Jovian-Cinephile1002’s blog

古今東西の映画のレビューを、備忘録も兼ねて、徒然なるままに行っていきます

『 存在のない子供たち 』 -大人たる者、傍観者になることなかれ-

存在のない子供たち 90点
2019年8月13日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:ゼイン・アル・ラフィーア
監督:ナディーン・ラバキー

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レバノン 判決、ふたつの希望 』は紛れもない大傑作であった。事実、Jovianは2018年の最優秀外国映画に選ばせてもらった。では、同じくレバノン発の本作はどうか。こちらも年間最優秀映画級の超良作であった。

 

あらすじ

ゼイン(ゼイン・アル・ラフィーア)は身分証明のない推定12歳の男の子。当然、学校に行くこともできず、スラムで日銭を稼がされる日々を送っている。ある日、まだ年端もいかない妹が結婚させられてしまう。それに反発したゼインは街を飛び出し、ふとしたことから知り合ったエチオピア移民の女性ラヒルとその乳飲み児ヨナスと共に暮らすことになるが・・・

 

ポジティブ・サイド

まず、本作を観ている2時間超の時間のほとんど全てがリアルなドキュメンタリーに感じられた。いや、ドキュメンタリー映画でもスクリーンの外側には、音響や照明、カメラ・オペレーター、監督その他が存在する。本作は、まさにレバノンのスラム街をリアルに切り取ったドキュメンタリーにしか見えなかった。ゼインというキャラクターが本当に存在し、脚本通りの演技をしているのではなく、彼自身の日常を表現しているようにしか思えなかったのだ。不自然な、つまり演出上の光や音響を極力排し、レバノンという国の暗部を隠すことなく映し出しているのである。

 

原題はCapharnaum、英語ではChaosの意、日本語ならば“混沌”とでも訳せようか。随所にスラムを俯瞰するショットを挟み、いかにスラム街が入り組んでおり、混沌とした空間であるのかを観る者に想起させる。本作が世に問うテーマは至ってシンプルである。子供を不当に苦しめるなということである。我々は自分で選択してこの世に生まれてきたわけではない。知らないうちに世界に投げ出されている。近代ドイツ哲学者のハイデガーの言葉を借りれば、「被投性」である。ゼインは知らぬ間にレバノンのスラム街に生まれ、知らぬ間に労働に従事させられている。ゼインはそこで必死に生きている。彼は自分自身を常に「投企」している。彼は12歳とは思えない度胸と知恵、行動力を持っている。しかし、悲しいかな、身体も頭脳も子どもであり、致命的なことに身分証明を持っていない。この物語はゼインの存在証明を求める闘争でもある。

 

物語前半のゼインは、自らが生き抜くために奮闘する。だが、物語後半でラヒルが不法移民として拘束されてしまうと、物語は一転、『 火垂るの墓 』となる。つまり、子どもが子どもを育てようとする物語に変貌する。かの作品のキャッチコピーは「4歳と14歳で生きようと思った。」であった。だが、ゼインは推定12歳、ヨナスは推定12~13カ月の乳幼児。これでどうやって生きて行けと言うのか。ゼインがあらゆる手段でヨナスを世話し、食べさせていこうとすることに胸が潰れた。息を飲まずにはいられなかった。物語冒頭で初潮を迎えた妹に、それを隠すようにてきぱきと指示を出すゼインは、生活力という言葉だけでは説明がつかないほどのサバイバル能力を有している。そして、密造酒ならぬ密造ドラッグでカネを稼ぐ様には、喝采さえ送ってやりたくなってしまう。『 火垂るの墓 』の清太は火事場泥棒を働いたが、生活力に関してはゼインの方が一枚上手と認めざるを得ない。

 

子どもが生きていく。子どもが子どもの世話をする。子どもに関わらず結婚させられ、適齢期でもないのに妊娠させられる。そうした現実が存在することの重さに、無力感を覚える。しかし、無力感を覚えてはならないのだ。我々にできること、すべきこと、してはならないことが諸々あるのだ。物語は最後に大きなどんでん返しを用意する。ゼインのマグショットを撮影するシーンと思わせて、それは身分証明書用の写真を撮影するシーンなのだ。この時にゼインが初めて見せる子どもらしい表情、すなわち曇りのない笑顔に、心臓を握りつぶされるほどのショックを受けた。大人が大人であることの証明、それは「子どもが屈託のない笑顔を見せることができる」、そんな世界を用意することだ。傍観者になっていて、どうするのだ。それがJovianがラバキー監督から得たメッセージである。ジアド・ドゥエイリ監督といい、ラバキー監督といい、何という作り手であることか。

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ネガティブ・サイド

人身売買男アスプロはお縄を頂戴しないのか。法廷で自らの罪状を告白し、刑に服さないのか。ゼインの両親やアサードだけではなく、この男もしょっぴかなければこの物語は閉じないと思われる。

 

両親が検事に言い返すシーンも不要だったのではないか。新しい子どもに何らかの希望を託したいという、その一瞬の想いまで否定するには、ゼインの両親の叫びは悲痛に過ぎた。『 焼肉ドラゴン 』にもあったシーンだが、子どもを授かった瞬間の気持ちまで否定するのは、観る側の精神に相当以上のダメージを与える。子どもの名前を否定するぐらいで良かったと個人的には思う。

 

総評

これは年間ベスト作品である。ベスト級ではなくベストである。まだ2019年は4ヶ月半を残しているが、それでもそのように断言させていただく。レバノンに手を差し伸べなくてはならないわけではない。しかし、保育園や幼稚園がうるさい。公園で遊ぶ子どもが邪魔だ。そんな気持ちを抱いてしまった時に、まず“子供たちの存在”に思いを馳せようではないか。大人にとって子供たちの笑顔以上に優先されるべきものなどないのだから。

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