Jovian-Cinephile1002’s blog

古今東西の映画のレビューを、備忘録も兼ねて、徒然なるままに行っていきます

『 町田くんの世界 』 -無邪気な純粋さがオッサンには刺さる-

町田くんの世界 70点
2019年7月2日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:細田佳央太 関水渚
監督:石井裕也

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留まるところを知らない邦画界の漫画の映画化トレンド。しかし、たまに良作が生み出されるから、あれこれとアンテナを張っていなければならない。個人的には『 センセイ君主 』と並ぶ面白さであると感じた。

 

あらすじ

町田一(細田佳央太)は人が好き。呼吸するように人助けをする彼が、ちょっとした不注意で怪我をしてしまい保健室へ。そこで普段はめったに学校に来ない猪原奈々(関水渚)と出会う。町田くんの愚直なまでの親切さに、奈々の心は少しずつほぐれていくが・・・

 

ポジティブ・サイド

まず町田くんというキャラが良い。山本弘の小説『 詩羽のいる街 』の詩羽の男子高校生バージョンのようなものを事前に想像していたが、全然違った。町田くんの行動には損得勘定が無い。人が好きだという言葉に裏が無い。思い込んだら一筋で一途。手助けの結果、見返りを求めない。先立つ一切の前提なく行動できることを、イマヌエル・カントは「自由」と呼んだ。町田くんは純粋な自由人なのだ。必ずしも良い人なのではない。劇中、猪原さんを大いに怒らせ、落胆させるからだ。それも悪意や敵意からではなく、他人に対する好意や善意ゆえになのである。こうしたキャラは希少である。そんなキャラクターを見事に現出せしめた細田佳央太を、周囲のハンドラー達は今後しっかり成長させ続けねばならない。

 

だが、もっと頑張って欲しいと願うのは関水渚のハンドラー達である。浜辺美波南沙良のような、ポテンシャルが発揮されるのは時間の問題、すなわち良い役と出会えるかどうか、と思えるような女優ではなく、ポテンシャルの底をもっともっと掘るべしと思わせるタイプである。浜辺や南は多分、大谷翔平タイプだ。大いなる舞台と機会を与えれば、きっと開花する。しかし、関水は多分、藤浪晋太郎タイプである。現時点のポテンシャルだけで勝負させてはならない。もっとトレーニングを積まねばならない。だが、そうすれば二軍 → 一軍 → オールスター → 日本代表 → MLBという未来も拓けてくるかもしれない。削って磨いてみなければ分からないが、この石はおそらく光る。夜の町田くん宅の前、および自宅前のとあるシーンは、素直になりたいが故に素直になれないという猫的な、王道的な少女漫画的キャラのクリシェを忠実に演じていた。序盤と中盤以降で全く違う表情になるのは、メイクアップアーティストの手腕もあるだろうが、本人の表現力の高さのポテンシャルも感じさせる。売れるうちに一気に売りまくるのではなく、じっくりと確実に成長させてほしい。

 

少女漫画の王道は、自分の気持ちに素直になれないイケメンと美少女の予定調和的な紆余曲折を経て結ばれる。本作はそこをひっくり返した。常に自分の気持ちにまっすぐに生きる少年が、自分の気持ちに苦しむ。人がみんな好きということは、特定の誰かを好きではないということだ。そして特定の誰かを好きになってしまうことは、その他の人たちを傷つけてしまうことになる。町田くんはそのことを恐れている。その狭間で悩み苦しみ、足掻く町田くんの姿は、くたびれたオッサンの心に突き刺さった。『 わたしに××しなさい! 』でも指摘したが、それは青春の醍醐味であり、終わりでもある。彼の無邪気さ、純粋さは時に周囲には能天気さとも過剰な真面目さとも受け取られる。だが、町田くんほど劇的な形ではないにせよ、オッサンもオバちゃんも皆、このようなビルドゥングスロマンを自ら経験してきたはずだ。美男美女が織り成す美しい物語ではなく、生真面目で一生懸命な少年と、素直になりたいのに素直になれない少女のファンタジックな交流物語は、アラサー、アラフォーの世代にこそ刺さるはずだ。特に町田くんが無意識のうちに実行している存在承認、成果承認、行動承認は、モテ男を目指す全ての男性および職場で居場所を確保したいビジネスパーソンにとって必見であると言える。

 

キャラクター以外の要素も光る。たびたび川原の水門沿いのスペースが映し出されるが、これは猪原さんの心象風景であろう。流してしまいたい思い、溢れ出させてしまいたい想いのメタファーである。そこに暮らす仲睦まじい鴨のカップルにもほっこり。また学校にある二宮金次郎像に思わずニヤリ。様々な事情から全国的に撤去されているが、これも現代の日本人像のメタファーである。終盤のとあるシーンの不自然さも、これで見事に帳消しになっているのである。様々なガジェットも無意味に配置されているわけではない。石井監督、さすがの手練である。

 

ネガティブ・サイド 

主演二人以外のキャスティングが豪華すぎる。それはまだ良い。しかし、一部に高校生役が厳しい者も混じっている。前田敦子は意外に通じる。岩田剛典や高畑充希はちょっと苦しい。大賀はもう無理である。

 

光、照明に関しても、一貫性に欠けるシーンが2、3あった。最も気になったのが、病室が夕陽で満たされていたのに、次にとある場所に移動したときには完全に夜中になっていたこと。普通に考えれば近場の施設であるはずだし、そうでないとおかしい。作中で7月冒頭と明示されたいたはず。つまり、夏至直後である。午後8時としても、空は薄明かりが広がっているはず。病院からいつもの川原まで1時間半以上かかったと言うのか。にわかには信じがたい。

 

町田くんが「キリスト」と一部で呼ばれているというのも少々気になった。原罪を背負った人類の贖罪のために、神は其の子イエスを地上に遣わし、敢えて死なせしめた。愛する対象のために代わって死ぬ。これが神の御業である。愛する妻や子が病気で苦しんでいたら、自分がその苦痛を引き受けてやりたいと願う。それが人の愛である。それを本当に実行してしまうのが神の愛であるが、これを町田くんに適用するのはちょっと違うのではないかと感じる。第一に、町田くんの愛は彼の生活世界の中での博愛である。第二に、あくまで人間イエス・キリストは人格者でも何でもないからである。むしろ、博愛の精神で自らの生活圏から敢えて飛び出し、各地で神の教えを積極的に説き、ほとんどすべての場所でウザがられ、時に迫害すらされたムハンマドの方が、よほど町田くんとの共通点が多い。これは考え過ぎか。

 

もう一つは、池松壮亮の言う「この世界は悪意に満ちている」が指す世界と、『 町田くんの世界 』がほとんどオーバーラップしないことである。町田くんの世界とはカントやヘーゲル、またはヴィトゲンシュタインが説明するような絶対的な存在としての世界ではなく、フッサールが言うところの生活世界に近いものだ。世界という言葉の意味を意図的にずらして解釈したに等しく、池松演じる記者を狂言回しではなく、ただのパズルの一ピースにしてしまった。

 

最後に、最終盤のショットおよびシークエンスが『 メリー・ポピンズ・リターンズ 』および『 天空の城ラピュタ 』の、良く言えばオマージュ、悪く言えばパクリであった。かなり長いシークエンスで人によっては冗長に感じるはず。だからこそ、オリジナルな味付けをして、観る側をエンターテインさせる工夫が欲しかった。

 

総評

秀逸な作品である。中学生~大学生ぐらいの層がどのように本作を受け取るのかは分からないが、デートムービーにはなるだろう。逆に、気になるあの子を映画館に誘う時に効果的な作品ではない。町田くん以上の魅力を発することのできる男などそうそういない。男が惚れる男、それが町田くんなのである。仕事に疲れ切ったサラリーマンやOLが、友達になりたい、一緒にご飯を食べたい、と感じてしまうようなキャラなのだ。無名の俳優が主役を演じる漫画の映画化と思い込むなかれ。欠点もあるが、それを補って余りあるエンパワーメントの作用が本作にはある。

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