Jovian-Cinephile1002’s blog

古今東西の映画のレビューを、備忘録も兼ねて、徒然なるままに行っていきます

『 君の名は。 』 -夢と現の狭間の物語-

君の名は。 65点
2019年7月18日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:神木隆之介 上白石萌音 長澤まさみ
監督:新海誠

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これはStar-crossed loversの物語である。Starには星や、スター誕生のスターなど色々な意味を持っているが、「運命」という意味もある。そうしたことは『 グレイテスト・ショーマン 』でのゼンデイヤザック・エフロンのデュエットが『 リライト・ザ・スターズ 』(Rewrite The Stars)『 きっと、星のせいじゃない 』の原題が“The Fault In Our Stars”(英語学習者で意欲のある人は、何故fault in our starsであって、fault with our starsなのか調べてみよう)であったりと、星は運命を司るものの象徴だった。そのことを真正面から描いた作品には希少価値が認められる。確か封切の週の日曜日の夕方に東宝シネマズなんばで鑑賞した記憶がある。あまりの観客の多さに、上映時間が20分ぐらいずれたと記憶している。『 天気の子 』の予習的な意味で再鑑賞してみる。

 

あらすじ

地方の田舎町に暮らす宮水三葉上白石萌音)と東京に暮らす立花瀧神木隆之介)は、互いの身体が入れ替わるという不思議な夢を見る。しかし、それは夢ではなく、二人は本当に入れ替わっていた。決して出会うことのない二人は互いへの理解を深めていく。その時、1200年に一度の彗星が迫って来ており・・・

 

ポジティブ・サイド

 

以下、ネタばれに類する記述あり

 

グラフィックは美麗の一語に尽きる。特に森の木々や空の雲、水面が映す光など、オーガニックなものほど、その美しさが際立っている。映画とテレビ番組の最大の違いは、映像美、そのクオリティにある。大画面に生える色彩というのはインド映画で顕著であるが、アニメーションの世界でも、いやアニメーションの世界だからこそfantasticalな色使いを実現することができるのだ。そのポテンシャルを存分に追求してくれたことをまずは讃えたい。

 

ストーリーも悪くない。星を身近に感じない文化はおそらく存在しない。要は、星をどのようなものとして捉えるか。その姿勢が、観る者の心を掴むことにもつながる。劇中でも言及されるシューメーカー・レヴィ第9彗星、それに百武彗星、ヘールボップ彗星などは一定以上の年齢の人間には懐かしく思い出されるだろう。また、こうした彗星を懐かしく思える人というのは、小惑星トータチスや、さらにはノストラダムス絡みの終末論などをリアルタイムで“楽しんだ”世代の人間だろう。新海誠氏はJovianのちょっと年上であるが、For our generation, stars are romanticized symbols. 星とは死と再生、破壊と創造の架け橋なのだ。そうしたモチーフとしてのティアマト彗星が、RADWIMPSの楽曲とよくフィットしている。七夕を現代的に大胆にアレンジすれば、このようなストーリーになってもおかしくない。

 

逢魔が時、黄昏時、誰彼時。確かに夏の日などには、ほんの数分、世界が紫の光に包まれる瞬間がある。生と死、陰と陽(これも分かりやすく町長の部屋にあった)、そうしたものが溶け合い混じり合う瞬間こそが、本作のハイライトである。それは夢現である。夢なのか、それとも現実なのか。『 となりのトトロ 』の「夢だけど夢じゃなかった」という、あの感覚である。そして、夢ほど忘れやすいものはない。たいていの人は、どうしても忘れられない強烈な夢の記憶が二つ三つはあるだろう。しかし、昨日見た夢さえ人は忘れてしまう。いや、悪夢にうなされて目覚めても、わずか数分でどんな夢だったかすら、我々は簡単に忘れてしまう。身体を入れ替える。それは、ある意味では究極の愛の実現である。アンドロギュヌスは男女に分裂してしまった。だからこそ、互いに欠けた状態を求め合う。それがエロスである。性欲や性愛ではなく、失われた半身を無意識のうちに探してしまう。それが瀧と三葉の関係である。そして、瀧は愛する三葉のために三葉になる。アガペーとも概念的に融合したキリスト教的な愛である。我々は愛する人が病気などで苦しんでいる時に、できることならその苦しみを自分が代わりに引き受けてやりたいと願う。しかし、それは神ならぬ身の自分にはできない。キリスト教の神は、人の罪を購うために一人子のイエスを遣わし、自ら死んだ。愛する人の代わりに死ぬ。それが究極の愛なのかもしれない。久しぶりに、ロマンチックな物語を観たと思う。

 

ネガティブ・サイド

普通に考えれば、瀧と三葉が入れ替わっている時に周囲の人間は異常事態に気付くはずである。「昨日はちょっと変だったぞ」では済まない。絶対に。ファイナルファンタジーⅧのジャンクションではなく、本当に中身が入れ替わっているのだから。例えばJovianの中身が、Jovianを非常によく知る人と入れ替わったとしても、Jovianの妻は一発で見破るであろう。夫婦の間でしか通じないパロールジェスチャーがあるからだ。

 

また日本中の何十万人もの人が突っ込んだに違いないが、一応自分でも突っ込んでおくと、瀧の時間と三葉の時間にずれがあることは絶対にどこかで気付くはずだ。携帯電話でも、テレビでも、カレンダーの日付と曜日でも、新聞でも、なんでもよい。さらに、入れ替わる先の時間が異なっているというのは、ファイナルファンタジーⅧだけではなく、ゲームのPS2ゲーム『 Ever17 -the out of infinity - 』(厳密には入れ替わりではないが・・・)がネタとしては先行している。または同系列のPS2ゲーム『 12RIVEN -the Ψcliminal of integral- 』にも同じトリックが仕込まれていた。さらに遡れば『 市民ケーン 』も、一本道のストーリーと見せて、時間が大胆に飛ぶ構成になっていた。リアルタイムで展開されていると思われた二つの事象が時間線上の異なる点での出来事だったというのは、個人的にはこの上ないクリシェであった。

 

全体を通じて感じられるのは、RADWIMPSのためのミュージック・ビデオのような作りになっているということである。映像は美しく、キャラクター達もそれなりに魅力があり、ストーリーは陳腐ではあるが、美しくもある。しかし、そうした作品の長所や美点を支えているのが、音楽であるかのように感じられるのは何故なのだろうか。前世、運命、未来。そうしたバナールなお題目は、物語全体を以って語らしめるべきで、優れた楽曲に仮託するものではないだろう。本作のテーマは『 ボヘミアン・ラプソディ 』ではないのだから。

 

総評

悪い作品では決してない。むしろ優れている。ただ、新海誠監督の美意識というか様式美というか、『 秒速5センチメートル 』や本作などに見られるように、現実と非現実、此岸と彼岸、現世と幽世の境目、そこにある断絶の広がりを追い求めるのが氏のテーマである。今作はそれが若い世代の嗜好にマッチして爆発的なヒットになったことは記憶に新しい。しかし、もうそろそろ違うテーマを探し始めてもよいのではないだろうか。『 天気の子 』も同工異曲になるのだろうか。そこに一抹の不安を感じている。

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