拳と祈り -袴田巖の生涯- 75点
2024年10月26日 第七藝術劇場にて鑑賞
出演:袴田巌 袴田秀子
監督:笠井千晶
ボクシングファンの端くれとして、ずっと応援していた袴田巌さんが先月、遂に無罪確定。そこで本作の公開ということでチケットを購入。
あらすじ
1966年6月、強盗、殺人、放火事件の犯人として袴田巌氏は死刑判決を受ける。しかし、証拠や警察の取り調べ方法に疑義が残ることから、姉の秀子さんや支援者は再審を訴える。だが、司法が動くのに約50年の歳月を要して・・・
ポジティブ・サイド
袴田事件に関する予備知識ゼロ、あるいは2024年9月の袴田さん無罪確定のニュースを一切知らずに本作を鑑賞する向きはない。そうした読みから、袴田事件の概要や、いかに証拠として提出された衣料品が馬鹿げたものであるかを殊更に主張はしない。笠井監督のこの演出は、特に秀子さんが静岡県警本部長に掛けた言葉を考えると、正解だったと思う。
また笠井監督自身が冤罪に関して何らかの言葉を述べることはなく、袴田秀子さん、巌氏の二人を中心に、事実だけを淡々と映し出していくスタイルを選択したことも賢明だった。たとえば作中で医師が袴田氏の血糖値が高すぎることを注意するシーンがあるが、秀子さん自身はその日の夕食をスキップさせるぐらいで、基本は袴田さんの行動にはノータッチである。それは、医師であろうと肉親であろうと、無理やり言うことを聞かせてしまうと、警察や検察と同じ愚を犯すことになるからだ。
ニュースに触れている人なら袴田さんが重篤な拘禁反応を呈していることは知っているはず。本作はそこを包み隠さず映し出してしまう。普通の刑務所なら、規則正しい生活、規則正しい食事、規則正しい労働・運動、規則正しい睡眠に加えて、囚人仲間との交流が得られる。ただし死刑囚は独房生活。つまり孤独。畢竟、ストレスがたまり、精神的に追い詰められる。冤罪被害者なら尚更である。
袴田さんはカトリックに救いを見出した。作中での袴田さんの言動全てを理解するのは難しいが、その行動原理の大きな部分をキリスト教が占めているのは間違いない。彼の脳内ではAgnus Dei, qui tollis peccata mundi = この世の過ちを取り除きたもう神の仔羊よ、と常に讃美歌が流れているのである。つまり、自分が死ぬことで、その他の衆生(これは仏教用語だが)が救われるという理屈で、自分をイエスと同一視しているわけだ。自分は死ななくなったというのは、死んでも復活すると言っているのである。
そうした袴田さんの姿に現実逃避を見出しても、あるいは不屈の闘志を見出してもいい。宗教の持つ力を見出してもいいだろう。しかし、決して忘れてはならないのは姉の秀子さんと多くの支援者たちの存在だ。袴田さんは元ボクサーだ。アマチュアの強豪で、プロでも年間19試合をしたというタフガイだ。日本のボクシング界の関係者が陰に日向に袴田さんを支援しようとする姿に一菊の涙を禁じ得なかった。またカナダのルービン・❝ハリケーン❝・カーターの映像まで見られるとは正直思っていなかった。笠井監督の行動力の視野の広さには脱帽である。
意味不明の言葉を発することが多い袴田さんだが、ボクシングに関してはきわめてまっとうな発言が多かった。印象に残ったのは「ボクシングに魂をかけているかどうかは見れば分かる」、「結局はいかにナックルパートを当てるか」、「前に出てくる相手を止めるにはジャブとワン・ツー」など(ちなみに現代だと、ジャブ、ワン・ツー、カウンターで止めるとされている)。本人は現役時代に近距離ファイターだったようだが、指導者を志しただけあって、当時としてはかなりしっかりした理論を持っていたのだ。最初は拒否していたグローブをはめて、スクリューの入った左フックを見せる袴田さんが微笑みを浮かべているところは決して見逃さないようにしたい。
それにしても国家、特に検察の硬直した姿勢には辟易する。元裁判官は涙ながらに謝罪し、静岡県警本部長も極めて儀礼的ながら謝罪した。しかし検事総長は袴田氏を犯人扱いする談話を発表し、名誉棄損にあたるのではないかと物議をかもしている。検事総長と言えば賭けマージャンの黒川検事長が思い出される。検察は身内や政治家、上級国民は過剰に保護するが、一般庶民にだけは厳しいという現実をわずか数年前に見せつけられていたので、今回の談話にも驚きは少ない。
袴田巌氏88歳、姉の秀子さんは91歳。二人の今後の人生に幸多かれと願う次第である。Dona eis requiem.
ネガティブ・サイド
警察の取り調べの録音は、あんなものだったのだろうか。殴る蹴る水をぶっかけるなどがあったはず。あるいは、そこだけ録音を止めていたかも。いずれにせよ、昭和中ごろの警察とは思えないマイルドな取り調べだった。他にもっと警察の横暴を感じさせる箇所はあったのではないか。あるいは、存命者は少ないかもしれないが、当時の捜査員などを取材できなかったか。別に袴田事件そのものについて尋ねなくてもいい。当時はとにかく怪しい奴を見つけたら無理やり引っ張ってきて、自白するまで追い込むことは珍しくなかったという実態を語ってもらえれば、後は観る側が判断する。
もう一つ、刑務官OBへインタビューもできなかったのだろうか。顔や声は当然隠してOK。刑務所の中の囚人の実態をより客観的に知るには、こうした人々へのアプローチも必要であるように思う。熊本裁判官が顔出しで判決の舞台裏を暴露したのは法曹としてはアウトなのだろうが人間としてはセーフ。そうした意味で粘り強く取材すれば、袴田氏のことではなく囚人一般について語ってくれれれば、反省する人間、しない人間のことが少しわかり、また反省しない人間というのは極悪人なのか、それとも反省すべきことがない人間なのではないかということまで考えるきっかけになっただろう。
総評
まさに今、出るべくして出たドキュメンタリー。作中でルービン・カーターがいみじくも指摘した通り、袴田さんの身にこのようなことが起きたのなら、自分の身にも起こるかもしれない。そうなってしまった時、自分は闘えるだろうか。自分には支持者がいるだろうか。鑑賞中も鑑賞後も、ずっと自問自答している。国家権力と闘い続けたという点で、袴田巌氏は日本のモハメド・アリであると評したい。ボクシングファンのみならず、広く一般市民に観てもらいたい作品。
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free
日本語にもなっているフリーという語だが、品詞も意味も多岐にわたる。本作では Free Hakamada! のスローガンで使われていた。これは動詞で「~を自由にする、解放する」の意味。
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