Jovian-Cinephile1002’s blog

古今東西の映画のレビューを、備忘録も兼ねて、徒然なるままに行っていきます

『 ビールストリートの恋人たち 』 -人間賛歌の要素が不足-

ビールストリートの恋人たち 60点
2019年3月10日 大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:キキ・レイン ステファン・ジェームス 
監督:バリー・ジェンキンス

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原題は“If Beale Street could talk”。『 私はあなたのニグロではない 』のJ・ボールドウィンの小説『 ビールストリートに口あらば 』の映画化である。1970年代の小説を2010年代に映画化する意味は何か。そこにアメリカ史を貫く恐るべき差別の構造と、それを乗り越えんとする確かな意志が存在することを示すためである。

 

あらすじ

ファニー(ステファン・ジェームス)とティッシュキキ・レイン)は、乗り越えるべき問題を抱えながらも幸せな恋人同士だった。しかし、ある時、ファニーが身に覚えのない罪で投獄されることに。彼の無実を証明すべく、ティッシュは奔走するが・・・

 

ポジティブ・サイド

恋愛とは本来とても美しいものである。だからこそ、詩になり歌になり物語になり映画になる。そして愛が最も美しく光り輝くのは、往々にして逆境においてである。それは『 ロミオとジュリエット 』において顕著なように、シェイクスピアの時代からの真理である。そして本作において描かれるファニーとティッシュ恋愛模様は、シネマティックな要素を極力排除し、それでいてドラマティックなものとして描かれる。物語序盤に描き出される、正式に恋人同士となる前の二人のちょっとした会話、食事、歩き方や目配せは、恋人未満特有の、それでいて恋人になることが約束されたかのような、非常に陳腐で、それでいてロマンティックな瞬間を生み出している。ファニーがティッシュを部屋に誘うシーンは、『 ロッキー 』で、ロッキーがエイドリアンを自室に誘うシーンとは異なる意味で、印象に残るシークエンスだった。ラブシーンも美しい。10~20代の若者の恋は得てして動物のように盛ってしまうものだが、本作はそんなアプローチは取らない。宝箱を大切に開けるかのようなファニーに、ティッシュも身を委ねる。女性というのは誘われたがっているものだ。しかし、そのタイミングと方法を間違ってはならない。そうした教訓まで教えてくれるのが本作である。

 

本作のもう一つの見どころは、ファニーとティッシュ、それぞれの家族同士の付き合いであろう。アメリカ社会におけるどうしようもない差別の構造と意識は、これまでに無数の映画が映し出してきた。しかし、本作の黒人家族同士の微妙な距離感での付き合い、そして衝突には息を飲むシーンがある。黒人は歴史的に白人に差別されてきた存在というだけではなく、黒人同士の間でも属性の押し付け合い、すなわち差別の構造が生まれてくることを描いているからだ。ティッシュの母親が自分の孫に投げかける呪詛の言葉に我々は衝撃を受ける。それが人間性を完全否定する言葉だからである。『 グリーンブック 』でも顕著だったが、同じ人種というだけでは人は分かりあえない。しかし、人と人とが分かり合い、触れあうためには、人の人たる面に接しなくてはならない。誰かの力になりたいと心から思うこと、可能であれば自分が相手になり変って苦しみを受け止めたいと願うこと。そうした心の在り方を本作は若い二人の恋人たちの姿を通して追求する。理不尽な差別の構造に心を痛め、無私の愛の形に涙する。それは陳腐ではあるが、それゆえに普遍性を感じさせる。

 

ネガティブ・サイド

若気の無分別と言ってしまえばそれまでなのだが、ファニーが自身の荒々しさをもう少しコントロールできる男であれば、そもそも冤罪騒ぎは起きなかったのではないか。もちろん、自分の女に無礼な態度ですり寄ってくる男がいれば、番の雄としては全力でそれを排除するものだ。しかし、お互い人間なのだから、まずは言葉を尽くせなかったのだろうか。

 

全体的なトーンも非常に暗く、またペースもかなり遅い。見どころとしての家族同士のパーティーとそこでの諍いは文句なしの緊張感をもたらしてくれる。だが、その他のパートはどうにも盛り上がりに欠ける。それは何よりも、ある意味でマルコムXな思想がその向こうに透けて見えるからだと感じられてならない。1960代から言われ始めた“Black is beautiful.”という思想は、“The other colors aren’t.”に容易に変化してしまう恐れを孕んでいる。もちろん、エド・スクライン演じる警察官は悪徳の権化そのものと思って間違いない。しかし、その男とバランスを取るべき不動産屋のインパクトが弱い。黒人賛歌は結構であるが、その一方に白人参賛歌なり女性賛歌なりアジア系やヒスパニックへの賛歌がないことには、結局のところ人間賛歌になりえない。この部分が『 グリーンブック 』がカバーできていたところで、『 サタデーナイト・チャーチ 夢を歌う場所 』や本作がフォーカスしきれなかった部分である。『 クレイジー・リッチ! 』や『 search サーチ 』などが大ヒットしたように、アメリカという人種のるつぼ、多民族国家におけるアジア系やインド系のデモグラフィックは無視できない規模になっている。そうした現実世界とのバランスと映画世界のバランスに不均衡があることが本作の最大の弱点であるように思えてならない。

 

総評

本作は映画ファンよりも小説ファンや文学ファンを引き付けるのかもしれない。恋愛模様の美しさ、愛憎劇の激しさは派手さで表すよりも観る者の感覚や想像力に委ねさせる方が良い場合もある。人間を描くという点では弱いが、恋人たちを描くという点では標準以上の美しさを備えた作品と評することができる。

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『 シンプル・フェイバー 』 -現代風サスペンスの模範的作品-

シンプル・フェイバー 65点
大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:アナ・ケンドリック ブレイク・ライブリー ヘンリー・ゴールディング
監督:ポール・フェイグ

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ピッチ・パーフェクト 』シリーズのアナ・ケンドリック、『 ロスト・バケーション 』のブレイク・ライブリー、『 クレイジー・リッチ! 』のヘンリー・ゴールディングの共演となれば観ないという選択肢は無い。特にゴールディングは、Jovianが勝手に私淑しているHapa英会話のセニサック淳に似ているので、やはり勝手に応援しているアジア俳優なのである。

 

あらすじ

シングルマザーのステファニー(アナ・ケンドリック)はV-Logでママ友向けの動画を作成する傍ら、子育てにいそしんでいた。ひょんなことから、NYの大企業でフルタイムで働くエミリー(ブレイク・ライブリー)と知り合う。エミリーの夫、ショーン(ヘンリー・ゴールディング)は大学教授にして作家。対照的なステファニーとエミリーは親密になっていき、ステファニーはエミリーの子どもの世話役をすることも。しかし、ある日、ステファニーに子どもを預けたままのエミリーが姿を消して・・・

 

ポジティブ・サイド

ギリアン・フリン原作の『 ゴーン・ガール 』と非常によく似た構造を持っている。消えた女を追えば追うほどに新たな謎が見つかっていくというのは、ウィリアム・アイリッシュの古典的名作『 幻の女 』以来のクリシェである。タイムトラベル物、記憶喪失物と並んで、消えた女のミステリというのは出だしの面白さにおいてはハズレが少ないジャンルなのである。近年では『 ドラゴン・タトゥーの女 』や『 セブン・シスターズ 』などが標準以上の出来だと言える。そして本作はこれらよりも、サスペンスで僅かに、ユーモアで大きく、そしてミステリ部分で僅かに上回る。ただし『 ゴーン・ガール 』にはいずれの面でもやや及ばない。

 

本作の面白さは、まず第一にアナ・ケンドリックブレイク・ライブリーの好対照ぶりにある。シングル・マザーにしてYouTuberのステファニー、そしてワーキング・マザーにしてNYの会社でタイトル持ちのエミリー。この二人がふとしたことから親密になり、秘密を明かし合い、お互いの子どもを預け合うようになるまでが実にテンポ良く描かれる。もちろん、そこまでの展開に伏線がてんこ盛りなので、しっかりと目を凝らして耳をすましておくように。

 

他に注目すべきところとして、エミリーの哲学というか生き方に、ステファニーが共感し、それを実践するシーンである。と同時に、ステファニー自身の過去の秘密が現在にも蘇ってくるのだ。What a femme fatale! 余り深く考え込んでしまうと背筋が寒くなるので、ステファニーの秘密の謎を探ろうとするのは、ほどほどにしておくべし。また、エミリーにはてっきり陳腐過ぎる直球のトリックが仕込まれているのかと思いきや、ちょっとした変化球であった。綾辻行人の『 殺人鬼 』のトリックかと見せかけて、飛浩隆の『 象られた力 』所収の短編『 デュオ 』に見られるトリックだった。

 

ブレイク・ライブリーのファッション、アナ・ケンドリックの美乳(ブラまでしか見えないが)、ヘンリー・ゴールディングのRPアクセントの英語にも注目しながら本作を堪能して欲しい。

 

ネガティブ・サイド

いくつかのサブ・プロットとエンディングに謎が残る。特に、ステファニーの過去の秘密の真相については、観る者を試す、あるいは意図的に混乱させようとしているかのようである。特に、中盤のステファニーの活躍を見るにつけ、彼女の過去の秘密の真相がどんどんとどす黒くなっていく。ここまでモヤモヤとした気分にさせるなら、いっそ真相を明かしてくれと思ってしまう。

 

また、エミリーの使うトリックでは、おそらく警察を欺けない。アメリカの警察の捜査力はドラマや映画から推し量るしかないが、このトリックで絶対に日本の警察は騙せない筈だし、アメリカの警察も騙せまい。その理由については中橋孝博先生の著作を読めば分かるかもしれないし、分からないかもしれない。人間の身元を確認する方法は一つだけではないということである。

 

総評

弱点はあるものの、適度なユーモアがある上質なサスペンスである。実績充分にして今後の活躍も期待できる2人の女優のガチンコ演技対決を見逃してはならない。

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『 翔んで埼玉 』 -私的2019年度日本アカデミー賞作品賞決定!-

翔んで埼玉 80点
2019年3月9日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:GACKT 二階堂ふみ
監督:武内英樹

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漫画『 パタリロ! 』の魔夜峰央が原作で、漫画『 テルマエ・ロマエ 』の映画化を成功させた武内英樹が、これまた見事な映画を世に送り出してきた。私的2019年度日本アカデミー賞作品賞受賞作は、これでほぼ決まりである。面白さだけではなく、映画的な技法の面でも非常にハイレベルなものがある。それほどの会心の傑作である。

 

あらすじ

かつての武蔵国から東京と神奈川が独立、その余り物で構成された埼玉県人は、通行手形なしには東京に入ることもできないという迫害を受けていた。そんな時に、東京都知事の息子の壇ノ浦百美(二階堂ふみ)の属する高校に、アメリカから謎の転校生、麻実麗(GACKT)が転校してくる。始めは反目しあうものの、麗の都会指数の高さに徐々に魅せられた百美は、麗との距離を縮める。しかし、麗が卑しい埼玉の出であることを知った百美は東京と埼玉の間で引き裂かれるような思いに・・・

 

ポジティブ・サイド

テルマエ・ロマエ 』にも共通することだが、ギャグ漫画を映画化しようとするならば、製作者は至って真面目にならなければならない。阿部寛演じるルシウスが現代日本の温泉テクノロジーやデザインに度肝を抜かれる様が面白いのは、その姿に我々がギャップを感じるからだ。ギャップとは認識のズレのことで、このズレ具合が笑いを呼び起こす力になる。駄洒落が好例だろう。

「隣の家に囲いができるんだってねえ」

「へえ、かっこいい!」

というのは、へえ=塀、かっこいい=囲い、という駄洒落になっている。同じものでありながら、それを捉える時の認識の違いが面白さの源泉である(上の例が面白いかどうかはさておき)。本作の面白さは、第一に役者陣の大真面目な演技(≠素晴らしい演技)から生まれている。真面目にアホなことを語り、真面目にアホな行動を取る。特に百美が麗に完敗を喫する某テストは、その好個の一例である。学校という舞台で序列が決まるのは、往々にしてこのような出来事なのだが、本作はそれをギャグという形であまりにも端的に描いてしまった。この学校という舞台装置が曲者で、ここの生徒たちは誰もかれもが劇団四季のオーディションもかくや、と思わせるほどに大仰な演技および発声をする。詳しくは後述するが、それは東京都、特に山手線内部に象徴される、いわゆる「東京」という空間の虚飾性および虚構性とパラレリズムを為している。東京の富、およびそれを生み出す生産力、労働力は一体どこから供給されているのか。それは埼玉であり、千葉である。東京という中心の繁栄は、周辺の協力なしには絶対に実現しないのである。百美が父から離反し、麗のもとに走ることを決断したのは、この「経済学的に不都合な真実」を知ったからである。

 

埼玉や千葉の人間が東京に対して潜在的にどのように感じているかについては『 ここは退屈迎えに来て 』のレビューで指摘したことがある。本作の面白さの第二は、まさにこのような彼ら彼女らの意識が、極端なまでに肥大化された形で表現されているところだろう。本作に描かれる埼玉は、一漫画化の想像や妄想の産物ではない。彼が観察した埼玉県人に共通する、普遍的な埼玉県人性とでも呼ぶべき性質を、とことんリアルにパロディ化したものなのである。だからこそ本作は埼玉県で驚異的なヒットになっているのであろう。これは差別の逆構造である。『 グリーンブック 』のレビューで「差別とは、その人の属性ではないものを押しつけること」と定義付けさせてもらったが、この映画は埼玉についてのネタ的なあれやこれやを執拗に描写する。これはレッテル貼りではない。逆に、自己の再発見、再認識になっている。劇中での埼玉ディスのピークは、「ダサいたま、臭いたま・・・」とエンドレスで続く駄洒落であろう。驚くべきことに、これが Motivational Speech として抜群の効果を持つのである。なぜなら、外部からそのような属性を押しつけられれば、それはすなわち差別であるが、こうした属性を自分で自分に付与していく、そして自分にそのような属性が備わっていると知ったことで、それを乗り越えようとする意志が観る者の胸を打つ。これはJovianがヒョーゴスラビア連邦共和国の住人だからなのだろうか。

 

本作の面白さの第三は、語りの構造のギャップにある。百美と麗の物語は、都市伝説という形でラジオ放送されている。それが、劇中のキャラクター達とそれを車中で聞くとある家族という、もう一つのパラレリズムを形成している。我々は百美と麗の物語にいちいち反応するキャラクター達を見て、無邪気に笑う。しかし、映画は最終盤で一挙に我々の生きる現実世界を飲み込んでしまう。この物語の構造と展開には唸らされた。映画を観ている我々は、実はもっと高次の存在に見られていたのか。まるで『フェッセンデンの宇宙 』のようだ。散々笑った後に、思い返してちょっぴり怖くなる。それが現実を鋭く抉る批評的映画としての本作の素晴らしさである。

 

エンドクレジットでも絶対に席を立ってはならない。はなわの歌に耳を傾けながら、この作品を世に送り出したスタッフの一人ひとりに感謝の念を捧げ、精一杯の敬意を表そうではないか。

 

ネガティブ・サイド

東京都庁の攻囲戦がやや間延びしていた。また、このパートのみアクションが真面目で、もっと振り切ったバトルシーンを観てみたかった。また、埼玉vs千葉の、それぞれ輩出した有名人合戦は、もう何名か繰り出せたはずだ。編集で泣く泣くカットしたのだろうか。

 

もう一つだけ気になったのは、Jovian本人は本作を観ながら、そこかしこで笑いをこらえるのに必死になったが、生粋の大阪人である嫁さんは「さっぱり意味が分からない」という態であったことだ。これはJovianが東京都在住10年半の経験を持っていて、嫁さんは生まれも育ちも全部大阪だからという背景の違いのせいでもあるだろう。しかし、それ以上に大阪という、東京には遥かに及ばないものの、それでも強力な重力を有する土地に生まれ育った者には、マージナルマンのパトスは理解できないという民俗学的、文化人類学的な理由もあるだろう。ぶっちゃけて言えば、生まれも育ちも東京(≠東京都)です、というハイソな人、あるいは児童相談所の建設に頑なに反対する、一部の南青山の住人などには、刺さるものが無いのではないか。充分に現実を批評する力を持った作品だが、もっと東京を刺すような演出があれば85点~90点もありえたかもしれない。それだけがまことに悔やまれる。惜しい。

 

総評

2019年もわずか3カ月しか経過していないが、本作は年間最高傑作候補間違いなしである。エンターテイメント性とメッセージ性を併せ持つ、近年の邦画では稀有な作品に仕上がっている。カジュアルな映画ファンから、ディープな映画ファンまで、幅広い層を満足させうる傑作である。

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『 THE GUILTY ギルティ 』 -北欧サスペンスの傑作-

THE GUILTY ギルティ 75点
2019年3月7日 シネ・リーブル梅田に手鑑賞
出演:ヤコブ・セーダーグレン
監督:グスタフ・モーラー

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原題は“Den skyldige”、英語ではthe guilty oneもしくはthe guilty partyの意であるようだ。「有罪なる者」とでも訳すべきだろうか。パッとあらすじだけを読んだ限りではハル・ベリー主演の『 ザ・コール [緊急通報指令室] 』のデンマーク版かと思えたが、これはそれ以上の掘り出し物にして傑作であった。

 

あらすじ

職務に熱心な警官、アスガー・ホルム(ヤコブ・セーダーグレン)は、とある出来事から緊急司令室の電話オペレータとして勤務していた。ある日、アスガーは今まさに誘拐され車で連れ去られているという女性、イーベンからの通報を受ける。電話越しにアスガーは彼女を救うことができるのか。アスガーの苦闘が始まった・・・

 

ポジティブ・サイド

低予算映画の作り方でありながら、スリル、サスペンス、ミステリ、そしてホラーの要素までもが詰め込まれている。だが、それらが互いに喧嘩することなく、一本の作品の中で互いを高め合っている。これは凄いことだ。あるシーンで、アスガーが同僚警察官にとある場所に踏み込むように依頼するのだが、その緊張感たるや『 セブン』("Se7en")に迫るものがあった。

 

本作については、ネタばれめいたことがほとんど言えない。それほど絶妙なバランスの上に成り立っている作品である。我々は「ラスト10分間の衝撃!」だとか「前代未聞のどんでん返し!」なる惹句を、映画や小説の販促文句で定期的に目にする。中には「あなたは二度騙される」など、それ自体が重大なネタばれになっているものまで存在する。そうまでして観客や読者を獲得しようとする努力は買うが、そのことが作品の面白さ=受け手が作品の真価を味わう機会、経験を減じていることに、版元や配給会社はそろそろ気付いてよい。

 

本作の素晴らしさは主として2点。一つには、通話先の相手の容貌や状況、心理を観客が知らず知らずのうちに想起してしまうこと。これは主演のヤコブ・セーダーグレンの演技力に依るところが大きい。画面に映るのはほとんど全部この男なのだが、我々はいつの間にか彼と同化させられてしまう。ヘッドセットからの声に真剣に耳を傾けてしまう。そこから漏れ伝わる声や音は我々の想像力を否応なく喚起する。Jovianはデンマーク人の友人はいるが、デンマーク語はさっぱり分からない。それでも、アスガーの苦闘ぶりは充分に伝わる。Non-verbalな部分で、彼が如何に奮闘しているかということが、実によく伝わってくるのである。

 

もう一つには、映画のプロットそのものが、主人公のアスガーの背景についての興味関心を掻き立ててくることである。なぜこの男は緊急司令室で電話番をしているのか?この男が警察の関連部署と通話する際にときどき感じられる物々しさ、よそよそしさは何であるのか?そうしたことが最終盤まで明かされることなく、それでいて情報が絶妙に小出しにされてくるのである。この展開が素晴らしい。手に汗握るというか、アスガー自身の抱える闇とイーベン誘拐事件のクライマックスが見事に交差する瞬間の緊張感!これ以上は言えない。ぜひ多くの方に劇場で確かめて欲しい。それだけである。

 

ネガティブ・サイド

88分とやや短めの映画であるが、序盤にもう5~6分をかけて、アスガーの仕事がどんなものであるのかを、電話の音声とPC画面にもっとフォーカスする形で見せてくれても良かったのではないだろうか。民間ではないが、コールセンターの中の人がどのように働いているのか、興味のある人は世の中には結構いるはずである。

 

中盤でアスガーが思考の陥穽に嵌まってしまい、着信に気付かないところを同僚に告げられるシーンがあるのだが、Jovianが昔働いていた信販会社なら、怒声もしくは下段蹴りが飛んでくる場面だ。コールの積滞時間の長さは、そのままクレーム発生率に比例すると言っても過言ではなく、同僚の冷静さが、やや腑に落ちなかった。重大事件の通報であるかもしれないのだから、尚更だ。このあたりの描写に甘さを感じた。

 

総評

いくつかの弱点を抱えているものの、傑作であると評することができる。特にタイトルが秀逸なのである。他には、アスガーの同僚の名前が、Jovianの大学時代の寮の友人と同じで、思わずニヤリとさせられた。兎にも角にも、本作に関してはうっかりとネタばれめいたことが言えないのだが、本作を鑑賞して、なおかつ小説も好きだという方には、以下の三作品を是非ともお読みいただきたい。作品の中身それ自体が重大なネタばれに直結するようなものばかりなので、白字で記載させていただく。

 

作者:田中啓文 タイトル:『 水霊 』

作者:米澤穂信 タイトル:『 犬はどこだ 』

作者:範乃秋晴 タイトル:『 マリシャスクレーム―MALICIOUS CLAIM 』

 

以上である。本当に面白い作品であれば、この時代であれば自然に拡散されていく。本ブログもその一助でありたい。

『 リンダ リンダ リンダ 』 -濡れネズミたちの青春賛歌-

リンダ リンダ リンダ 65点
2019年3月5日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:ペ・ドゥナ 香椎由宇
監督:山下敦弘

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We will rock you”や“We are the champions”のQueenには敵わないにしても、それでもTHE BLUE HEARTSはビッグネームである。 “キスしてほしい”や“TRAIN-TRAIN”を聞いたことが無いという中高生は、今でも少数派だろう。1980年代に少年時代を過ごした者がTHE BLUE HEARTSおよび甲本ヒロトから受けた影響は巨大である。その中でも一際輝くのは“リンダリンダ”であろう。そのタイトルを冠した映画ならば観ねばなるまい。

 

あらすじ

とある高校のバンドが、ちょっとしたいざこざからメンバーの脱退を招いてしまう。残されたメンバーは3日後に迫った文化祭のステージのために、韓国人留学生のソン(ぺ・ドゥナ)にボーカルとして新加入してもらい、オリジナル曲ではなくTHE BLUE HEARTSの“リンダリンダ”の練習を始めて・・・

 

ポジティブ・サイド

『 スクールガール・コンプレックス 放送部篇 』を思わせる、BGMを極力排除した学校風景にはノスタルジアを感じた。この映画には、ドラマチックな展開は特に何も起こらない。しかし、そのことがシネマティックではないということを必ずしも意味しない。映画とはリアリティの追求が第一義で、本作にはそれがある。女子高生(というか女子全般)の人間関係の軽さと重さ、その底浅さと深さが全て表現されている。具体的に語ればネタばれになるが、本編の面白さを損なわないような例を挙げるとするなら、とある教室を皆が覗き込むシーンであろう。ここでは唐突に、現在の日本映画界の大スターが登場するので期待してよい。このシークエンスにおけるペ・ドゥナの目が素晴らしい。漫画的な目とでも言おうか、本来は日本語が不自由なはずの彼女が目で思いっきり語ってくれる。いや、目だけではなく立ち姿や口の微妙な開け方など、とにかく彼女の心の動きが手に取るように分かるのだ。そして、それを見つめる仲間の女子高生たち。自分にはこんな青春は無かったが、そこにあるリアリズムは確かに受け取った。

 

終盤にかけて、ようやく事件らしきことが起こるのだが、それをカバーしようとする彼ら彼女らがまた良い味を出している。はっきり言って中盤の描写はかなり中弛み気味なのだが、そうした陳腐な会話劇が、彼らを単なる有象無象のキャラクターに堕してしまわないような装置としてうまく機能していたのだと知る。この脚本はなかなかに心憎い。クライマックスは『 ボヘミアン・ラプソディ 』の同工異曲である。“リンダリンダ”ともう一曲が披露されるのだが、これは反則である。これは嬉しい不意打ちというやつである。このカタルシスは、『 ボヘミアン・ラプソディ 』とは決して比較してはならないが、それでも80年代に青春を経験したという世代に激しく突き刺さることは間違いない。

 

ネガティブ・サイド

甲本雅裕のキャスティングは悪くは無いが、ややノイズのようにも感じられた。甲本ヒロトという、ある意味でフレディ・マーキュリーのような男を憧憬の対象にするからこそストーリーが立つのである。彼そして彼らバンドとの距離が遠いからこそリアリズムが生まれるのであって、その逆ではない。悪い役者でも悪い演技でもないが、どうにもミスキャストに感じられた。

 

そしてラストの体育館の時計。撮影時点、または編集の時点で誰も気付かなかったのだろうか。これは大きな減点要素である。

 

総評

ドラマを期待するとガッカリするかもしれない。香椎由宇の水着姿が終ったところで離脱する人がいてもおかしくない。それほど静かな立ち上がりである。しかし、じっくりと向き合えば、ぺ・ドゥナの卓越した演技力と青春の普遍性を描いた、陳腐で芳醇な友情物語が味わえる。映画ファン、そしてTHE BLUE HEARTSファンにもお勧めをしたい。そしてぺ・ドゥナという小動物的な小悪魔の魅力も堪能して欲しい。

『 凛 りん 』 -青春ものとしては及第点、ミステリ要素は落第点-

凛 りん 30点
2019年3月3日 イオンシネマ京都桂川にて鑑賞
出演:佐野勇斗 本郷奏多
監督:池田克彦

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『 火花 』はそれなりに面白い私小説であり、映画であった。又吉本人は心外に思うだろうが、あれはどう見ても私小説である。エンターテインメントの本質はフィクションにある。小説家にしてJovianの兄弟子(と勝手に私淑させてもらっている)奥泉光もそのような趣旨の発言をたびたびしている。あらすじだけ読んで、又吉の作家、クリエイターとしての本領を味わえると直感した。しかし、期待した分だけ、落胆も大きかった。

 

あらすじ

北関東の田舎で小さな子どもが消えた。同じ地方の高校で、野田耕太(佐野勇斗)は仲間たちとお気楽に暮らしていた。何者も何事も永続はしない。それが彼の信条だった。そこに東京からの転校生、天童義男(本郷奏多)がやってきた。寡黙な彼は周囲になじめなかったが、野田のグループは彼を温かく迎え入れる。彼らは次第に打ち解けていくが、ある時、町で二人目の子どもが消えた。人々はそれを「100年に一度起こる神隠し」の再発であると考えるようになり、天童が疑われるのだが・・・

 

ポジティブ・サイド

意外なほどにメッセージ性を持っている。母子家庭、一昔前の言葉で言えば欠損家庭に生きる主人公。そして、それぞれ家族や家庭に問題を抱える親友たち。(邦画において)キラキラまばゆいものとして描かれることの多い高校生活と仲間たちとの友情を、永続しないものと最初から諦観して受け入れている(かのように見える)主人公。環境面の設定だけ見れば、これまでに1万回は観てきたような作品だが、これほど各キャラクターが闇を抱えている作品というのは、湊かなえの『 告白 』、『白ゆき姫殺人事件 』、そして『 チワワちゃん 』ぐらいだろうか。このような緊張感ある設定は歓迎したい。何故なら、友情の美しさを無条件に肯定するような作品はこれまでにうんざりするほど量産されてきたからだ。

 

本郷奏多千葉雄大は、どのように若々しさを保っているのかを個人的に尋ねてみたいと常々思ってきた。土屋太鳳が女子高生役を演じるたびにブーイングが巻き起こるが、本郷に対してそのようなリアクションは全く出てこない。彼の fountain of youth は何なのだろうか。もちろん、肌が白いから褒めているのではなく、ニヒリストに見えても、内面に熱くドロドロとしたものを持っていることが、言葉の端々から感じられるような複雑な、一筋縄ではいかないようなキャラクターを上手く表現できているからこその称賛である。

 

本作は『 グーニーズ 』のような友情もの、冒険ものとして味わうべきである。そうすれば、それなりに楽しめる。というか、楽しむにはそれしかないとでも言おうか・・・

 

ネガティブ・サイド 

ポジティブと裏腹だが、本作の持つメッセージ性がそのまま弱点にもなっている。一体、話の軸足をどこに置きたいのだろうか。主人公たちの高校生とは思えないニヒリズム?それと対称を為すような友情の永続性への確信?それとも神隠しのミステリ?これらすべてが互いに干渉することなく成立していれば、それは脚本と監督の卓越した手腕によるものだ。しかし、これらの要素がどれも底浅く、互いが互いを一切補完しないのであれば、メッセージ性を詰め込み過ぎて失敗した作品と評価されても仕方がないだろう。

 

具体的には、主人公の耕太のキャラクターが首尾一貫していない。特に天童に対しての接し方に一貫性を欠いている。特に親友の一人への接し方と比較してみると、不自然さが際立つ。冒頭で語られるような、ややニヒリスティックな哲学ゆえのことであれば、天童に対して疑惑や怒りを向けるのであれば、もう一人の親友に対しても同様の態度を取れと思う。また、東京行きに興味は無いし、地元で普通の職に就くと常々語るのなら、なぜ東京から来た女性に胸キュンするのか。いや、恋というのは気が付いたら落ちているものだから、そこは目をつぶれる。しかし、それは幼馴染の女子を無下に扱う理由にはならない。そして、そのような態度こそが、天童を東京の高校から転校せしめたある事情と見事な相似形をなしている。つまり、耕太の天童への怒りは滑稽至極なものとして映らざるを得ない。キャラがぶれまくっているのだ。

 

問題があるのはキャラクター造形だけではない。誘拐の真相もだ。ここでいう真相とは、神隠しの真相である。というか、横溝正史の『 八つ墓村 』に言及するまでもなく、田舎というのは人間関係が良くも悪くも濃密である。だからこそ、他人の家の複雑な事情なども簡単に周囲にシェアされるし、転校生は既存の人間関係の輪になかなか溶け込めない。そうした中で何らかの犯罪が行われれば、それによって誰がどのような利得を上げるのかがすぐに明らかになってしまう。つまり、地元民の犯行であれば、すぐに露見するのである。

 

また100年に一度の神隠しというのも笑止千万である。日本のどこを探しても100年毎に○○が起きるなどという伝承はないのである。理由は考えるまでもない。100年に一度の何某かの現象が法則性を帯びると考えられるには、少なく見積もっても300~400年は必要である。問題は誰がそれを語り継ぐのか、あるいは記録に残すのかである。もしも貴方の住む地域に何らかの伝承があれば、それは誰かが人為的にごく最近作ったものだと思ってよい。まさに『 八つ墓村 』である。

 

神隠しの真相も噴飯ものである。というか、真相など無い。こんな結末など許してよいものか。ミステリの賞に応募すれば、編集者が原稿を破り捨てること請け合いである。とにかく物語の核心がどこにあるのか分からず、またミステリ要素についても、特に驚かされるものがあるわけでもない。又吉に書けるのは、やはり私小説だけなのだろうか。

 

総評

『 ミステリーを科学したら 』の由良三郎先生が本作を鑑賞したら、何と言うだろうか。あるいは綾辻行人あたりなら、何と評すだろうか。確かなのは、彼は決して本作を褒めないだろうということだ。映像作品としても光るところに乏しい。佐野ファン、または本郷ファン、または又吉ファンでなければ、敢えて観るまでもない。

『 サタデーナイト・チャーチ 夢を歌う場所 』 -テーマにもっとフォーカスすべし-

サタデーナイト・チャーチ 夢を歌う場所 55点
2019年3月3日 大阪ステーションシネマにて鑑賞
出演:ルカ・カイン
監督:デイモン・カーダシス

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原題は“Saturday Church”である。どう考えてもこの邦題は『 サタデー・ナイト・フィーバー 』を意識している。そうに違いない。それではあまりにセンスが無さ過ぎる。それとも、そうした中年以上の世代を映画館に呼び込み、無意識の差別意識を炙り出そうという試みなのだろうか。

 

あらすじ

父が死に、ニューヨークのブロンクスで母と弟と暮らすユリシーズルカ・カイン)。彼は体は男であったが、心は女だった。そんな彼は学校ではいじめに遭い、家では無理解に苦しんでいた。ある時、たまたま出会ったトランスジェンダーの人々と交流を持つようになり・・・

 

ポジティブ・サイド

街並み、そして人間が息をしている。それはカメラが決してユリシーズの目線から離れないからである。といっても、これは主観ものではない。上空からのショットや、『 マトリックス 』のような360°回転のショットなどがないということである。映像作品としてその部分だけを切り取れば、非常にさびしい。しかし、ユリシーズというキャラクターを描写するのには良い選択であった。

 

父が死んだことで、母が仕事を増やさざるを得ず、子どものサポートを叔母に依頼する。この叔母さんは怖い。悪意を持っているから怖いのではなく、自らの考えの正統性を盲信しているから怖いのだ。オウム真理教以来、我々はカルトの恐ろしさをよく知っている。この叔母からはカルト的な臭いがプンプンするのである。『 愛と憎しみの伝説 』のマミー、ジョーン・クロフォードとは比べるべくもないが、このような人間というのは確かに存在する。そこにリアリティがある。

 

主演のルカは、中性的な顔つき、体つきでハマり役である。もちろん、メイクさんらの助力も得てのことである。トランスジェンダーというのは、同性愛よりも理解するのが難しいところがある。異性を好きになる気持ちが同性に向くだけだという意味では、同性愛は分かりやすい。しかし、自分の体と心がフィットしていないという感覚は理解できそうで、なかなか出来ない。服や靴や帽子が合わないのであれば取り換えれば済むが、自分の体となるとそうはいかない。Jovianや何人かの同級生は第二次性徴時にホルモンバランスが崩れたせいか、胸や乳首が痛くなった経験があるが、あのような痛みや違和感が常に付きまとう感じなのだろうか。ユリシーズというキャラクターの不安定さを歩き方や話し方、目線で表現できていたように感じた。特にハイヒールを履く場面は、よほど研究をしたに違いないと思わせる表現力を見せてくれた。

 

母親も良い。 Positive make figure を欠いたアメリカの一般的家庭は往々にして空中分解するか、それまでに母親が新しいパートナーを見つけるかするのだが、この母ちゃんは強い。女は弱し、されど母は強し。そういえば『 母が亡くなった時、僕は遺骨を食べたいと思った。 』で誓ったはずの母親孝行をまだ果たしていない・・・

 

ネガティブ・サイド

ミュージカルの要素は必要だったのだろうか。もっと日常的な部分の演出に力を入れて、この作品世界のリアリティをもっと追求する方向に舵を切っても良かったのではないだろうか。

 

また、ユリシーズのロマンスがあまりにも唐突過ぎた。確かに良い雰囲気を出してはいたけれど、いきなりお互いに「君なしでは生きていけない」などと、オリビア・ハッセー版の『 ロミオとジュリエット 』の如くあっという間に恋に落ちて、深夜のストリートで踊り合い、歌い合うのは、シネマテッィクではあるが、ドラマティックではない。片方はトランスジェンダー、もう片方はゲイというカップルの誕生を、もっと丁寧に作り込むべきだった。そこにこそドラマがある。また、残念ながらこのシーンではユリシーズ役のルカ・カインの歌唱力の弱さが際立ってしまう。非常に惜しいシーンになってしまっている。

 

またキャストの多くは黒人であるが、一人だけ出てくる東洋系の男が作品全体のノイズになっているように感じたのは、自分も東洋人の端くれだからだろうか。最後のユリシーズドラァグクイーンとしてのデビューの描写も弱かった。ある意味、人生で初めて輝く舞台なのだから、それこそ観る者を耽溺させるような映像美で、自分が自分らしくあることの美しさを称揚するようなメッセージを発して欲しかったと願う。

 

総評 

色々な意味で惜しい作品である。ただし、デイモン・カーダシス監督にはメッセージ性と芸術性のある作品を撮れる力があることが分かった。次作があれば、ぜひチェックしてみようと思う。

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