Jovian-Cinephile1002’s blog

古今東西の映画のレビューを、備忘録も兼ねて、徒然なるままに行っていきます

『 裸足のイサドラ 』 -ダンスが切り開いた近代の地平を描く逸品-

裸足のイサドラ 65点
2018年10月10日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:バネッサ・レッドグレーブ
監督:カレル・ライス

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ラテン語には“Si Monumentum Requiris, Circumspice.”という格言がある。英語圏では今でも時折、普通に使われる表現で、意味は“If you seek his monument, look around.”である。日本語に訳すとなれば、「彼の者の功績を見んとすれば、周囲を見渡すべし」ぐらいだろうか。イサドラ・ダンカンと聞いてピンとくる人がいれば、舞踊に携わるか、あるいはアメリカ史、とくに芸術の分野に造詣が深い人であろう。もしくは映画『 ザ・ダンサー 』でリリー・ローズ・デップが演じた天真爛漫、天才肌の少女ダンサーを思い起こしてしまうような相当なCinephile=シネフィルであろう。または、塾や英会話スクールでTOEFL講座を担当させられる、職務に忠実なパートタイム/フルタイムの講師ぐらいか。本作はさかのぼること1969年(本邦では1970年)に公開された、イサドラ・ダンカンの伝記的映画である。彼女が残した影響は、実は現代にも及んでおり、あたりを見渡せば、確かに彼女の遺産が豊かに花開いていることを知るだろう。

 

あらすじ

伝統的なバレエという束縛から解き放たれるために、トゥシューズを脱ぎ捨てたイサドラ・ダンカン。彼女はアメリカからヨーロッパに移り、伝統的な概念を次々に打ち壊していく。それは時に不倫であったり、ソビエト連邦行きであったり、ロシア人との結婚であったり、学校を建てて貧しい子どもを養うことでもあった。そんな彼女の自由な生き方を数々のダンスと共に活写する。

 

ポジティブ・サイド

イサドラ・ダンカンについて語るならば、その自由奔放な生き方そのものがしばしば話題になるが、彼女が何よりもまずダンサーであったことを考えれば、その踊りを観る者に見せつけなくてはならない。ベリーダンスに始まり、モダンダンスに昇華されていく過程にはしかし、踊り以外の要素がどんどんと投入される。それは、踊りは彼女が追究しようとした対象ではなく、彼女の生き方が踊りという形で外在化したものである、ということを宣言しているかのようだ。事実、その通りなのであろう。

 

冒頭でイサドラが古代ギリシャの彫刻の数々に心をときめかせるシーンがある。それらの彫刻は、どれもミロのヴィーナスよろしく、どこかしら破損であったり欠損があったりする。しかし、ここで我々は人類史上屈指の天才、レオナルド・ダ・ヴィンチの言葉、”Art is never finished, only abandoned.”を思い出すべきなのかもしれない。よく言われることではあるが、ミロのヴィーナスを作った彫刻家が誰であれ、もしも彼/彼女が現代に蘇り、「大変だ、両腕を修復しなくては!」と言えば、我々は大慌てでそれを止めることだろう。不完全だから美しいのである。壊れているからこそ美しいのである。

 

イサドラは同じく、自然に美を見出す。それは寄せては返す波の動きであったり、風にそよぐ木々の葉の動きであったり、そうした何気ない自然物の動きを、自分の踊りに取り入れるのである。これも文献によく書かれていることだが、ライバルであり師であったロイ・フラーが踊りを自然、科学、技術、音楽などと統合しようとしたことに対しての、ある意味でのアンチテーゼであったと思われる。劇中のソビエト連邦帰りのイサドラが故国アメリカの地で言う「胸に手をあてて内なる声に耳を傾けると、正しい生き方が分かる。それこそが真の革命だ」という言葉にそのことがよく表れている。自然の衝動、動物的な本能の体現こそが彼女のダンスの真骨頂なのだ。そのことを端的に示すエピソードとして、彼女が始めたダンス・スクールに通う子弟は皆、貧しい子どもであった。イサドラ曰く、「お金持ちの子どもは要らない。あの子たちは飢えていない」

 

無論、あまりにも先進的というか革命的な彼女の考え方および行き方には反発がつきまとう。芸術や美の観念を常に壊し、覆し、更新していくからだ。しかし、旧体制、旧意識の人間側から為される反発に対する反論は痛快であり、衝撃的でもある。アメリカという国の自己認識と、外国のアメリカ認識には常に乖離があるのだということを思い知らされる。このあたりのアメリカの自己イメージがどのようなものであり、それがいかに変遷していないのかはドラマのニュースルームのシーズン1冒頭を観れば良く分かる。人のふり見て我がふり直せと思わなくてはなるまい。

 

イサドラを演じるのはバネッサ・レッドグレーブ、なんと『ディープ・インパクト』の主役レポーターの母親役だった。レジェンドだ。もっと古い映画も観ないといけないなと反省。発掘良品として本作をリコメンドしてくれたTSUTAYAに感謝。

 

ネガティブ・サイド

おそらく欧米では常識に属することなので、あまり丁寧に描写はされていないが、バレエがモダンダンスに進化した歴史的経緯を知らないままに見るのは、少し苦しいかもしれない。東京オリンピックと言えば2020ということになりそうだが、1964年の東京オリンピックがどのようなものであったのかは、徐々にメディアなどでも再特集がされるようになってきた。例えば、バレーの回転レシーブは今でこそ中学生、小学生でも高学年なら易々とこなす子もいるだろう。しかし、1960年代においては画期的な技だったのである。当時の回転レシーブを現代の目で見て評価をしてはならないのと同じで、イサドラのダンスを現代視点で見つめてはならないのだ。

 

おそらく日本の中高生あたりからすれば、『累 かさね』で土屋太凰が披露したダンスの方がより強く印象に残るだろう。しかし、ひらひらとした衣装を身に纏い、裸足で舞台を駆け回り、煽情的ともいえる舞を想像し、また創造した祖は、紛れもなくイサドラ・ダンカンその人なのである。ジャズがラグタイムにその創発を負っているように、モダンダンスはイサドラのインスピレーションに余りにも多くを負っている。そのことを、劇中でほんの少しでも触れる、あるいは予感させる描写があれば、東洋で鑑賞される際にも、観る者が違和感をそれほど抱くことなく、物語を追えたのではなかろうか。しかし、これは本来なら無いものねだりなのだろう。イサドラ没後40年ほどで本作が製作されていることを考えれば、間違いなく製作者たちは生前のイサドラと交渉のあった人たち、イサドラをライブで観た人たちに取材をしているはずで、また同時代の観客の多くはイサドラの踊りについて、かなりの程度の知識を持っていたと推測されるからだ。これは今時の野球少年でも、王貞治と聞けば「あ、知ってる!」となるのと同じである。それでも、映画という媒体が後世にまで残り、外国にまで広まるものという自覚が製作者にもあったはずで、だからこそ敢えてそこを減点の対象としたい。

 

総評

題材は一見古いものの、それは現代にまで影響を及ぼしうる巨大なものであることはすでに述べた。カメラワークやBGM、カットと編集の技術についても全く気にならない。古くても古くない映画である。古典というにはまだ少し新しいが、それでも扱われている人間は実在の人物であり、彼女の息吹、生き様には時代を超えて訴えかけてくるメッセージがある。ダンスに興味がある人だけでなく、広くアメリカ史や現代史に興味があるのであれば、借りてきて損をすることはないだろう。