Jovian-Cinephile1002’s blog

古今東西の映画のレビューを、備忘録も兼ねて、徒然なるままに行っていきます

『 散り椿 』 -傑作に成り切れなかった作品-

散り椿 50点
2018年10月13日 大阪ステーションシネマにて鑑賞
出演:岡田准一 西島秀俊 麻生久美子
監督:木村大作

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散り椿

すっかりアイドル路線から俳優路線にシフトした岡田准一である。しかし、出身地である大阪府枚方市ではご当地ひらパー園長を務め、大真面目に面白おかしいひょうきん兄さんを演じる好漢でもある。ヒット作品もイマイチな作品も、岡田准一なのだからと妙に納得できる力をつけてきている。そして、出番こそ少ないものの麻生久美子である。『 ぼくたちと駐在さんの700日戦争 』では男子高校生の欲情を微妙に、絶妙にそそる駐在妻を演じ、『 シーサイドモーテル 』では娼婦を、『 モテキ 』、『ニシノユキヒコの恋と冒険』、『 ラブ&ピース 』あたりでは幸薄い大人の女を演じるなど、常にそこはかとない色気を振りまいてきた麻生久美子である。これだけで映画の成功は半分は約束されていたはず、だったが・・・

 

あらすじ

剣の達人にして清廉の武士、瓜生新兵衛(岡田准一)は、藩の上層部の不正を届け出た。しかし調査の最中、ある藩士が殺害された。その下手人としての疑いが新兵衛にかけられたことで、新兵衛は、妻の篠(麻生久美子)と共に出奔。それから八年、篠の死を看取った新兵衛は、藩政の正道化を目指すかつての仲間にして出奔の原因ともなった榊原采女西島秀俊)のいる国もとを訪れる。藩政の行方が懸かった権力闘争に、新兵衛も巻き込まれていく・・・

 

ポジティブ・サイド

殺陣の迫力と、その長回しでの収録には恐れ入った。西部劇にドンパチ対決がなくてはならないように、時代劇には必ず殺陣がなくてはならない。その殺陣を、編集の力を極力借りることなく一気に描き切り、撮り切ったことに、役者、照明、音声収録、カメラオペレーターらの苦労を思い知る。武士を描く、もしくはチャンバラを描く映画は定期的に生み出されるが、これほどしっかりとした時代劇は『 一命 』以来である。

 

岡田准一の存在感は相変わらず高いレベルで安定している。本来ならば馬を称えるべきなのだろうが、暴れ馬を一瞬で御してしまうシーンを冒頭に持ってくることで、新兵衛は単なる剣術馬鹿なのではなく、一廉の武士であることを明示した。これがあることで悪代官の権化のような石田玄蕃(奥田瑛二)と対峙しても、その格を保っていられる。また悪役側の雄たるべき新井浩文の役に対しても格上であることを観客に一瞬で知らしめた。これこそが映画の技法である。

 

篠の妹の里美(黒木華)や、新兵衛や采女の盟友の娘、美鈴(芳根京子)らの女優陣も作品に落ち着きと生活感をもたらしている。『 クレイジー・リッチ! 』でも顕著であったが、ある特定の地域や時代、もしくは家庭や生活の背景を物語る際に、家政のシーンを描写するというのは非常に効果的である。もしくは『 万引き家族 』を思い出しても良いだろう。あのごちゃごちゃした空間は、生活レベルの低さ、貧しさを言葉ではなく映像で如実に説明した。本作も里美が忙しなく動き回るシーンをいくつか挿入することで、新兵衛が帰ってきた藩、そして家に生活感があることが感じられる。最愛の妻を亡くした新兵衛が、落ち着いて逗留できる場所を見つけられたことの新兵衛の安堵の気持ちを、縁側のシーンで鮮やかに描き切った。これもまた映画の技法である。

 

ネガティブ・サイド

一方で、指摘しておかねばならない弱点もある。物語が余りにも特定の人物の周辺だけで展開されている。農民のために新田を開墾するというのなら、武家の坂下家だけではなく、ほんの数ショット、時間にして20秒で良いので藩の農民の生活ぶりを映し出す必要があったと思う。それがあれば、後半の殿の江戸からの帰還の重みと采女の心情と信条の強さがより際立ったであろうと思う。

 

もう一つ残念なのは、後半に颯爽と登場する殿がデウス・エクス・マキナになるのかと期待させながら、狂言回しにすらならないことだ。また石田玄蕃の終盤での行動の必然性が分からない。何故あそこで、このキャラクターを狙ったのか。それは玄蕃の思惑というよりも作者の思惑だ。物語を進め、ドラマを盛り上げたい以上の意図が読み取れない事件が発生するのである。ここから本作は一挙に陳腐化する。水戸黄門であれば印籠を出して最後にシャンシャンで済むわけであるが、本作はテレビドラマではなく、小説を基にした映画である。殺陣の迫力のみでクライマックスを押し切ってしまうのは大したものと言えなくもないが、悪役の玄蕃の言動や行動原理が首尾一貫せず、また死に様にも美しさが無い。もっと陳腐な死に方でよいのだ。結局は小物だったのだから。もしくは福本清三や、あるいは斬られ侍の藤本長史が決して出来ない(してはならない)顔芸で死んでいっても良かった。クライマックスに至る過程とその決着の必然性と美しさの欠如が、本作から大きく減点しなくてはならない要素になってしまっている。

 

最後にもう一つ細かい点を追加するなら、雪のシーンは何とかならなかったのだろうか。黒と白のコントラストは映画館では特に映えるものだが、そこに映像美以外のものが込められていなければ、それは製作者の自慰に過ぎない。手を血で染め、愛する人もなくし、友を支えることもできずに悶々とした日々を過ごして新兵衛と、前途に洋々たる希望を抱く若武者の坂下藤吾(池松壮亮)が対比されるシーンがあったが、これで良いのだ。逆にオープニング早々の雪がしんしんと降るシーンは画としては美しくとも、映画としては失敗であると断じさせていただく。

 

総評

時代劇というのは年々難しくなっているジャンルである。水戸黄門すら打ち切られて久しい。今後も戦国時代をパロディ化した原作を基に映画を作るというトレンドは続くと思われるが、本格的な時代劇映画の再興は遠いと思われる。が、岡田准一、西島英俊というキャスティングからも、製作者たちは本作をカジュアルな女性ファンにも届けたいと願っているのは明白である。そうした層に向けてのヘビーな絵作り、ライトな物語というのであれば、納得できないことはない出来である。