Jovian-Cinephile1002’s blog

古今東西の映画のレビューを、備忘録も兼ねて、徒然なるままに行っていきます

『 英雄の証明 』 -人は偏見から自由になれるのか-

英雄の証明 75点
2022年6月11日 塚口サンサン劇場にて鑑賞
出演:アミール・ジャディディ
監督:アスガー・ファルハディ

カンヌ国際映画祭のグランプリ作品ということで注目を集めていた一作。SNSによる狂騒が偉く喧伝されていたが、もっと直接的な人間関係に注目した作品だった。

 

あらすじ

刑務所から仮出所したラヒム(アミール・ジャディディ)は、婚約者が金貨入りのバッグを拾ったことを知る。着服しようという考えも頭をよぎるが、結局は拾得物として警察に届け出る。落とし主が出てこなければ、婚約者が落とし主として名乗り出ればいいと考えて。しかし、実際に落とし主が現れたことで、ラヒムは感謝され、また刑務所幹部らもラヒムを称賛し、ラヒムはTVメディアにも出演することになるが・・・

以下、ネタバレあり

 

ポジティブ・サイド

主人公のラヒムは徹頭徹尾、小市民である。タイトルは英雄であるが、この男を英雄と呼ぶのは難しい。人間らしいと言えば人間らしいのだろうが、心の弱さというか未熟さというか、そういったものが冒頭からずっと見えている。だが、そのことを誰が責める気になれようか。借金が返済できず刑務所に入っているというのに、婚約者がたまたま見つけた拾得物のカバンに入っている金貨を着服しようと考えるなど言語道断!などと考えられるのは、よっぽどの聖人君子だろう。

 

出所直後にバスに乗り損ねてしまったラヒムがたまたま金貨を手に入れて、しかし気まぐれからそれを届け出て、落とし主が現れた。正直な囚人として一時のメディアの寵児となるラヒムだが、アスガー・ファルハディ監督はラヒムを一方的な悪者にはしない。物語のここまでの段階で観る側はラヒムの積み重ねてきた小さな嘘や不実の数々を知ることになる。またラヒムが負った負債は結局、債権者(意外な人物!)には返せていない。英雄的な行為があっても、結局は債務者であることに変わりはない。真人間への道を歩み始めようとするラヒムだが、色々な横槍が入ってくる。それが誰によるものなのかを物語は明示しないが、観る側はあれこれと邪推してしまう。

 

そう、邪推する。邪な推測をしてしまうのである。ラヒムの視点からすれば、元妻やその家族は自分を認めようとしない分からず屋ということになるが、彼らの視点に立てば、ラヒムは借りた金を返さない不誠実な男ということになる。ラヒムが善意で金貨を持ち主に返したかどうかは大して意味を持たない。お互いの視点はすでに固定されてしまっているからだ。ラヒムおよびその周辺の人物たちは、まさに確証バイアスに囚われている。

 

これらの人間関係の不和に加えて、序盤から中盤にかけては、金貨の持ち主である女性に擁護してもらうべくラヒムは彼女を探すが、ここで『 幻の女 』風味のミステリも味わえる。また、その過程で知り合うことになる元服役者のタクシーの運転手と吃音賞の息子との一種のロードトリップの要素も併せ持っている。地味な作風ではあるのだが、エンタメ要素を盛り込むことも忘れていない。

 

終盤には、ラヒムが起こした騒動が動画に撮られてしまう。そしてその動画が拡散される危険が迫る。ラヒムのイメージ低下を防止せんと、刑務所や支援団体はラヒムの息子による父親の擁護動画を作成しようとする。結局は多数の人間の認知に働きかけようとするばかりである。これは非常に重要なことを示唆しているように思う。ある事柄が事実であるかどうかは、客観的に決まるのではなく、極めて主観的に決まるということである。英語の fact はラテン語の facio を語源に持つ、「作られたもの」という意味の語である。ラヒムが終盤に下す決断は、事実を確定させるためではなく、自分自身の誇り、名誉のための行動だった。人は自分の見たいように現実を見てしまう、つまり人にそのように見られたいという思いから行動しがちであるが、ラヒムのたどり着いた結論はそのことに真っ向から異議を唱えるものだった。 

 

最後の最後に刑務所に帰っていくラヒム。入れ替わりで出所していく男。迎えに来てくれた女性とスムーズに出会い、スムーズにバスに乗り込んでいく。彼とラヒムの違いは何であるのか。ほんのわずかなタイミングの違い、運命の気まぐれのようなものに思いを巡らせつつ、物語は閉じていく。

ネガティブ・サイド

最も重要であるべき、金貨入りバッグをラヒムとファルコンデが拾うという発端部分にかなりの曖昧さが残る。ファルコンデがバッグを拾得する。それを警察または銀行に届け出るか考える。仮出所してくるラヒムに相談するとどんな反応をするだろうか・・・というシーンがあれば、それ以前、そして以後の二人の関係性についてもっと考察を深められただろうと思う。

 

息子の吃音症の設定は必要だったのだろうか。『 志乃ちゃんは自分の名前が言えない 』でも描かれていた通り、吃音は結構な心理的なダメージを与える。はっきりとものを言えない息子を利用する「大人たち」に対してラヒムは抵抗を見せるが、ラヒム自身が息子の気持ちを代弁する、または言葉を介さずに息子と分かり合うようなシーンがないために、終盤の展開が少々陳腐になってしまっている。

 

総評

SNSが云々という宣伝文句を見かけるが、それは終盤のごく一部で、なおかつネット上で炎上が起きて・・・といったような展開はない。少なくともそうした直接的な描写はない。日本の配給会社や代理店は何故このようなプロモーションを行うのか。それはさておき、主人公ラヒムと彼の周囲の人間の誰もかれもが非常に人間らしさに溢れている。論語に「一人に備わらんことを求むるなかれ」と言うが、過去に罪を犯したからといって、今も罪を犯しているとは限らない。完全な善人がいないように、完全な悪人などもいない。イラン特有の問題ではなく、日本にも当てはまる展開が多いと感じる。偏見なしに人を見られないというのは、現代社会というよりも人間の業の問題なのだろう。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

stutter

名詞ならば「吃音」、動詞なら「どもる」の意。英会話ではたまに

A: Come again? = もう1回言って?
B: Did I stutter? = 俺、どもったっけ?

のような皮肉っぽいやり取りをすることがある。

 

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