。亀田史郎は対内藤大助戦で大毅に反則指示を行ったが、イヴァンはヴィクターにどんな指示を送ったか。そこを見て欲しい。そこにイヴァンと亀田史郎の共通点があり、その後の対応に彼らの決定的な相違が現れる。これ以外に納得のいく決着の方法は無かったであろう。

 

ネガティブ・サイド

意外なことにクライマックスを欠点に挙げたい。というのも、ここだけは誰が監督でもこうなるだろうと思える出来だったからだ。ケイプル監督がGonna Fly Now” を使ってのビジョンを描いていたのは間違いない。誰でもそうする。Jovianが監督したとしても間違いなくそうする。悔しいのは、それでも心動かされてしまったことだ。本作はアドニスが父を追い、父と重なり、そして文学的な意味での父殺しを果たす物語でもあるのだ。ロッキー映画の公式をぶち壊すぐらいのことをしてほしかった。それほど、陳腐にして完成度の高いクライマックスだった。おそらく、これ以上の物語は必要ない。続編を作るとすれば、それはスタローンの晩節を汚し、マイケル・B・ジョーダンのキャリアの汚点となるようなものになるだろう。

 

もう一つだけ弱点を挙げれば、ニューメキシコロードワークのシーンが弱い。照りつける太陽、吹きすさぶ砂嵐、飢え、渇き、敗北のビジョン、そうしたものをモンタージュ的にもっと効果的に見せられなかっただろうか。『 ロッキー4 炎の友情 』の、雪原でのロッキーのトレーニングと対象的なところを見せたいという意図があったのだろうが、そこのところの描写に説得力が欠けていたように感じた。

 

総評

大小いろいろと欠点はあるものの、それは観る者が何を期待しているかによる。一つ言えるのは、これにてロッキー、そしてアドニスの物語は終わりであるということ。続編を作ってはならない。『 ロッキー5 最後のドラマ 』は毀誉褒貶の激しい作品だが、個人的には蛇足にして駄作だったと思っている。あれをリメイクする必要はどこにもない。折しもカナダの超人アドニス・ステヴェンソンがあわやリング禍というダメージを負った。アドニスクリードにグローブを吊るせと言いたいわけではないが、これ以上のストーリーは悲劇にしかならない。ロッキー世界という一大ボクシング叙事詩の閉幕を、ぜひ大画面でその目に焼き付けるべし。

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『 イヴの時間 劇場版 』 -ロボットと人間の関係性をリアリスティックに描く-

イブの時間 劇場版 70点
2019年1月9日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:福山潤 野島健児 田中理恵 佐藤利奈
監督:吉浦康裕

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TSUTAYAでDVDなどをあれこれと渉猟していると、松尾豊の書籍『 人工知能は人間を超えるか 』の表紙にそっくりのキャラをカバーボックスに発見した。10年近く前のアニメであったが、これが思わぬ掘り出し物。”Don’t judge a book by its cover.”とは、良く言ったものである。

 

あらすじ

未来、たぶん日本。“ロボット”が実用化されて久しく、“人間型ロボット”(アンドロイド)が実用化されて間もない時代。高校生のリクオとマサキはひょんなことから、ロボットと人間を区別しない喫茶店、「イヴの時間」の常連客となる。マスターのナギと過ごすうちに、彼らはロボットに対する認識を改めていく・・・

 

ポジティブ・サイド

実に数多くの先行テクスト、先行作品の上に成り立つ、あるいはその系譜に連なる作品である。人間とアンドロイドとの関係については、劇中でも触れられることだが、『 ブレードランナー 』を始め、コミックおよび映像化された『 攻殻機動隊 』、『 エクス・マキナ 』、『 アイ、ロボット 』、そして山本弘の傑作小説『 アイの物語 』などと相通ずる点が多い。数ある先行作品にも共通するテーマを本作は提示する。それは「人間らしさは人間だけに宿るわけではない」ということである。

 

一見して人間と見分けがつかないロボット=アンドロイドが普及し始めている世界を本作は描写する。そこにはドリ系と呼ばれる、アンドロイドとの関係に極度にハマってしまう者たちが存在する。そして、ロボット倫理委員会なる組織は、人間とロボットとの関係を人間的なそれにさせまじと美辞麗句に彩られたプロパガンダを放送するのである。近未来的であるとも言えるし、古典的なSF作品的であるとも言える。人間は人間以外とも対等な関係を結べるのだということは『 スター・ウォーズ 』シリーズを彩る数々のロボットやアンドロイドから一目瞭然である。極端な例では映画『 her / 世界でひとつの彼女 』も挙げられるし、もっともっと極端な例ではゲーム『 ラブプラス 』のキャラクターと結婚式を挙げた男性も存在したのである。フィクションの世界でも現実の世界でも、人間はしばしば人間以外の存在に人間らしさを見出してきたのである。「そんわけねーだろ」と思うだろうか?しかし、車を所有する男性の中には一定の割合で車を恋人もしくは相棒と見なす者が確かに存在するのである。

 

本作の世界では、パッと見では人間とアンドロイドの区別ができない。それどころかアンドロイド同士の会話でも、お互いをアンドロイドであると認識できないようなのだ。チューリング・テストがあっさりとクリアされた世界!これは凄い。本作は『 her / 世界でひとつの彼女 』以降で『 ブレードランナー 2049 』以前の世界なのだろう。喫茶店イヴで過ごすアンドロイドたちの挙動は、『 アイの物語 』の最終章「 アイの物語 」と共通する点が多い。

 

イヴで過ごす時間が長くなるほどにリクオはロボットに対する認識を深め、マサキはロボットに対する(自分なりの)認識をより強固にしていく。それは彼の過去のトラウマに根差すものなのだが、その見せ方が上手い。セクサロイドが存在する世界において、人間がロボットに対して純粋な友情や愛情を抱くことができるのか。本作では、アンドロイドではない、いかにもロボットロボットしたロボットが見せる振る舞いや言動にこそ、人間らしさが潜んでいる。それはとりもなおさず、我々が思う人間らしさは人間の姿かたちだけに宿るものではないことを意味している。そのことを非常に逆説的に示した映画に『 第9地区 』がある。反対に人間らしさを感じない、嫌悪感を催させるものの正体とは何か。それは人間の姿かたちをしたものが、およそ人間とは思えない動き、立ち居振る舞い、言動を見せた時であろう。それこそがゾンビに対して我々が抱く恐怖の源泉であり、『 ターミネーター 』に対して抱く恐怖でもあり、『 攻殻機動隊 』の草薙素子が自身の身体の女性性にあまりにも無頓着であることにバトーが思わず赤面し視線を逸らすことに対して、我々が違和感を覚える理由である。

 

SFというものはマクロ的には文明と人間の距離感を、ミクロ的には人間と非人間の距離感を描くものである。信じられないかもしれないが、「電卓など信じられない。そろばんの方が計算機として優れている」と考える人が一定数存在した時代があったのだ。そのことを実に象徴的に描いた作品として『 ドリーム 』がある。宇宙飛行士ジョン・グレンが人間コンピュータのキャサリン・G・ジョンソンに、コンピュータの計算結果を検算させるというエピソードがあるのだが、それはフィクションではなく史実なのである。本作は極めて純度の高いSFの良作である。

 

ネガティブ・サイド

ところどころに珍妙な英語が出てくる。その最も端的な例は“Androld Holic”である。正しくは“Android-aholic”である。Workaholicという単語をしっかりと分解すれば分かる。

 

Are you enjoying the time of EVE?というのもやはり珍奇な英語である。文法的には何も間違ってはいないが、こんな言い方はそもそもしない。Are you having a good time at The Time of EVE?の方が遥かにナチュラルだろう。

 

イヴの時間というカフェの名前に込められた意味をもっと追求して欲しかった。それともオリジナルのアニメ(全6話)では、そうした側面にもっと光が当たっているのだろうか。イヴと言えば、アダムとイヴであろう。男アダムの肋骨から作られた女イヴ。しかし、始原の男は土くれから生み出されたが、以降の人間は全て女から生まれた。イヴの時間というカフェが人間とアンドロイドの新たな関係の揺り籠になるのだという期待が、もう一つ盛り上がってこなかった。ナギはレイチェルなのか、ガラテアなのか。

 

総評

アニメ作品に、安易なアクションやロマンスを求めるライトなファンには不適であろう。本格SFファン向け作品とさえ言えるかもしれない。2010年に発表されたということは、構想はその数年前から原作者の頭の中では練られていたはず。RPAという言葉が、もはや概念ではなく実用一歩手前の技術として語られ始めた現代、ロボット、アンドロイド、そして人工知能とヒトとの関係が巨大な地殻変動を起こす、まさに今は前日(Eve)なのかもしれない。古さが全くない、逆に今こそ再発見され、再評価されるべき作品である。

『 クリード チャンプを継ぐ男 』 -The torch has been passed-

クリード チャンプを継ぐ男 80点
2019年1月6日 レンタルBlu Rayにて鑑賞
出演:シルベスター・スタローン マイケル・B・ジョーダン
監督:ライアン・クーグラー

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猟奇的な彼女 』と言えば、腰の入ったパンチ。パンチと言えばボクシング、ボクシングと言えば『 ロッキー 』。その魂はアポロ・クリードの息子、アドニス・ジョンソンに受け継がれた。クリードの最新作に備えて、前作を復習鑑賞した。

 

あらすじ

アポロ・クリードの息子、アドニスは我流でボクシング技術を磨いていた。メキシコのティファナで連戦連勝するも、アメリカの世界ランカーにはスパーで一蹴されてしまう。アドニスは父、アポロと激闘を繰り広げ、盟友となったロッキー・バルボアの指導を仰ぐべく、フィラデルフィアにやってきた。エイドリアンやポーリーが世を去る中、イタリアン・レストランを独り切り盛りするロッキーは、アドニスに“虎の目”を見出して・・・

 

ポジティブ・サイド

アドニスと拳を合わせる相手にSuper Sixの覇者アンドレ・ウォード、ミドル級のゲートケーパー的存在ガブリエル・ロサド、そして英国のやんちゃ坊主、トニー・ベリューと本物のプロボクサーを豪華に配置。これだけでもボクシングファンには嬉しいキャスティング。スタローン映画『 エクスペンダブルズ3 ワールドミッション 』に出演したヴィクター・オルティズは映画に出たことでキャリアが下降してしまったが、ウォード、ベリューらは既にキャリアの最終盤に入っていた。そうした意味でも安心できた。現役ボクサーが映画に出ても、あまり良いことは無いのだ。WOWOWでExcite Matchを熱心に観ている人なら、マイケル・バッファやHBOのマックス・ケラーマンやジム・ランプリーの存在が更なるリアリティを生んでいると感じられるだろう。そのHBOも2018年末でボクシング中継から撤退。何とも景気の悪い話である。

 

閑話休題。本作には Eye of the Tiger は流れないが、字幕が良い仕事をしてくれる。その瞬間は絶対に見逃しては、いや聞き逃してはいけない。

 

マイケル・B・ジョーダンは本作と『 ブラックパンサー 』のキルモンガー役で完全にトップスターの仲間入りを果たしたと評しても良いだろう。スタローンもボクシングのシルエットがきれいだったが、ジョーダンは元々の身体能力+ボクシングセンスで、スタローン以上のボクシング的な動きを披露する。

 

中盤の試合のワンテイクは圧倒的である。ズームインやズームアウトがされていたので、どこかで合成、編集されているのであろうが、はじめて東宝シネマズなんばで鑑賞した時は魂消たと記憶しているし、今回の復習鑑賞でもやはり驚かされた。

 

初代の『 ロッキー 』がそうであったように、本作も単なるボクシングドラマではない。アドニスというサラブレッドが、何者にもなれずにいることのフラストレーション、世間が自分を見る目と自分は自分でしかないという認識のギャップに、ロッキーが語った「自分はnobodyだった」という言葉が蘇ってくる。家族を失ったロッキーと、家族を手に入れようとするアドニスの、何とも切ない邂逅の物語なのだ。ロッキーがアドニスに自らの魂を渡す瞬間、“Gonna Fly Now”のファンファーレが響き渡る!!もう、この瞬間だけで100点を献上したくなる。

 

ロッキー 』シリーズはこれまでに何度も観てきたが、今後もふと疲れた時、目標を見失いかけた時、心が折れそうになった時に、何度でも立ち返るだろう。特に1、2と本作は何度でも見返すことだろう。

 

ネガティブ・サイド

中盤のアドニスの試合のワンショットだが、実時間では1ラウンド3分ではなかったし、ラウンド間のインターバルも1分ではなかった。そんなことに拘っても仕方がないが、映画ファンでもありボクシングファンでもあるJovian的には非常に気になるところではあった。体内時計世界王者対決というテレビ企画もあったように、ボクサーは3分を肌で分かっているものだ。映画はリアリティの追求が生命なのだから、試合の時間についてもリアルを追求して欲しかったと思うのは、高望みをし過ぎなのだろうか。

 

そして、これは完全に無理な注文だと分かってのことだが、オープニングのMGM(Metro Goldwyn Mayer)のレオを、本作に限って虎に変えるは流石に無理か。『 ピッチ・パーフェクト ラスト・ステージ 』や『 ボヘミアン・ラプソディ 』でも、オープニングの20th Century Foxのロゴのシーンの音をいじっていた。レオを虎には・・・やはり無理だろうか。これをもって減点すべきではないのだろう。

 

総評

ボクシングは最も歴史の古いスポーツの一つであると同時に、最も近代的なエンターテインメントでもある。アメリカのラジオ放送でニュース以外に初めて放送されたのは、ボクシングの世界タイトルマッチであった。そんなボクシングを題材にした物語が、面白くないわけがない。ましてや、この物語は『 ロッキー 』世界の出来事なのだ。ロッキーファンのみならず、広く映画ファンに勧められる傑作である。

『 猟奇的な彼女 』 -韓流ヒューマンドラマの傑作-

猟奇的な彼女 80点
2019年1月5日 所有DVDにて鑑賞
出演:

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ニセコイ 』というtとんでもない駄作を観たせいで、どうしても口直しだと感じ、近所のTSUTAYAへ。そこで目にしたSALE品の本作をほぼ衝動買い。これまでに4回ぐらいは鑑賞した作品だが、おそらく今後も折に触れて観ることだろう。うら若き乙女が男子をパンチでぶっ飛ばす映画としては本作が白眉である。

 

あらすじ

大学生のキョヌ(チャ・テヒョン)は、ある日、電車で酔っ払った女子(チョン・ジヒョン)を何故か介抱する羽目に。理不尽で凶暴な彼女だったが、いつしかキョヌはそんな“猟奇的な彼女”を癒してやりたいと願うようになり・・・

 

ポジティブ・サイド

なんと言っても、本作はチョン・ジヒョンの魅力なしには成立しなかっただろう。それほど彼女の存在感と演技力は際立っている。韓国は時々、キム・ヨナに見られるような、高身長、腕長、脚長、端正な顔立ちのアジア人離れした女性を生み出す。日本では中条あやみがこれに該当するが、彼女は純国産というわけではない(国産が良い、と言っているわけではない、念のため)。そんな女性としてのフィジカルな魅力と全く相容れない内面を持つ“猟奇的な彼女”を具現化するのは並大抵のことではない。が、キャスティングの妙というべきであろう。チョン・ジヒョンは素晴らしい仕事をしてくれた。とりわけ、彼女のパンチは腰が入っていて大変によろしい。また、演技の空振りパンチであるにもかかわらずインパクトの瞬間に歯を食いしばるという渾身の演技。へっぴり腰で平手打ちする『 ニセコイ 』の中条あやみは本作を繰り返し観るべきであろう。

 

キョヌというキャラクターも実に味わい深い。いわゆる胸キュン展開などは全く無い。だからといってキョヌは欲望とは無縁の聖人君子かと言うと、さにあらず。旅館のベッドですやすやと寝息を立てる彼女の顔、唇、胸を眺めるのは健全な欲望の持ち主であることの証明だ。同時に、正しい男らしさの持ち主でもある。据え膳食わぬは何とやらではなく、男は包容力だと思う。特にキョヌのようなキャラを目にすれば、つくづくそう感じる。彼女の暴力や暴言、理不尽な要求を全て飲み込み、献身的に尽くす様は正しく男の中の男である。女性を守るのも男らしさであり、女性に愛を打ち明けるのも男らしさであるが、女性の断ち切れない未練をひたすら見守るのも男らしさであり、女性にきれいに振られてやるのも男らしさであろう。キョヌのような男でありたかったと心底から思う。

 

本作はキャラの立ち方だけではなく、韓国社会を描いたものとしても興味深い。店で酒を飲む、皆で鍋をつつく、安ホテルに泊まる、そして軍人が社会の一部として確実に存在する世界。似て非なる国としての韓国がそこにある。しかし、描かれている人間が誰もかれも少々クレイジーなところを除けば、それはそのまま日本にも当てはまることで、それは取りも直さず普遍的な事象を描いているということでもある。とりわけ“彼女”に名前が付与されていないことが、彼女の属性をより一層際立たせると共にミステリアスな存在に昇華させている。“猟奇的な彼女”は、案外そこかしこにいるのかもしれない。そんな気がしてくる。

 

ネガティブ・サイド 

“彼女”の描く映画のシノプシスは、正直なところ面白くない。というか、映像化する必要はあっただろうか。女ターミネーターのくだりはかなりクオリティが下がり、シリアスなラブコメという映画全体のトーンとの一貫性が壊れたように思う。

 

また嘔吐のシーンが少し生々しすぎる。食事しながら観ていた妻は、露骨に嫌悪感を示していた。ただ、これがあるからこそ彼女の外面と内面のギャップ、キョヌの優しさが際立つのだが・・・

 

総評

これは韓流映画の一つの到達点である。『 サニー 永遠の仲間たち 』の日本版リメイクはイマイチだった。日本映画界は、アメリカ版や韓国版続編などとは別路線で、正統派で本格的な『 猟奇的な彼女 』の日本版リメイクを作ってみてはどうか。その場合、彼女は中条あやみではなく小松菜奈でお願いしたい。

『 ニセコイ 』 -私的2019年のクソ映画オブ・ザ・イヤー決定-

ニセコイ 10点
2018年1月4日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:中条あやみ 中島健人 
監督:河合勇人

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俺物語!! 』、『 チア☆ダン 女子高生がチアダンスで全米制覇しちゃったホントの話 』で評価を高め、『 兄に愛されすぎて困ってます 』でその評価をビミョーにした河合監督が、ついに本作で自身の評価を定めた。すなわちクソである、と。厳密には2018年の映画に分類されるべきなのだろうが、私的には年明けわずか1週間で、年間最低レベルと判断してもよさそうな酷い出来の映画を観てしまったと感じている。

 

あらすじ

一条楽(中島健人)はヤクザの組長の一人息子。桐崎千棘(中条あやみ)はNYのギャングのボスの一人娘。二人は、それぞれの組織の抗争を防止すべく、互いの親から偽の恋愛関係、すなわち「ニセコイ」を築くことを要求されてしまった。反目しあう二人の運命や、いかに・・・

 

ポジティブ・サイド

風呂と浜辺のシーンがそれなりに眼福か。あとは岸優太が妙な存在感を発揮していた。2018年は伊藤健太郎がブレイクしたが、2019年を岸優太のブレイク元年にできるか。

 

中島健人は『 黒崎くんの言いなりになんてならない 』の頃より、役者として、表現者として少しは成長しているような気がする。

 

ネガティブ・サイド

いくら原作が少年誌のラブコメ漫画だからといって、やって良いことと悪いことがある。神戸の高校の校門圧死事件を原作者も編集も脚本家も監督も、誰も知らなかったというのだろうか。閉まる校門に駆け込むのは論外であるし、生徒が駆け込んでくるのを一瞥すら黙々と門扉を閉じようとする教師も最低である。よくこんな画作りができたものだと逆の意味で感心させられてしまう。もう一つ、どうしても許せなかったのは空港のシーン。DAIGO演じるキャラが銃を握るのだが、このご時世に空港という場所で銃火器を見せるのがどれほどのインパクトを持つ行為であるのかを、これまで原作者から本作監督に至るまで、誰一人として意識しなかったのだろうか。ラブコメのギャグだから、で済む問題ではない。時勢というものを、もっとちゃんと認識して物語を作ってもらいたい。漫画に嘘はつきものだが、映画とは、兎にも角にもリアリティが生命線なのだ。河合監督の猛省を要望する。

 

映画の質的な面で言えば、時間や季節の移り変わりが感じ取れなかった。季節外れの転校生というキーワードがあるが、登場人物の服装、街の木々、日の高さ、総合的に考えて時節は春から初夏だろう。夏休み前でもあり、妥当な推測だと思うが、それがあれよあれよと言う間に小雪舞う冬に移行するのだから、ちょっと待てと言いたくもなる。時間や場所の変化を、ほんのちょっとしたショットで観る者に伝えるのが映画の基本にして究極の技術なのだが、そうした努力を一切拒否するのも珍しい。というか、そうしたショットをカットしてしまう作品は往々にしてクソ映画である。これは断言できる。

 

シーンとシーンの繋がりに一貫性を欠くものも多かった。その最たるものが、プールのシーンである。DAIGOのキャラが、濡れネズミ状態から文字通り一瞬にして髪、顔、服まで乾いてしまうのだ。おそらく劇中での時間の経過は1~2分であろう。なにをどうすれば、この短時間で水分が全て蒸発してくれるのか。撮影時点でも編集時点でも、誰も気付かなかったのか。気付いていたが、「まあ、ええか」状態だったのか。プール絡みで言えば、頭を下にした状態で自由落下する人間が、真下のプールに足から着水するのもおかしい。撮影→カット→撮影→カットの繰り返しを、編集という魔法でスムーズにつながって見えるようにするのが映画なのである。本作はそれができていないシーンがあまりにも多すぎる。絵コンテの段階から失敗していたとしか思えない。照明係もbad jobをいくつかやらかしている。というか、監督が悪い。とにかく光の角度、強さ、影の濃さ、その伸びる方向が、前後のシーンや、同一シーン内の他のオブジェクトと矛盾してはならないのだが、そうした光の使い方にも粗さが目立って仕方がない。よくこんなものを完成品として公開できたものだと逆の意味で感心してしまう。

 

ストーリーにも粗が目立つ。楽と千棘の双方が互いに対して淡い恋心を抱き始めるきっかけとなる描写が弱い。ヤクザやギャングの家に生まれてしまったせいで、普通ではないが普通、普通が普通ではないという環境に慣れてしまった2人ゆえに惹かれ合う、つまり同病相憐れむというわけだ。それは非常に説得力がある。残念なのは、楽の家の門にある木彫りの組看板が、あまりにも綺麗であることだ。つまり、ヤクザの組事務所、あるいは組長宅として長年そこにあったという存在感が皆無に感じらてしまうのだ。これで、楽の境遇の悲惨さを感じ取れというのは難しい。同じことは千棘にも当てはまる。転校初日に楽を教室内でぶっ飛ばすのはいいが、そこからかなりの時間を経過して、ある事柄からクラスメイトに薄気味悪く思われてしまうのだが、このタイムラグは何なのだ?これがあるせいで、「え?なんだかんだありつつも、それなりに上手くやっていたのでは?」という思われてしまう。そこでいきなり、不器用で友達作りが下手という属性が付与されても、説得力はゼロだ。他にも、重要キャラとしての小野寺の立て方も酷い。彼女の部屋の片隅に、あたり一面が黄色のお花畑の写真が飾ってあることが一瞬だけ見て取れるシーンや、または麦わら帽子でもいい。とにかく、原作未読者の視聴者に何らかのヒントを与えることをしないせいで、登場人物の想いの深さや方向が極めて把握しづらい。ナレーションしろと言っているわけではない。ビジュアルでストーリーテリングをしろと言っているのだ。できるはずだし、それをせずにこの展開を受け入れろと言われても、とうてい承服しがたい。それに橘の鍵のペンダントの話はどこへ行った?とにかく、思わせぶりな台詞を言わせたからには、それをきっちりと回収すべきだ。脚本段階で致命的なミスがあったとしか思えない。

 

総評

時間さえあれば、どこまでも酷評ができる作品である。しかし、これはあくまでJovianの見方で、人によっては本作を大いに楽しんだことも事実である。実際に、鑑賞後の劇場のトイレで高校生ぐらいと思しき男子連中は「あそこの千棘がな」や「あれ、漫画のあそこやろ?」などと楽しそうに感想を語り合っていたし、あまがさきキューズモールを出たところでも中学生ぐらいの女子二人が「ケンティー、やばいやばい!」とキャピキャピしていた。もしも貴方が中高生ぐらいの年齢もしくは精神年齢であれば、本作を堪能できる可能性は大いにある。しかしもしも貴方が成人で、それなりの映画ファンを自負するならば、本作は忌避の対象だ。貴重な時間とカネを捨てる必要はどこにもない。

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『 ボヘミアン・ラプソディ(“胸アツ”応援上映) 』 ーThe joy of movie-going is backー

ボヘミアン・ラプソディ 85点
2019年1月3日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:ラミ・マレック ルーシー・ボーイントン グウィリム・リー ベン・ハーディ ジョセフ・マッゼロ トム・ホランダー マイク・マイヤーズ
監督:ブライアン・シンガー

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2018年11月17日に大阪ステーションシネマで鑑賞した『 ボヘミアン・ラプソディ 』の“胸アツ”応援上映を体験。『 シン・ゴジラ 』の時にも大都市圏で実施された発声可能上映とだいたい同じと思えばよろしい。映画自体の感想は変わらない。むしろ、repeat viewingによって各シーンの構図やカメラアングルの意味がよりはっきりと伝わってくる。複数回劇場に足を運ぶ人が多くいるというのもむべなるかな。

 

Jovianは嫁さんと観に行ったが、劇場の入りは1割程度だっただろうか。箱の大きさに対して観客数も少なく、また実際にスクリーンに字幕が表示されるパートは大音量なので、かなり叫んだつもりでも、囁き程度にしか聞こえなかった。これは自分も嫁さんも確認している。それにしても客の入りとは関係なく、こうした試みはどんどん広がるべきであると思う。映画館に行くというのは能動的な営為であっても、映画を鑑賞するというのは極めて受動的な営為だ。しかし、そこに発声や手拍子、足踏みなどが加われば、受動でありながら能動のエンターテインメントが出来上がる。

 

問題があるとすれば、劇中の楽曲はすべてのパートが歌唱され、演奏されるわけでもない。またきれいにフェードアウトしてくわけでもないため、大声で歌っていると、いきなり画面が切り替わって、劇場内に自分の声が響き渡る、ということもありうる。「でもそんなの関係ねぇ」な小島よしおな人は、“胸アツ”応援上映を体験すべきだ。目立つのはちょっと・・・という控え目な人は、途中のWe Will Rock Youのシーン、最後のライブ・エイドのシーンで思いっきり絶叫すればよい。Jovianはそうさせてもらった。特に We Are The Championsでは涙腺決壊必定である。嫁さんと二人で涙を流し、声に詰まりながら、何とか歌い切った。英語(に限らず、たいていの言語)には Editorial We と呼ばれる語法が存在する。新聞記事などで「~~~であると思われる」という、あの表現である。また書き言葉以外でも、特にメディアの質問やインタビューでも盛んに用いられるということは『 響 -HIBIKI- 』のレビューでも示した通りである。知らず知らずのうちに読者や視聴者を著者や話者の視点に包含するわけだ。フレディの抱える劣等感、葛藤、苦悩・・・ 我々はいつの間にか彼と同化する。心に闇を抱えない者がいようか。そうした懊悩の全てが We are the champions という歌詞と歌唱と共に吹き飛ばされていったように感じられた。なんというカタルシス

 

観終わった後、隣の座席の母娘の会話が漏れ聞こえてきた。「お母さん、ゲイって何?」娘の方はおそらく小6~中1ぐらいだっただろうか。おそらく本作をきっかけに、このような会話が日本の津々浦々で交わされたに違いない。これは、クイーンというバンドの生み出した音楽の力を称揚するだけの映画では為し得ないことだ。受け手にしっかりと考えるきっかけを与える映画である。さあ、あなたも時間と懐に余裕があれば“胸アツ”応援上映に Go! である。

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