Jovian-Cinephile1002’s blog

古今東西の映画のレビューを、備忘録も兼ねて、徒然なるままに行っていきます

『累 かさね』 -幻想の劣等感と幻想の優越感の相克-

累 かさね 70点

2018年9月9日 MOVIXあまがさきにて観賞

出演:土屋太鳳 芳根京子 浅野忠信 筒井真理子 生田智子 檀れい

監督:佐藤祐市

 

f:id:Jovian-Cinephile1002:20180912022429j:plain

 主人公もしくは主役級のキャラクターの容姿の醜さを主題に持つ作品は、古今東西で無数に生み出されてきた。戯曲『シラノ・ド・ベルジュラック』を始め、小説およびミュージカルにもなったガストン・ルルーの『オペラ座の怪人』(ミュージカルは複数のバージョンがあるが、アンドリュー・ロイド・ウェバーのもの一択)、芥川龍之介の小説『鼻』の禅智内供、漫画の神様・手塚治虫の分身ともいえる猿田博士および系列のキャラ、百田尚樹作品の中でJovianが唯一評価している小説および映画『モンスター』、沢尻エリカの『ヘルタースケルター』、作者に目を向けるならば岡田斗司夫本田透の自己認識も挙げられるだろう。今年の映画で言えば『ワンダー 君は太陽』を忘れてはならない。また『サニー 永遠の仲間たち』、『SUNNY 強い気持ち・強い愛』にも、重要なモチーフとして現れるテーマであり、『デッドプール』のウェイド・ウィルソン、『美女と野獣』の野獣、『エレファント・マン』、『フランケンシュタイン』(ボリス・カーロフver)の怪物、漫画およびテレビドラマ『イグアナの娘』など、顔・容姿の美醜を扱う作品は数限りなく存在する。そこに、なんと“顔を入れ替える”というアイデアをぶち込んだ時点で、原作漫画のある程度の成功は約束されていた。『フェイス/オフ』のように、ニコラス・ケイジジョン・トラボルタの顔を入れ替えても、話は面白いかもしれないが、それが目の保養になるかと言えば、ならない。しかし、土屋と芳根の顔を入れ替えるのである。発想の勝利である。監督がこの原作を選んできたのは、この二人がキスをする画を撮りたかったからではないかとすら邪推する。

 大女優の淵透世(檀れい)は死の前に、我が子の累(芳根京子)に顔を入れ替える不思議な力を持つ口紅を遺していった。顔に醜い傷を持つ累は、母譲りの天才的な演技力を有しながら、自分に対する劣等感を拭えないままに生きてきた。そこに羽生田釿互(浅野忠信)が現れ、丹沢ニナ(土屋太鳳)という美女ではあるものの演技力には欠ける女優の替え玉となる話が持ちかけられる。戸惑いながらも、ニナの顔を一時的に得ることで、周囲の人間の見る目が変わることを実感した累は、気鋭の舞台演出家の烏合零太(横山裕)の劇のオーディションにも見事に合格。ニナと累の二人は、奇妙な共犯関係を築いていく・・・

 まず何と言っても、土屋太鳳が殻を破ったことを何よりも称えたい。山崎賢人が『羊と鋼の森』で殻を破ったのと同じ、あるいはそれ以上の飛躍が見られた。なぜなら、キャピキャピの、もしくは過度に大人しい女子高生役から遂に脱皮を果たしたからだ。後は有村架純が『ナラタージュ』で見せたような濡れ場シーン解禁を待つばかり・・・というのは冗談だが、それにしても「演じること」を演じるというのは、非常に難しいことだ。それを、プロット上でいくつか気になるというか無理な点はあるにしても、最後までやり遂げたことに拍手を送りたい。相対する芳根京子も、最初から顔が整い過ぎているのがチト気になるが、根暗な雰囲気だけではなく、対人スキルに問題を抱える、ある種の人間特有の挙動不審さ、表情や目線の不自然さまでを上手く表現できていた。この目立たないが、確かに累の者であると言える仕草や姿勢を体現したことが、一人二役、二人一役を実質は土屋太鳳が1.5人分を担っていたにもかかわらず、ダブル主演として売り出すことができ、なおかつ観る者もそれに納得できる最大の理由であろう。

 容姿・容色に劣るものは内面まで劣るのか。それとも、心の内の美しさや清らかさは、外見とは無関係なのか。我々は往々にして、両者は反比例の関係にあるのだという風に、人の属性を画一的に断じてしまいたくなる。しかし、冒頭で述べたように、顔の美醜と内面の美醜は実に複雑な関係にあり、分類するとなると累はオペラ座の怪人の系譜に連なるキャラクターである。怪人はクリスティーヌへの思慕故に、シャニュイ子爵を殺そうとする。累も、烏合への想いを契機に、ニナの人生までも乗っ取ろうとする。これなどは、本田透が著作でたびたび言及するように、オタク的な生活と奇妙な相似形を為している。オタクは対人関係に障害を抱えるが故にキャラクターおよびキャラクター世界に没入する。累は、対人への劣等感故に、丹沢ニナという美少女キャラに没入する。自分ではないキャラクターを通じて何らかの世界と関わりを持つという点で、累は重度の「コミュニケーション不全症候群」に罹患していると見てよい。

 そんな累を変えるのは、美しい顔を得ること以上に、顔ではなく内面に興味を抱いてくれる烏合の存在。どうせ誰も自分には話しかけてくれない、笑いかけてくれない、触ってもくれない、愛してもくれないし、抱いてもくれない。グリザベラだ。そんな思いに凝り固まった累を見る時に、我々は劣等感とは自分で自分を自分ではない者に貶める時に生じる感情であることを知る。劣等感とは幻想なのだ。現に、累の顔になっている時のニナは、周囲の目線など一切気にすることなく街を歩いていくし、芝居の稽古の現場にだって踏み込んでいく。こうした行動に、我々は清らかさを感じない。予告編にもあるのでネタバレに当たらないはずだが、ニナは累に「私はアンタみたいに中身まで醜くないから」と言い放つ。しかし、物語前半のニナはどこからどう見ても醜い内面の持ち主で、それがほんの些細な言動や表情に表れる嫌な女の典型だった。優越感も、実際に他者よりも優れているから得られるわけではなく、これまた幻想なのだ。

 顔を入れ替えることで、浸食されていくニナの人生。同時に、累の思考や行動にも変化が生じるが、それらは決して気持ちの良いものではないことだけは言っておかねばならない。これは決して醜いアヒルの子のようなおとぎ話ではないのだ。それでも、『不能犯』とはまた異なる方向で、このようなダークストーリーが産生されることには大きな意味があるし、あまりにも典型的かつ定型的な漫画ばかりが映画化されるこのご時世に、大きな楔を打ち込む作品がもっと生み出されるべきなのだ。昨年、カナダ旅行に行った時に、現地の子供向けアニメの主人公が補聴器を使う女の子だったことにビックリしたことを覚えている。それだけではなく、その壊れた補聴器を修理してくれる人は義足を嵌めていた。障がいも個性。そうした考えに日本が追いつくのには今しばらくの時間がかかりそうだ。本作は単なるエンターテイメントとしてだけではなく、傷のある人間を初めて大々的にフィーチャーした作品として記憶されるのかもしれない。

 本作にも残念ながら、いくつかの減点要素が存在する。その最大のものは、累とニナが相互に仕掛けるトリックだ。舞台に携わったことのある人なら、タイムキーピングの難しさは「骨の髄まで」分かっているはずだ。ふとしたことで全てが崩れ去ってしまうような、そんな危うい賭けに、ニナはともかく累が乗るだろうか。ここだけがどうしても納得できなかった。またニナにはとある秘密があるのだが、その秘密がよくもそこまで都合よくコントロールできたものだ、と呆れてしまうような類のものとして利用される。もし、累がニナの演技に気付かなかったら・・・、いや、そこは気がつくのだろうが、もしニナが復讐を企図しなかったら、窮地に陥っていたのは累だったはずだ。何がそこまで、累を確信させていたのだろうか。この点も最後の最後は気になって仕方がなかった。

 という具合に最後に文句を垂れてしまったが、本作は普通に面白い。時間とカネを使って、劇場まで観に行く価値ありと声を大にして言える秀作である。