Jovian-Cinephile1002’s blog

古今東西の映画のレビューを、備忘録も兼ねて、徒然なるままに行っていきます

『クレイジー・リッチ!』 -ハリウッドの新機軸になりうる作品-

クレイジー・リッチ! 75点

2018年9月29日 MOVIXあまがさきにて鑑賞

出演:コンスタンス・ウー ヘンリー・ゴールディング ジェンマ・チャン リサ・ルー オークワフィナ ハリー・シャム・Jr. ケン・チョン ミシェル・ヨー ソノヤ・ミズノ

監督:ジョン・M・チュウ

 

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 原題は”Crazy Rich Asians”、≪常軌を逸した金持ちアジア人たち≫の意である。ここで言うアジア人とは誰か。オープニング早々にスクリーンに表示されるナポレオン・ボナパルトの言葉、”Let China sleep, for when she wakes, she will shake the world.”が告げてくれる。中国人である。中国の躍進はアジアのみならず世界の知るところであり、その影響は政治、経済、文化に至るまで極めて大きくなりつつある。そして映画という娯楽、映像芸術の分野においてもその存在感は増すばかりである。そうした事情は、今も劇場公開中の『MEG ザ・モンスター』に顕著であるし、この傾向は今後も続くのであろう。それが資本の論理というものだ。その資本=カネに着目したのが本作である。

 ニューヨークで経済学の教授をしているチャイニーズ・アメリカンのレイチェル(コンスタンス・ウー)は、恋人のニック(ヘンリー・ゴールディング)が親友の結婚式に出席するために、共にシンガポールを目指す。が、飛行機はファースト・クラス・・・!?ニックがシンガポールの不動産王一家の御曹司で常軌を逸した金持ちであることを知る。そして、ニックの母のエレノア(ミシェル・ヨー)、祖母(リサ・ルー)、ニックの元カノ、新しくできた友人たちなど、人間関係に翻弄されるようになる。果たしてレイチェルとニックは結ばれるのか・・・

 本作の主題は簡単である。乗り越えるべき障害を乗り越えて、男と女は果たして添い遂げられるのか、ということである。平々凡々、陳腐この上ない。シェークスピアの『ロミオとジュリエット』(オリビア・ハッセーver >>>>> ディカプリオver)のモンタギューとキャピュレットの対立は貴族間の階級闘争であったが、本作はそこに様々に異なるギャップ、格差の問題を放り込んできた。それは例えば、『シンデレラ』に見出されるような、王子様に見初められる平民の娘という文字通りのシンデレラ・ストーリーの要素であり、男が恋人と母親の間で右往左往する古今東西に共通する男の優柔不断さであったり、同じ人種であっても文化的に異なる者を迎え入れられるかという比較的近代に特有の問いを包括していたり、また『ジョイ・ラック・クラブ』の世代の二世達がアメリカという土地で生まれ、成長してきたにも関わらず、アメリカ社会では生粋のアメリカ人とは認めらず、中国・華僑社会でも中国人とは認められない、二世世代の両属ならぬ無所属問題をも扱っている。また家父長不在の華僑家族におけるタイガー・マザー的存在、さらには、女の仁義なき戦い、将来の嫁vs姑による前哨戦および決戦までもがある。とにかく単純に見える主題の裏に実に多くの複雑なテーマが込められているのが本作の一番の特徴である。

 詳しくは観てもらって各自が自分なりの感想を抱くべきなのだろうが、まだ未鑑賞の方のためにいくつか事前にチェックしておくべきものとしてタイガー・マザー異人が挙げられる。民俗学や人類学の分野でよく知られたことであるが、異人は異邦の地では異人性を殊更に強化しようとする。横浜や神戸に見られる中華街、大阪・鶴橋のコリアンタウンなどは代表的なものであるし、在日韓国・朝鮮人が自分たちの学校を作り、民族教育を行うのも、異人性の強化のためであると考えて差し支えない。中国人には落地生根という考え方がある。意味は読んで字の如しであるが、落地成根とは異なるということに注意されたい。本作で最大のサスペンスを生むレイチェルとエレノアの対峙は、ある異人は他の異人を受け入れられるのかという問いへの一定の答えを呈示する。彼女たちは中国にルーツを持ちながらも、生まれ育った土地や文化背景を本国とは異にする者たちである。彼女たちの相克は、世代間闘争であり、経済格差間闘争であり、文化間闘争でもある。この“闘う”という営為に中国人が見出すものと現代日本人が見出すものは、おそらく大きく異なることであろう。それを実感できるというだけでも、本作には価値があると言える。

 本作を鑑賞する上で、先行テクストを挙げるとするなら、エイミー・タンの『ジョイ・ラック・クラブ』であろう。Jovianの母校では、一年生の夏休みの課題の一つは伝統的にこの小説を原書で読み感想文を英語で書くというものだった。それは今もそうであるらしい。今までにチャイニーズ・アメリカン、コリアン・アメリカン、フィリピーノ・アメリカン、コリアン・カナディアン、ジャパニーズ・アメリカンらにこの小説を読んだことがあるかと尋ねたことがあるが、答えは全員同じ「俺たちのようなバックグラウンドの持ち主で読んでいないやつはいない」というものだった。映画化もされており、大学一年生の時に観た覚えがある。そこで麻雀卓を囲む母親の一人がニックの祖母を演じたリサ・ルーである。『ジョイ・ラック・クラブ』が伝えるメッセージを受け取った上で本作を鑑賞すれば、上で述べた闘争の本質をより把握しやすくなるだろう。

 長々と背景について語るばかりになってしまったが、映画としても申し分のない出来である。それは、演技、撮影、監督術がしっかりしているということだ。特にニック役のヘンリー・ゴールディングとその親友を演じたクリス・パンは素晴らしい。ヘンリーは演技そのものが初めてであるとのこと。今後、ハリウッドからオファーが色々と舞い込んでくると思われる。しかし何よりも注目すべきはミシェル・ヨーである。一つの映画の中で嫌な女、強い女、責任感のある女、認める女とあらゆる属性を発揮する女優は稀だからだ。『ターミネーター』と『ターミネーター2』におけるリンダ・ハミルトンをどこか彷彿させるキャラクターをヨーは生み出した。この不世出のマレーシア女性の演技を堪能できるだけでチケット代の半分以上の価値がある。

 『MEG ザ・モンスター』の原作からの改変具合、特に中国色があまりに強いことに拒否反応を示す人がいるだろうが、Jovian自身が劇場の内外(ネット含む)で聞いた残念な感想に、「なぜ皆、あんなに英語が上手なのだ?」という、無邪気とも言える疑問である。おそらくこのあたりに真田広之渡辺謙がハリウッド界隈で日本一でありながらアジア一ではない理由がある(アジア一はイ・ビョンホンだろう)。なぜ本作の中でK-POPがディスられながらも日本文化はスシ(≠寿司)の存在ぐらいしか言及されないのか。なぜ錚々たるアジア企業やアジアの国の名前が挙げられる場で、日本の名が出てこないのか。英語というのは学問ではなく技能である。そして言語である。言語は、他者との関係の構築と調整に使うもので、特定の誰かに属するものではない。言語への無関心、そして学習への意欲の無さが、そのまま日本の国力および国際社会でのプレゼンスの低下を招いていることを、もっと知るべきだ。言語に対してアジア人たる我々が取るべき姿勢については【Learning a language? Speak it like you’re playing a video game】を参照してもらうとして、東南アジア各国は“闘争”をしているし、東北アジアでは日本と北朝鮮は“闘争”をしていないとJovianは感じる。単に時代や社会背景を敏感に写し撮った映画であること以上の意味を、アジア人たる我々が引き出せずにどうするのか。デートムービーとしても楽しめるし、深い考察の機会をもたらしてくれる豊穣な意味を持つ映画として鑑賞してもよい。台風が去ったら、劇場へ行くしかあるまい。