Jovian-Cinephile1002’s blog

古今東西の映画のレビューを、備忘録も兼ねて、徒然なるままに行っていきます

『 ボーダーライン ソルジャーズ・デイ 』 -受け継がれていくシカリオの系譜-

ボーダーライン・ソルジャーズ・デイ 65点
2018年11月18日 大阪ステーション占め間にて鑑賞
出演:ベニシオ・デル・トロ ジョシュ・ブローリン イザベラ・モナー
監督:ステファノ・ソッリマ

 

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脚本家のテイラー・シェリダンは、常に境界(ボーダー)や周辺(マージン)に問題意識を抱いている。そのことは『 ウィンド・リバー 』や前作『 ボーダーライン 』でもお馴染みである。それでは、今作は何と何の境界にフォーカスし、何の周辺に意識を向けているというのか。その一つが正義の概念であることは間違いないが、暗殺者の持つ人間性と非人間性の境界もテーマであることは疑いようがない。

 

あらすじ

アメリカ国内で数人が大型店舗で同時に自爆するというテロ事件が発生。CIA特別捜査官マット(ジョシュ・ブローリン)は、犯人たちがメキシコ経由でやってきたという情報をキャッチ。メキシコ国内の麻薬カルテルの大ボスの娘を誘拐し、それを密入国斡旋カルテルの仕業に見せかけ、両者の衝突と弱体化を画策する。その計画実行のために、家族を麻薬カルテルに殺された暗殺者にして旧知のアレハンドロ(ベニシオ・デル・トロ)と再び手を組むマットだったが・・・

 

ポジティブ・サイド

暗殺者アレハンドロの新たな一面。これは賛否両論が生まれるだろうが、Jovianはポジティブに捉えたい。家族を殺されたことは前作『 ボーダーライン 』で触れられていたが、その娘の持っていた特徴、さらにそれに対処する為にアレハンドロが持っていた技能。これがアレハンドロに人間味を与えている。その時、血も涙も捨てたはずだったアレハンドロの胸に去来した思いは何だったのか。父であることを思い返したのだろうか。とあるシーンで孤高の暗殺者らしからぬ狼狽を見せるのだが、我々はそれを見て大いに困惑する。しかし、家族の元に旅立っても良いはずのシカリオが新たに生きる意味や目的を見出したとすれば、それは何であるのか。それを見届けなくてはならないと思わせるエンディングが待っている。

 

捜査官のマットも渋い。というか、崇高なる目的の達成のためなら人権はゴミ、人命はクソのように扱う男が、言葉もなく打ちひしがれるシーンには少し胸が痛んだ。自らの正義の正統性を証明しようとすることもなく、政府の職員でありながら政権批判を平気で繰り広げる男も camaraderie を感じるのだ。人と人とのつながりの強さの源は血なのだろうか。それは同じ血を分け合うことで生じるものなのだろうか。それとも同じ場所で同じように血を流すからこそ生まれるものなのだろうか。前作とは打って変わって、主要キャラクターの人間性を深堀りしようとしたところに面白さがある。そこを期待しないファンも一定数いるのは間違いないだろうが。

 

本作は、アメリカの追求しようとする正義の基盤を根底から揺るがすような展開を見せる。といっても、実はたいしたことではなく、冒頭でテロを犯した者たちはホーム・グロウンのテロリストだったということだ。そんなことは世界中のだれでもが知っている。没落の途にある先進国では、国民が国籍だけを根拠に自らを正義、そうでないものを悪と決め付ける傾向が見られるようだ。フランス然り、アメリカ然り、極東の島国然り。アレハンドロやマットの思想や行動には、国というものに縛られない強さがある。アレハンドロはコロンビア人だし、マットはアメリカ人ながらアメリカ政府の命令には素直に従わない。国と国を隔てる国境線が正義の境界を象徴していた前作から、自らの属する国や集団を超越したところに個の存立を見出し、行動していくマットやアレハンドロの人間力は、見習いたいとは決して思わないが、尊敬に値する。

 

父親としての側面を強く打ち出したアレハンドロは、おそらく次回作では更なる人間性を発露させるのだろう。それが凶暴で非情で、しかし、激しい愛情に裏打ちされらものになるであろうことは想像に難くない。テイラー・シェリダンの脚本に大いに期待をしたい。

 

ネガティブ・サイド

前作の絵作りと音楽があまりにも良かったせいか、場外オームランの後に普通のホームランを見てしまうと、物足りなくなってしまうようなものか。市街地でありながらメキシコの暗部というか、無秩序を内包した街の光景と、物々しさと恐怖感を与えてくる破壊的なBGMの幸せな結婚関係は、今作では解消されてしまった。In memory of Jóhann Jóhannsson。白い粉のoverdoseとは・・・

 

照りつける太陽、かつてアステカと呼ばれた大地、地平線。美しい絵ではあるが、どこか主題に合わない。赤外線暗視スコープ映像を用いることで、人間を非常に無機質なものとして描き出した前作のような手法も用いられず。このあたりは監督のテイストの問題でもあるので、それを減点対象にするべきでもないのだろう。

 

本作の最大の弱点は、ストーリー中盤でのとあるツイストにあるのだが、その展開が少し弱い。ここでそう来るか、と思わせるタメがあまりにも作為的で、観ている側としては容易に「おかしい、何かがあるに違いない」と身構えてしまう。スパイ映画の構造をそのまま拝借してきたようで、芸が無かった。

 

本作が全体的にややサスペンス不足になるのは、一重にカルテル同士の対立・抗争に重みが無いからだ。麻薬カルテルの恐ろしさは前作で知った。しかし、密入国ビジネスの斡旋カルテルはどのような力=金を持ち、どれだけの警察を飼いならし、どれだけの重火器を所有しているというのか。そのあたりは数分でよいので描いてくれていれば、ボスの娘の誘拐劇にもっとスリルが生まれたであろうに。

 

総評

前作ほどの衝撃は残念ながら無い。それでも意外な展開あり、序盤の前振りが終盤に向けて華麗に収束する展開あり、またイザベラ・モナーという若きタレントとの邂逅ありと、観て損はないような出来に仕上がっている。正義と悪、秩序と混沌、人間と獣性、様々な対立を映し出しながらも、それら対立の境界が模糊になっていく。しかし、マットやアレハンドロ、その他の魅力的なキャラクターらが紡ぎ出せるであろう更なるドラマに今後も期待ができそうである。

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『 ボヘミアン・ラプソディ 』 -フレディ死すともクイーンは死せず-

ボヘミアン・ラプソディ 85点
2018年11月17日 大阪ステーションシネマにて鑑賞
出演:ラミ・マレック ルーシー・ボーイントン グウィリム・リー ベン・ハーディ ジョセフ・マッゼロ トム・ホランダー マイク・マイヤーズ
監督:ブライアン・シンガー

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原題もBohemian Rhapsody である。葛城ユキあるいはCHAGE and ASKAの楽曲‘ボヘミアン’を思い起こす人は多いのだろうか、それとも最早マイノリティなのだろうか。意味は放浪の人、流離う人、旅人、定住しない人などである。ラプソディとは、一曲の中で転調が見られる壮大な音楽を指す言葉である。そう考えれば、ボヘミアン・ラプソディというフレーズ、そして楽曲はQueenというバンドの定義にして本質であると言えるのかもしれない。

 

あらすじ

インド系の青年ファルーク(ラミ・マレック)はヒースロー空港で荷物の仕分けで日銭を稼ぎながら、夜な夜なパブに足を運び、バンドのライブを楽しんでいた。ある日、お気に入りのバンドのメンバーに声をかけたところ、リード・ヴォーカルが抜けたという。ファルークは歌声を披露し、その高音域を買われ、メンバーに加わる。そして伝説の幕が開く・・・

 

ポジティブ・サイド

21世紀FOXの定番ミュージックがエレキサウンド!『 ピッチ・パーフェクト ラスト・ステージ 』でも採用されていた手法で、今後はこのような形で観客を映画世界に招き入れるのが主流になっていくのかもしれない。歓迎したいトレンドである。

 

本作を称えるに際しては、何をおいてもラミ・マレックに最大限の敬意を表さねばならない。はっきり言って、長髪の頃のフレディにはあまり風貌は似ていないのだが、短髪にして髭をたくわえ出したあたりからは、シンクロ率が400%に達していた。架空のキャラクターを演じるのは、ある意味で簡単だ。監督、脚本家、演出家などが思い描くビジョンを忠実に再現する、もしくは役者が自身のテイストをそれにぶつけて醸成させていけば良いからだ。しかし、世界中にファンを持つ伝説的なパフォーマーを演じるというのは、並大抵の技術と精神力で達成できることではない。彼の持つ複雑な生い立ちとその時代や地域におけるセンシティブなパーソナリティ、その苦悩、葛藤、対立、軋轢、堕落、和解、そして真実へと至る道を描き出すその労苦を思えば、マレックにはどれだけの賛辞を送ってもよいだろう。何か一つでもヘマをすれば、数十万から数百万というオーダーの映画ファン、音楽ファンから批判を浴びることになるからだ。史実(と考えられているもの)とは異なるシーンも散見されるようだが、そこは事実と真実の違いと受け入れよう。前者は常に一つだが、後者は見る角度によってその姿を変える。たとえば Wham! の名曲、“Last Christmas”は失恋を歌ったものであるが、ジョージ・マイケルセクシュアリティを知れば、歌詞の解釈がガラリと変わる。フレディ・マーキュリーについても同様のことが言えるのだ。

 

本作はクイーンがいかに楽曲の製作や録音、編曲にイノベーションをもたらしたのかを描きながら、同時にバンドにありがちな衝突も隠さずに描く。Jovianの知り合いにプロの作曲家・音楽家サウンドエンジニアの方がいるが、「バンドの解散理由っていうのは音楽性の違いが一番ですよ。ギャラの配分とかで揉めることの方が少ないです」とのことだった。クイーンの面々のこうした側面も描かれるのは、クイーンファンには微妙なところかもしれないが、人間ドラマを大いに盛り上げる要素であり、なおかつクライマックス前の一山のためにも不可欠なことだった。そうした描写に加えて、『 ダラス・バイヤーズクラブ 』のマシュー・マコノヒーよりも乱れた生活を送るフレディが家族のもとに回帰していく様は、夜遊びに興じるファルークが父と母のもとに回帰していく様を思い起こさせた。

 

ラストの21分間は圧倒的である。本作鑑賞後に、是非ともYouTubeで同ステージの映像を検索して観て欲しい。その場にいられなかったことを悔い、しかしその場にいたことを確かに実感させてくれるような作品を産み出した役者やスタッフの全てに感謝したくなることは確実である。本作を送り出してくれた全ての人に感謝を申し上げる。

 

ネガティブ・サイド

 

ほとんどケチをつけるところが無い作品であるが、フレディの過剰歯は本当にちょっと過剰すぎやしないか。

 

またバンドの結成からメジャーデビュー、さらにはアメリカツアーまでのトントン拍子の成功が、ややテンポが速すぎるというか、トントン拍子に進み過ぎたように思う。その時期のバンドのメンバーの関係やマネジメントとの距離感にもう数分だけでも時間を割いていれば、中盤以降の人間関係のドラスティックな変化にもっとドラマが生じたかもしれない。

 

あと、これは作品に対する complaint ではないが、本作のような映画こそ発声可能上映をするべきではないだろうか。We Will Rock YouWe Are The Championsを、好事家と言われようとも、スノッブと言われようとも、映画館で熱唱してみたいと思うのはJovianだけであろうか。

 

総評 

レイトショーにも関わらず、かなりの入りであった。上映終了後、客が退いていく中、4~5組みの年配カップルの、特に男性の方が放心状態という態で席から立てずにいたのが印象的だった。『 万引き家族 』のリリー・フランキーではないが、「もう少しこの余韻に浸らせろ」と言わんばかりであった。似たような現象は『 ボルグ/マッケンロー 氷の男と炎の男 』でも観察された。奇しくもそちらも同劇場でのことであった。近年でも『 ベイビー・ドライバー 』で‘Brighton Rock’が、『 アトミック・ブロンド 』のトレーラーでも‘Killer Queen’が使用されるなど、その音楽の魅力は全く色褪せない。フレディ・マーキュリー、そしてクイーン。彼は死に、彼らは最早かつてのバンドではない。しかし、その功績と遺産、輝きは巨大にして不滅、音楽ファンからのリスペクトは無限である。小難しいことは良く分からないという人でも、We Will Rock YouWe Are The Championsを聞いたことがないということは、ほとんど無いだろう。トレーラーでもポスターでもパンフレットでも、何かを感じることがあれば、チケットを買うべし。

『 プラネタリウム 』 -アウトサイダーの悲哀を描いた凡作-

プラネタリウム 30点
2018年11月13日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:ナタリー・ポートマン リリー=ローズ・デップ エマニュエル・サランジェ
監督:レベッカ・ズロトブスキ

 

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降霊術の歴史は長い。科学の発達と共に霊の領域はどんどんと狭められていっているが、日本でも30歳以上の年齢なら、こっくりさんについて聞いたことがあるはずだし、実際にやってみた人もいるだろう。霊とは、それが無くなった肉親の霊であろうと、見も知らぬ他人の霊であろうと、常に好奇の対象である。しかし、霊とは同時に現世から疎外された者でもある。そして、疎外は生者と死者を分けるだけではなく、生者と生者の間でも起きる事象である。

 

あらすじ

ローラ(ナタリー・ポートマン)とケイト(リリー=ローズ・デップ)のアメリカ人姉妹は、パリで死者を呼び寄せる降霊術を行い、日銭を得ていた。ある時、映画会社役員のコルベン(エマニュエル・サランジェ)は二人の降霊術に感銘を受け、自分でもそれを体験したいと言いだした。二人の呼ぶ霊との交流に感激したコルベンは、姉妹の力を使って映画を撮影しようと考える。時あたかも第二次大戦前夜。異邦人にとっては忍従の時代だった・・・

 

ポジティブ・サイド

ナタリー・ポートマンの美貌とリリー=ローズ・デップの爛熳さについてはくどくどとのべつ必要性は無い。Their blossoming beauty and innocence speak for themselves. である。それ以上にエマニュエル・サランジェの存在感が際立つ。目は口ほどにものを言うというのは往々にして事実(Maybe your smile can lie, but your eyes would give you away in a second.)であるが、それを演技で表現できる役者は存外に少ないのではないか。サランジェはそれができる俳優だ。パリジャン然とした伊達男ばかりがフランスの俳優ではないということを見せつける様は、清々しくもある。本作を観る人の半分以上はナタリー・ポートマンの熱心なファンであろうが、こうした未知のタレントとの出会いがあれば、それだけで20点増しである。

 

ネガティブ・サイド

あまりにもストーリーに起伏がない。いや、姉妹の協力と成功、そこからの失敗と破局的な結末と上がり下がりはするのだが、それがあまりにも典型的というか、妹を霊媒師に設定する意味は特になかった。というか、科学の力で霊の存在を証明するというプロットは、現代人たる我々の目から見て、意義あるものではない。なぜなら科学の発展は世界の神秘の数々を解き明かしていくほどに、科学で説明できないものはストレートにそのまま信じるべし、という信念の持ち主も増加しつつあるからだ。そこまで極端な考えをしないまでも、天文学者や物理学者には無神論はほとんどいないと言われている。1930年代を舞台にすることで、科学的に霊を証明しようとする試みが逆に陳腐化してしまった感は否めない。

 

また、ビジネスの世界を描く必要もあったのだろうか。リュミエール兄弟が産み育てたフランスを舞台にするのだから、あくまで映画という文化・芸術・科学という媒体で姉妹の力と秘密に迫っていくようなプロットで良かった。ただでさえ戦争勃発前の陰鬱な時代に金勘定やら役員の追放やらを見ても感動も興奮もしない。ただ溜息が出るだけである。

 

本作は establishing shot の段階で結末が見えているとも言える。タイトルがプラネタリウムなのだから、汽車が疾走する平原の頭上に広がる無窮の星空がプラネタリウムであることが何を暗示、いや明示するのかを観る者はあまりにもあっさりと悟ってしまう。映画の基本的な文法、技法に則ったものとは言えるが、それが面白さを増すことに資するのかというと甚だ疑問であった。

 

総評

なにやら軸の定まらない映画である。その場に属すことのできないアウトサイダーの悲哀を描き出したいのは分かるが、様々な要素を盛り込もうと欲張ったせいで、何もかもが中途半端になってしまった残念な作品である。

『 マイ・プレシャス・リスト 』 -天才少女に課された宿題-

マイ・プレシャス・リスト 60点
2018年11月11日 大阪ステーションシネマにて鑑賞
出演:ベル・パウリー ガブリエル・バーン ネイサン・レイン
監督:スーザン・ジョンソン

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原題は“Carrie Pilby”、すなわち主人公である少女の名前である。アメリカの映画は実在の人物であれ、架空の人物であれ、人名だけのタイトルの本や映画を結構作っている。これはお国柄の違いだろう。近年だと『 バリー・シール/アメリカをはめた男 』が当てはまる。キャリー・ピルビーは天才ではあるが、『 響  -HIBIKI- 』における響のような異能の天才ではなく、秀才が高じたような天才である。『 gifted/ギフテッド 』のメアリー(マッケナ・グレイス)ではなく、『 バッド・ジーニアス 危険な天才たち 』のリン(チュティモン・ジョンジャルーンスックジン)のような少女が主役である。それゆえに、凡人たる我々にも共感しやすい物語に仕上がっていると言える。

 

あらすじ

飛び級で14歳にしてハーバード大学に入学(映画.comのあらすじは間違えている)、18歳で卒業したものの、定職を持たず、ニューヨークのアパートで気ままに一人暮らしするキャリー。明晰な頭脳はしかし、社会に還元されず、彼女が唯一まともに話せる相手はカウンセラーのDr. ペトロフだけだった。ある日、キャリーはペトロフから6つの課題が書かれた紙を受け取る。その課題をこなせれば、世界の見方が変わると言われたキャリーは、課題に着手していくが・・・

 

ポジティブ・サイド 

この分野には『 グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち 』という優れた先行作品が存在する。天才でありながらも心に抱えた傷のために自分に素直に向き合えないウィル(マット・デイモン)と妻の喪失を受け止めきれないショーン(ロビン・ウィリアムズ)の生々しい交流と清々しい別離の物語で、これを超える作品を産み出すのは難しい。しかし、同じようなテーマに違う角度からアプローチすることはできる。その一つの試みが本作である。そしてそれは一定の成功を収めた。

 

まず主役を女の子に設定したこと。『 グッド・ウィル・ハンティング/旅立ち 』ではスカイラーという女子が、「そんなこと言うなら、もう抱かせてあげない」とウィルを窘めながら、「男って馬鹿ね」と呆れながら安心するシーンがあるが、本作はこれと裏腹なシーンが存在する。そう、古今東西、男は馬鹿なのである。その男の馬鹿さ加減を大いなる包容力で受け入れてくれる女性こそが男の理想像なのである。では、女性目線で見た時、この男の馬鹿さ加減にはどのように対応すべきなのか。しかも、その女子の頭脳は天才的で、その天才が自分よりも賢いと認められるような男が、一皮むけばやっぱり馬鹿だった、となった時、どうすれば良いのか。本作の最大のテーマはある意味でここに尽きる。そして、そうした男の馬鹿さ加減を、あっちでもこっちでも嫌と言うほど見せつけてくれる。世の男性諸氏は居た堪れなくなるであろう。なぜなら、そこに我々が見出すのは、キャリーの天才的な頭脳というフィルターを通して見える世界ではなく、誰がどう見ても馬鹿な男の性(さが)だからである。世の男はこれを観て、大いに縮こまることであろう。そして世の女性はこれを観て、男のことを「本当に馬鹿なんだから」と生暖かい目で見守ってあげるべし。

 

ネガティブ・サイド

キャリーの天才性の描き方が少し弱い。文学作品をいくつか暗唱したぐらいで、もっともっとキャリーの天才性を描き出してくれないことには、物語中盤の大きな山場が盛り上がらない。赤川次郎が何らかのエッセイか、自作のあとがきで「小説や文学で描かれている恋愛はたくさん読んできたが、現実の自分の恋愛も全く同じように始まって、全く同じように終わっていった」と述べていたが、キャリーにもこうした背景が必要だったように思う。極端に頭でっかちな女子が、自分のキャパシティを超えるような事態に遭遇した時にどうするのか、そうした時にこそ頭脳をフル回転させて局面の打開を試みるも上手く行かず・・・という展開を期待したくなったのは、やはり自分が馬鹿な男で、天才女子に嫉妬というか潜在的な恐れを抱いているからなのだろうか。

 

他に弱点として挙げられるのは、キャリーが初めてする仕事や、初めて持つ学校以外の場での人間関係の描写が極端に少ないということである。キャリーの課題は、コミュニケーション力の欠如ではなく、むしろ過剰なコミュニケーション力だからだ。トレーラーにもあったが、カフェでイスを貸して欲しいだけの男性客に「私を口説こうとしても・・・/ Before you move into your moves …」などと言ってしまうあたり、コミュニケーションが下手なのは、能力の欠如ではなく過剰であるのは明らかだ。だからこそ、キャリーの成長とは、キャリーが世界に受容されることではなく、キャリーが世界を受容することなのだ。そしてそれは、冒頭のカウンセリングでマシンガンの如く喋り倒して、ペトロフの言うことなど聞くつもりはないのだという姿から、友人たちに普通に話し、普通に話しかけられるようになる姿に変わっていくことで表現されてしかるべきだったと思うのである。

 

総評 

日本とアメリカを始めとした西洋世界では、幸せの概念が異なる。HappinessはHappenと語源を同じくするのである。ハッピーとは、自分の力でなにがしかのコトを起こす力を持つことを言うのだ。そう考えれば、メーテルリンクの『 青い鳥 』(The Blue Bird)というチルチルとミチルのアドベンチャー物語が、日本では『 幸せの青い鳥 』と訳されたというのは名訳と言うべきであろう。本作も、欠点は抱えながらも、幸せを追求する少女の物語として鑑賞に耐えうる作品に仕上がっている。

『 GODZILLA 星を喰う者』 -本当は副題で「星を継ぐもの」と言いたかったのでは?-

GODZILLA 星を喰う者 50点
2018年11月10日 東宝シネマズ梅田にて鑑賞
出演:宮野真守 櫻井孝宏
監督:静野孔文 瀬下寛之

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ゴジラ映画におけるアニメーションと言えば、『 ゴジラ対ヘドラ 』の劇中において挿入された謎の銀河解説アニメが強烈な印象として残っている。そして、このアニメ・ゴジラ三部作も遂に完結。どれほどのインパクトを世のゴジラファンに与え、植え付けるのか。どのように着地するのか。『 GODZILLA 決戦機動増殖都市 』でも触れたが、怪獣の怪獣性をどのように描き切るのか。本作に期待される点は多い。しかし、その期待は応えられたと言えるのだろうか・・・

 

あらすじ

決戦機動増殖都市メカゴジラ・シティとヴァルチャーによる攻撃でゴジラ・アース打倒まであと一歩に迫るハルオらであったが、ビルサルドとの対立により、ゴジラ抹殺の千載一遇の機を逃してしまう。もはやゴジラを倒す手段は無いのか・・・ 一方、エクシフの宗教家メトフィエスは信者を着実に増やし、遂にはギドラを降臨させる・・・

 

ポジティブ・サイド

怪獣とは何であるのか。怪獣の怪獣性とは何なのか。そのことに一定の答えが提示された。怪獣は、人間によってどうこうできる存在ではないということ。怪獣は闘うべき相手ではないということ。怪獣とは死と滅びと終焉の究極のメタファーであるということ。怪獣に対する勝利とは、対象の抹殺ではなく、自らの生存と繁殖、繁栄であるということ。行き過ぎた文明の発達に対する歯止めとしての怪獣ではなく、人間を含めた文明ですら、怪獣を産み出す下地に過ぎないということ。結局は「怪獣惑星」に回帰するということ。どこか『 シン・ゴジラ 』にも通底するテーマである。これこそが製作者の呈示する世界観の論理的帰結であるというなら受け入れようではないか。

 

今作の最大の注目点ギドラである。ギドラと言えばゴジラ映画シリーズに7回の登場を誇る、もはやお馴染みの怪獣である。そして、ゴジラ映画の文法から外れることが多いアニメゴジラ世界のギドラが、恒例の三大特徴をしっかりと踏まえていることもポイントが高い。ギドラの三大特徴とは

 

1.宇宙からやってくる

2.操られている

3.実は弱い

 

である。ゴジラ・アースという規格外のゴジラのが存在する宇宙に、規格外ながらもゴジラ世界の文法に則ったギドラが登場してくれたことは、大いなる安息であった。

 

ゴジラがグローバルなコンテンツになってしまった今、日本版のゴジラが立ち返るべきは本多猪四郎の発したメッセージ、すなわち行き過ぎた文明はそれ自身によるしっぺ返しを食らう、という教えである。実際に『 シン・ゴジラ 』は震ゴジラであった。本作においても、ハルオが選択した生命主義的行動は、芹沢博士がオキシジェン・デストロイヤーを発明してしまったことに対して責任を自ら取った行動と重なる。『 宇宙戦艦ヤマト 完結編 』における古代進を彷彿とさせるその決断と行動には胸を打たれた。

 

ネガティブ・サイド

元々いかがわしさと胡散臭さを撒き散らしていたエクシフであるが、ゲマトリア演算については最後の最後までJovianの理解を超えていたようだ。計算の結果、この宇宙は有限であり、いつか必ず終焉を迎える。であるならば美しい終焉を求めてギドラを召喚するところが特に意味が分からない。とにかくゲマトリア演算というと、小林泰三の『目を擦る女』所収の短編「あらかじめ決定されている明日」のような、とてつもなく胡散臭さを感じる。この宇宙が有限でも、別の宇宙が存在するならば、何とかしてそちらに移住する方法を編み出そうとは考えないのか?

 

ギドラ登場シーンにも不満が残る。アラトラム号を混乱の極みに陥れ、破壊した描写は圧倒的であったが、観る側に何もかもを説明するかのようなキャラクターの不自然な(=やたらと説明的な)台詞が耳障りだった。ギドラという別宇宙の怪獣によって異なる物理法則が支配する領域に叩き込まれたアラトラム号を描写するならば、それこそ観る側をも混乱させるような演出が必要だった。例えば、音声や効果音と絵が一致しない、時間の経過を非連続的にする、などが考えられる。観る者までも混乱に叩き込み、地上でゴジラに噛みつき絡みついたところで、マーティン・ラッザリにあれこれと実況および解説させればよかった。ギドラの圧倒的なビジュアルと存在感はしかし、残念ながらアクションにはつながらなかった。非常に静的な画面が続くので、なおさら上述したような混乱の演出が欲しかった。

 

ギドラの存在の位相についても不満がある。もともとゴジラの攻撃が当たらないのであれば、熱戦を捻じ曲げる必要もないわけで、素通りさせればよかった。その上で、ゴジラの攻撃が当たるようになってしまった時、熱戦に対して最初の数発はディフレクトできたものの、最終的にその圧倒的な火力とエネルギーに屈してしまったという描写にできなかったのだろうか。まるで『 ダイの大冒険 』の死神キルバーンと『 HELLSING 』にてアーカードを消滅させたシュレディンガー准尉を想起させるアイデアは良いのだが、その見せ方が映画的ではなく娯楽的ですらなかった。本作の成功の大部分はギドラに負っているのだから、ギドラに関する演出のマイナス面は、そのまま作品全体の評価へのマイナス点に直結する。

 

総評

前作、前々作を観た者からすれば、これを観ないということはありえない。しかし、それは本作が素晴らしいということを主張するものではない。むしろ、このアニメゴジラの一応の着地点を確認するしかないという、やや消極的な理由である。全体的には残念な作品に仕上がってしまっているが、しっかりとしたメッセージを受け手に送ってくれる作品にはなっている。

 

追記

すでにYouTubeで観た方も多いと思われるが、USAゴジラの正統続編『ゴジラ:キング・オブ・ザ・モンスターズ』のトレーラーを大画面で見られたのは、やはり胸躍るものだった。ドビュッシーの『 月の光 』を思い起こさせるBGMと共に、ゴジラの姿、モスララドンキングギドラのシルエットを観て、ふと思った。こいつらが登場した後にキングコングの出る幕は果たしてあるのか、と。やはり『 ランペイジ 巨獣大乱闘 』の生物巨大化メカニズムをコングに無理やりにでも適用するのだろうか。

『 ヴェノム 』 -独創性を産み出せなかったダークヒーロー-

ヴェノム 45点

2018年11月8日 東宝シネマズ梅田にて鑑賞

出演:トム・ハーディ ミシェル・ウィリアムズ リズ・アーメッド

監督:ルーベン・フライシャー

 

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スパイダーマン3 』でかなり唐突に現れ、かなりアッサリと倒されてしまったヴェノムのスタンド・アローン映画である。その人気の高さから『クローバーフィールド/HAKAISHA 』は、ヴェノム誕生の前日譚なのではないかとの揣摩臆測も呼んだ、ヴィラン(?)・・・というか、悪役生物である。MCU(Marvel Cinematic Universe)において特異な位置を占めるスパイダーマン、そのスパイダーマンの一番の宿敵ヴェノムをフィーチャーするのだから、期待が高まらないはずはない。が、本作は正直なところ、かなり微妙な出来である。本国アメリカではかなり酷評されているため、ポイント鑑賞でチケット代を節約させてもらった。

 

あらすじ

エディ(トム・ハーディ)は持ち前の正義感、行動力、そして舌鋒の鋭さで社会問題に鋭く切り込む売れっ子ジャーナリストだった。しかし、恋人にして弁護士のアン(ミシェル・ウィリアムス)のEメールを盗み見たことから、天才科学者のドレイク(リズ・アーメッド)率いるライフ財団に「人体実験で死者も出しているのではないか」と切り込んでいく。それをきっかけにアンとは破局、仕事でもクビを宣告されるが、財団からの内部通報者の協力を得て取材を続けるうちに、自身も謎の宇宙生物シンビオートに寄生されてしまう・・・

 

ポジティブ・サイド

トム・ハーディが硬骨のジャーナリスト役がハマっているし、寄生され始めた段階でのクレイジーな行動の数々を、コメディとシリアスタッチの境界線上を行くような絶妙のバランス感覚で演じている。エディという役を、序盤に関しては巧みに表現できていた。

 

悪役のリズ・アーメッドも良い味を出している。無表情のまま、サラリと冷酷極まりないことを口にしたり、いきなり声の調子を変えて恫喝してくるところなどは、インテリやくざを思わせる。マッド・サイエンティストの代表例とも言える死の天使ヨーゼフ・メンゲレよろしく、自らの信ずる道のためならば、人命など鴻毛の軽きに等しいと考えるタイプの科学者で、非常に分かりやすい悪玉である。見ただけで、「なるほど、コイツが倒すべき敵なのだな」と素直に予感させてくれる存在感に I’ll take my hat off.

 

残念なのは、その他の要素(監督、脚本、撮影)にはあまり感銘を受けられなかったところ。もしもヴェノムをフルCGではなく、一部でもよいのでオーガニックな手段で表現できていれば、各キャラクターにもっと血肉が通ったであろうに・・・

 

ネガティブ・サイド

まず言えることは、かなり多くの日本の映画ファンが『 寄生獣 』を思い浮かべただろうということ。特にヴェノムが右腕の先っぽから顔を出すシーンは、ミギーへのオマージュのように思えてならなかった。同時にまさしくそのシーンのヴェノムは『 エイリアン 』のゼノモーフの頭の形も模しており、これもオマージュと捉えるべきであろう。何らかのエイリアンを描くとき、H・R・ギーガーおよびリドリー・スコットの影響から完全に逃れることは難しいのである。問題はオマージュではなく、その先にあるべきはずの独創性がなかったことである。

 

まず冒頭の探査機の地球帰還シーンからして『 ランペイジ 巨獣大乱闘 』のオープニング・シークエンスと丸かぶりしているし、寄生生命体のシンビオートの寄生前の状態は『 ライフ 』のカルビンをかぶっている。またアクションシーンの山場の一つである、バイクで車の追跡を振り切ろうとするシーンはバットマンを想起させる。とにかくやたらとパッチワーク的な作りになっていて、ヴェノムという魅力的であるはずのキャラクターがどうにも陳腐に映ってしまう。

 

問題はアクション関連のシークエンスだけではない。天才であるはずのドレイクが宇宙探査や外宇宙への移住を目指すのはよい。が、その手段が宇宙生命体との共生???シンビオートが寄生によって地球という好気性の環境に適応するというのなら、人類が何らかの系外惑星なり系外衛星に住むとなった時、真っ先に考えるべきは寄生ではないのだろうか。共生(synbiosis)は基本的に長い時間を経た上で構築される進化論的帰結である一方、寄生は常に一方通行の片利的な関係として起こりうるからだ。これがカイチュウやサナダムシならまだ救いがあるが、脳や神経系に巣食う生物となると洒落にならない。だが、現実的に宇宙に生存できる可能性を求めるとなると、人類が寄生する側にまわるほうがリアリティがあると思うのだが・・・

 

本作の最大の弱点というか欠点は、ヴェノムの回心のプロセスが不透明であることだ。エディに備わっている人並み外れた正義感であるとか、アンへの一途な想いの強さであるとか、相手の社会的地位で態度を変えない公平性であるとか、シンビオートがエディから受ける有形無形の影響をもっと鮮烈に描くべきだった。異色のダークヒーローにして一心同体バディ(buddy ○ body ×)の誕生が、単に寄生してみたら相性が良かった的に描くのは、はっきり言って手抜きではないか。このあたりを追求しないことには、単なるB級SFアクションの一派生作品にしかならない。

 

総評

これから観に行くつもりの方には、MUC有数の人気ヴィランを鑑賞しに行く!という強い気持ちを持たないように注意喚起をしたい。ちょっと暇とカネがあるので『 スーサイド・スクワッド 』の亜種でも観に行ってみるか、ぐらいの気持ちで臨むのが正しい。ただし、『 恋は雨上がりのように 』のあきらのような『 寄生獣 』の熱心なファンであるならば、時間を作って、お近くの劇場へGoである。

『 覚悟はいいかそこの女子。』 -社会派要素を交えた異色ロマコメ-

覚悟はいいかそこの女子。 55点
2018年11月8日 梅田ブルク7にて鑑賞
出演:中川大志 唐田えりか 小池徹平 伊藤健太郎
監督:井口昇

 

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おそらく誰もが食傷気味の少女漫画の映画化を何故観ようと思い立ったのか。それは『 食べる女 』にチョイ役ながら出演することで映画sceneに帰って来た小池徹平を観るために他ならない。決して唐田えりか見たさではなかった・・・はず。

 

あらすじ

自他共に認める愛され男子の古谷斗和(中川大志)は、実はただのヘタレ男だった。彼女を作った友人に「鑑賞用男子」と揶揄されたことに発奮、彼女を作ろうと意気込んで三輪美苑(唐田えりか)に「俺の彼女になってくれない?」とイケメンオーラ全開で臨むも、あっさりと撃墜されてしまう。それでも懲りずに猛烈アタックを続ける斗和は、ある出来事をきっかけに美苑の住む部屋の隣で一人暮らしを始めて・・・

 

ポジティブ・サイド

単なる少女漫画ものと思うなかれ。意外にも社会派の側面を持った作品である。具体的には貧困問題と一人親家庭である。後者はかつては欠損家庭とも呼称されていた。離婚もしくは片親・両親の死などによって、子が親以外の血縁者と暮らす世帯は“欠損”していると看做された時代が、ほんの十年、二十年前までは確かにあった。ヒロインである美苑を取り巻く環境は、主人公の斗和のそれとは違い、重く暗い。それをどう取り除くのか。言い換えれば、斗和がどれだけ三枚目になれるのか、または汗水垂らして頑張れるのかが見所になる。ただのイケメンでは貧困も寂しさも紛わせないからだ。そして中川大志は予想を超えるとはまでは言わないが、期待を裏切らない仕事をした。特にある決意を固めるときの表情と、三枚目に「堕ちる」時の表情は味わい深く良かった。中でも『 ハナレイ・ベイ 』のサチのありがたい教えの一つ、「美味しいものをたくさん食べさせてあげる」を実行したのはポイントが高い。

 

本作は『 センセイ君主 』や『先生! 、、、好きになってもいいですか? 』と同じく、女子高生が教師に恋心を寄せる話でもある。その相手の教師・柾木隆次(小池徹平)がとある事情から舞台を去る理由も、極めて社会的である。こうした事情を受け入れられる背景には、日本の社会の成熟と国民の意識の変化(向上と呼んでも差し支えは無いだろう)があるからなのだが、それ以上に柾木先生の抱える事情が美苑の抱える事情と表裏の関係にあるからだ。同時に、虎が死んで皮を残すように、美苑の父は娘に絵画の才能を遺していった。柾木はその才能を豊かに花開かせた。子どもには positive male figure が必要になる時期があるが、美苑にとっての positive male figure の役割をすべて引き受けようとする斗和は見事である。これこそが本作が単なる少女漫画とは一線を画す理由である。好きな女を、その女が好きな男のところに敢えて連れて行ってやる男というのは、漫画『 スクールランブル 』を始め、いくつかの先行テクストが既に存在する。しかし、恋人以外の属性を積極的に担おうとする男を描く作品はあまり生産されてきていない。この点に本作の新しさが認められる。

 

ネガティブ・サイド

まず声を大にして言いたいのは、あんな漫画的な借金取りは存在しないし、存在してはならない、ということだ。というよりも普通に法律違反だ。Jovianは昔、信販会社にいたから分かる、というか誰でも知っていることだ。ちょっと見ただけでもドアの鍵を破壊する=器物損壊、関係のない住人宅に踏み込む=住居不法侵入、その他、恐喝、脅迫や大声で借金をしていることを周囲に知らしめてしまう、借金に全く関係ない高校生に支払いを促すような声かけなどなど、脚本家や監督、さらには原作者も何を考えているのか。『 闇金ウシジマくん 』ではないのだ。もちろん社会派の物語であるからには百歩譲ってこのような描写の数々を許容するにしても、その後に借金取りが人情味のある言葉を美苑にかけるシーンは必要か?散々に相手を痛めつけておきながら、ちょろっと優しさを見せるというのは、『 追想 』のレビューで指摘した「女をこれでもかといたぶったヤクザが、情感たっぷりに涙を流しながら「ごめん。ホンマにごめん。でも、お前のことを愛してるんやからこうなってしまうんや」という構図と本質的には同じである。映画の最後にでも、「借金の取り立てシーンは違法ですが、ドラマチックな演出のためのものです」という文言を入れておくべし。動物愛護の観点からの注意書き、但し書きはあるのだから、こうしたことももっとアピールをすべきだ。闇金の恐ろしさを過小評価したいのではなく、闇金には関わってはいけないし、もしも闇金に関わってしまったら、ホワイト・ナイトを待って耐え忍ぶのではなく、適切に対処しなくてはならない。20万人の中高生が本作を観たとして、そのうち2,000にんぐらいが何らかの間違った理解をしてしまわないことを願う。

 

他に指摘しておくべき細かい点としては、タクシーを使えということ。最後くらいは呼び捨てをやめなさいということ。まあ、高校生というのは昔も今もこのようなものなのかもしれない。

 

総評

個人的思考および嗜好に合わない部分があることから辛めに点をつけたが、存外に見どころのある作品である。父と息子のペア、または母と娘のペアなどで鑑賞すれば、親子の対話を促進させる材料になるかもしれないし、日本社会の不都合な真実というか現実に対する関心も高められるかもしれない。