Jovian-Cinephile1002’s blog

古今東西の映画のレビューを、備忘録も兼ねて、徒然なるままに行っていきます

『 響 -HIBIKI- 』 -天才=社会性の欠落という等式の否定-

響 -HIBIKI-  50点

2018年9月17日 MOVIXあまがさきにて鑑賞

出演:平手友梨奈 北川景子 小栗旬 アヤカ・ウィルソン 高嶋政伸 柳楽優弥 野間口徹 吉田栄作

監督:月川翔

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hibiki

 編集者の花井ふみ(北川景子)は、新人賞への応募作品に衝撃を受ける。著者は鮎喰響(平手友梨奈)、15歳の女子高生。その文才は、天才という言葉以外では名状しがたいものだった。しかし、響を響きたらしめるのは、その文才よりもむしろ、あまりにも直截すぎる対人関係スキルであった。すなわち、社会性の欠如である。響にとっての人間関係とは、常に個と個のつながり、もしくはせめぎ合いであるようだ。我々はついつい響のエキセントリックな行動の数々、なかんずくその暴力性に目を奪われてしまう。それは時に親友の凛夏(アヤカ・ウィルソン)や編集者のふみにも及び、女と女の仁義なき戦い、平手打ち合戦からピローファイトにまで発展する。その一方で、響は面白い作品を世に送り出す作家には、呼び捨てをしてしまうという社会性の欠如は見られるものの、自ら駆け寄り、無邪気な笑顔で握手を求めるという、年齢相応の行動を見せたりもする。それとは逆に、大御所であっても、名作を生み出す力を無くして久しい作家には敬意を表することはない。むしろ、ハイキックをお見舞いする始末である。

 我々は彼女の行動に社会性の欠如をこれでもかと見出すが、その一方で社会性という言葉の持つ空虚さを響に見せつけられもする。その最たるものが、記者会見での謝罪要求を突っぱねるところだろう。暴行を加えた相手に個人的に謝り、相手もその謝罪を容れたのだから、これ以上誰に謝る必要があるのか?という理屈だ。蓋し正論であろう。現実の世界でも、芸能人や著名人、社会的に一定以上の地位にある人間が不祥事を起こした時には、謝罪のための記者会見がセッティングされる。日本人は根本的に謝罪が好きなのだ。そうした謝罪をフルに楽しむための映画には阿部サダヲ主演の『謝罪の王様』が挙げられる。もしくは謝罪会見のお手本中のお手本としては某大学のアメリカンフットボール部部員の例が挙げられよう。

 Back to the topic. 社会性と我々が言う時、我々は結局、自分自身の意見を大多数の顔も名前も知らない他者たちに仮託しているに過ぎないことを、響は明らかにしてしまう。「○○○と感じる人もいると思いますが」、「中には□□□という意見もあるようですが」。これらは記者会見だけではなく、ネットの論説記事などでよく見られるセンテンスの類型である。≪editorial we≫と呼ばれる手法である。野間口徹演じる週刊誌記者に対して、響は相手の息子をある意味で人質に取るかのような発言をし、相手から譲歩を引き出す。人間は、社会的な肩書をひっぺがして、徹底的に個の部分をついてしまえば、実は非常に弱く脆い生き物である。このことは小林よしのりがその著『ゴーマニズム宣言』において、川田龍平氏と厚労省の官僚の面談の場で、あまりにも非人間的な対応に業を煮やした小林は「あなたの子どもに、『お父さんは人殺しなんだよ』と伝えようか」と迫る。その時に初めて、官僚が人間の顔を見せたという一幕が描かれていた。響も記者から記者の皮を剥ぎ取り、人の親たる個の姿を引きずりだした。そうすることで初めて、自分も誰かの子であると相手に思い起こさせたわけだ。我々は人間関係において、相手という人間部分を見ず、相手の社会的な地位や属性にばかり目を向けたがる。大御所作家の祖父江秋人(吉田栄作)の娘の凛夏をデビューさせるところなど、まさにそうだ。大作家の娘にして現役女子高生という属性が話題を呼びやすいだろうという打算がそこにまず働いている。

 異形、異能、異端。我々は天才あるいは社会の規範に収まりきらない才能をしばしば異類もしくは異種として扱う。天才だから突き抜けた存在になれるわけではない。逆で、我々は突き抜けた存在にしか天才性を見出せない。なぜなら、我々が金科玉条のごとく敬い奉る社会的属性を、天才はそもそも纏わないから。将棋の世界は天才だらけだが、名棋士列伝というのは、そのまま変人・変態列伝であったりもする。そのことは加藤一二三先生を見ればお分かり頂けよう。これは日本だけに当てはまる話ではなく、チェスのグランドマスターを列伝体で語るならば、それもそのまま西洋文明世界の奇人変人列伝となる。特に、ボビー・フィッシャーは『完全なるチェックメイト』で映画化されたが、彼の奇人変人狂人っぷりは伝記『完全なるチェス 天才ボビー・フィッシャーの生涯』に詳しい。

 Back on track. 本作では本棚が重要なモチーフになっている。あるキャラクターが本棚の本を、ある法則でもって分類整理しているのだ。そのことを貴方はどう見るだろうか。本の面白さとその著者の人格は統合して考えるべきだろうか。それとも分けて考えるべきだろうか。気に入らないことがあればすぐに暴力に訴える女子高生の部屋に、年齢・性別相応のかわいいぬいぐるみがあることを、貴方はどう受け止めるべきなのだろうか。我々の思考は危険な二分法の陥穽にはまりがちだ。AはAであって、非Aではない。そう感じる我々に絶妙のタイミングで「動物園でキリンをバックに写真撮影するシーン」が訪れる。ここで我々は響は、その異能性にも関わらず、普通の女の子と何ら変わることのない属性を有していることを知り、愕然とする。天才とは突き抜けた存在ではなく、我々が勝手に敬して遠ざける対象であることを知るからである。思い出してほしい。響は、たとえそれがキックであれ握手であれ、舌鋒鋭い批評であれ友情の言葉であれ、常に自分から他者との関係の構築もしくは調節に動き出していた。社会性の欠如は、天才の側ではなく、天才に接してしまった凡人の中に生じるのだ。非常に回りくどいやり方ではあるものの、確かに我々は現実世界でもそのように振る舞っている。

 本作の欠点をいくつか挙げさせてもらえれば、まず第一にキャラクターの弱さである。特に幼馴染っぽい男と文芸部に再入部してくれる不良は、マネキンのごとく、ただ突っ立っているだけのことが多かった。また、小栗旬のキャラクターが初めて登場するシーンで、PCで小説を執筆するシーンだが、あれは本当に文字を打っていたのか?それとも適当にキーボードをがちゃがちゃやっていただけなのだろうか?というのも、右手の小指がEnterや句点、読点の位置に全く来なかったように見えたからだ。もちろん、そういう可能性もある。小説家の奥泉光は、小説修業時代に、始めから終わりまでただの一文で書き切る小説や、地の分だけ、逆に会話文だけで完結する小説など、種々の制約を自らに課して物書きに励んだと言う。小栗も、そうした手法を用いていたのかもしれないが・・・ 最後に、直木賞芥川賞に、現代それほどの価値が認められているだろうか?という疑問がある。又吉直樹の『火花』はそれなりに面白い小説および映画であったが、どう見ても私小説の域を超えていない。いや、ジャンル分けはどうでもよい。現代という、食べログや映画.comといった既存の権威(一部の評論家など)を破壊して、一般大衆の個々の意見を丁寧に拾い上げるシステムが構築され、一定の力を得ているようになった時代に、賞でもって作品の格付けをしようとすることそのものが天才と凡人を分ける思考そのものではないのだろうか。そして、今やネット上の民主的なシステムですら脱構築されようとしているのではないだろうか。そうした時代にあって、天才と向き合うことをテーマにした本作が発するメッセージは決して強いとは言えないだろう。本作を観ようかどうか迷っている向きは、こんなブログ記事の言うことなどあてにせず、「文句を言うなら観てからに」するように(台詞うろ覚え)。