Jovian-Cinephile1002’s blog

古今東西の映画のレビューを、備忘録も兼ねて、徒然なるままに行っていきます

『 哭声 コクソン 』 -韓流ジャンルミックス・ホラーの傑作-

哭声 コクソン 75点
2020年6月28日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:クァク・ドウォン ファン・ジョンミン 國村準 チョン・ウヒ キム・ファンヒ
監督:ナ・ホンジン

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チェイサー 』、『 哀しき獣 』のナ・ホンジン監督の最新作(といっても2016年公開)。容易に読める展開が落とし穴。本作は観る者を思考の陥穽に引きずり込む危険なジャンルミックス・ホラーである。

 

あらすじ

平和な村、谷城(コクソン)で錯乱した村人が家族を惨殺する事件が続発する。原因は幻覚キノコなのか。犯人たちには奇妙な湿疹が見られた。村人たちは最近やって来た日本人の男(國村準)が怪しいと噂する。警察官のジョング(クァク・ドウォン)は事件を調査するが、自分の愛娘のヒョジン(キム・ファンヒ)にも奇妙な湿疹を発見する。そして、ヒョジンの人格も行動も変貌してしまう。ジョングは全てを解決しヒョジンを救うことができるのか・・・

 

ポジティブ・サイド

山中で國村準が鹿の生肉を貪り食うというホラー的シーンに始まり、コメディのように思えるジョングとその仲間のやり取りに行き着く。いったいこの映画のジャンルは何なのか。途中まではサスペンス兼ミステリー、だがある瞬間から物語はスーパーナチュラル・スリラーへ、そしてホラーへと変貌する。しかし、その結末はあまりにも多くの解釈の余地を残すものである。こうしたジャンルの変化が明確に、しかも途切れることなく起こりながら、そのことが物語の面白さをいささかも減じていない。例えば『 サンシャイン 2057 』などはSFで始まってホラーに至るが、その過程で面白さがごっそりと減っている。近年だと『 ザ・マミー/呪われた砂漠の王女 』が、開始2分はアドベンチャー、その後アクション、その後コメディ、そこからホラー風味になり、最後はモンスター映画になるというジャンルの横断を見せたが、これが実に駄作。ジャンルを変えてしまうと、ストーリーに一貫性がないように映る。本作はそうしたマイナス効果を役者たちの強烈な演技力と、ナ・ホンジン監督の観る者を極限まで惑わせる演出によって強引にねじ伏せた快作、いや怪作である。

 

その役者で目立ったのは主演のクァク・ドウォン。フィルモグラフィーによると『 母なる証明 』や『 アジョシ 』にも出演していたようだ。そして『 哀しき獣 』では主人公の殺しのターゲットでありながら、その他暗殺者たちと素手で渡り合い、ある程度撃退してしまうというヤクザ顔負けの武闘派教授を好演していたのが印象に残っている。最初はどこかやる気のなさそうに捜査をしていて、時折コメディにすら思えるような振る舞いもあった。それが、娘ヒョジンの変化と共に事件に果敢に立ち向かう警察官に、苦難に勇敢に立ち向かう父親へと成長していく。『 チェイサー 』の主役を張ったキム・ユンソクもそうだったが、ナ・ホンジン監督は全く好感を持てそうにない中年男を戦うヒーローに変えていく手腕に実に長けている。

 

だが演技力という点では何と言っても子役のキム・ファンヒだろう。『 エクソシスト 』のリンダ・ブレアに匹敵するとまでは言わないが、それでも『 ゲット・アウト 』のメイドのおばさん並みの形相の変化を見せながら『 ウィッチ 』のケイラブ少年の死に際の絶叫を思わせる咆哮と卑罵語を繰り出してくる様は、そんじょそこらのホラー映画では決して生み出せない怖さを観る側に容赦なく植え付けてくる。悪夢にうなされて、目を覚ましたところを父親の腕の中で安堵して大泣きに泣くシーンがその前にあったせいで、余計に娘ヒョジンの変貌が際立って見える。日本の子役にこんな振れ幅のある演技をできる子はいるだろうか?という問いを自分に立てたが、これは愚問だった。一番若い日本の男性俳優で思い浮かんだのは菅田将暉、一番若い日本の女性俳優で思い浮かんだのは門脇麦、次に南沙良であった。

 

本作はおそらく村人たちの信頼関係を試している。というよりも、様々な不可思議な事象に翻弄される村人たちの姿を映し出すことで、観る者の思考や信念を揺るがそうとしている。本作で家族を惨殺してしまうほどに錯乱してしまう村人たちには湿疹と言う共通点がある。それが毒キノコによるものなのか、それとも國村準演じる謎の日本人の仕業なのか。はたまた何か別の怪異がそこに作用しているのか。それが本作のプロットの肝・・・ではない!映画鑑賞歴がそれなりにある人であれば「あー、はいはい、ハリポタのスネイプ先生的なネタやね、これは」と一発で真相を見破った気になれるだろう。Jovianがまさにそうだった。だが、それこそまさに釈迦の掌の上で踊る孫悟空ならぬナ・ホンジン監督の思う壺にはまる映画ファンである。

 

クライマックスで異形の國村準がささやく「私には肉も骨もある。触ってみなさい」というシーン、見習い神父(牧師?)は実際に触れなかったのだろうか。スティグマが見えたというのは、やはり人間は見たいものしか見えない、または見たいものを見てしまうということか。ナ・ホンジン監督は『 チェイサー 』でも十字架および救世主像を非常に象徴的に扱っていた。というよりも、皮相的な宗教的観念よりもその奥底にある禍々しさを強調しようとしていたように映った。韓国は世界一のキリスト教国である。その韓国人が見習い神父を信じられず、いかにもペテン師然とした祈祷師を信じるところが滑稽であり、また恐怖でもある。そして、エクソシストたるべき神父が日本人に悪魔の姿を見出すのは、結局のところ外国人、外国由来のものは信じたくない、信じてはならないという信仰・信念によるものなのだろう。敢えてキリスト教的な表現を拝借すれば、「汝は汝の家族を、そして汝自身を信じることができるのか」という問いをナ・ホンジン監督は投げかけている。

 

人は見たいものを見る。あるいは、見たくないものは見ない。カメラという無機質な機器を通じてすら、そうした現象は起きる。一時期ネット上で大流行した画像を覚えている人もいるかもしれない。本作で信じられる(=事実と認められる)のは、おそらくジョングの見聞きするもの“だけ”である。いや、というよりも“ジョングだけ”が見聞きするものが信じられると考えるべきだろうか。本作鑑賞後も色々と見返して、個人的にはそれが最も腑に落ちるような気がした。だが、日本語でも英語でも様々なレビューや考察を渉猟したが、しっくりと来るものはなかった(韓国語が読めないことが悔やまれる・・・)。

 

コメディ、ミステリー、サスペンス、スリラー、ホラー、ヒューマンドラマ。あらゆるジャンルを包括し、あらゆるジャンルを横断する現代韓国映画の一つの到達点かもしれない。

 

ネガティブ・サイド

ヒョジンの内面のどす黒い変化を描写する小道具としてのノートは、クリシェであるように感じた。ノートに不気味な絵や文字が書き綴られているというのは大昔からの定番の演出である。『 ビューティフル・ボーイ 』や『 ブライトバーン 恐怖の拡散者 』でも見られたし、やや古いところでは邦画の『 CURE 』などでも見られた。敢えてクリシェな表現ではなく、韓国映画らしいダイレクトに恐怖を伝えるような演出が欲しかった。

 

エイリアン出産前のジョン・ハートの如き死に様も少しだけ気になった。病院のベッドの上で激しいけいれんを起こしながら死んでいく光景はおぞましいが、それが科学的に説明のつかない死に方であることをもう少し明示的にした方がよかっただろうと思う。たとえば鎮静剤を点滴または注射したり、もしくは強力な睡眠剤などを投与しても一向に効かず、あっさりと死んでしまった方が、超自然的な呪いのように見えたのではないか。医者が呆然と立ち尽くすシーンがあったが、医療の現場では「血を見てせざるは勇無きなり」である。

 

総評

比喩的な意味での脳髄破壊映画である。観れば観るほどに謎が解けていくような気がする反面、さらに謎が深まっていくようにも感じられる。一度目の鑑賞後、チャプターごとに何度も観返してしまった。アクションシーンなどをもう一度堪能することやミステリの伏線部分を確認することは結構あるが、物語の全体像を掴むために何度も各シーンを観返すことは個人的にはあまりない。だが本作はそれを要求してくる。今も脳が混乱状態である。これを治療するには、まともではない映画を観るしかない。映画館でリアルタイムで観ずに、ある意味良かった。映画館に通い詰める羽目になるからだ。鑑賞前には翌日以降の予定を空けておかれたし。『 ノクターナル・アニマルズ 』以上に、観る者を虚実皮膜の間に誘ってくる。本作を観てしまえば、眠れなくなること必定である。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

シバラマ

言わずと知れた「クソ野郎」の意味。天才子役キム・ファンヒがこの言葉を口にするが、もっと有名なのは『 息もできない 』だろう。使ってはいけない韓国語の代表である。

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『 ワイルドローズ 』 -County Girl found country comforts-

ワイルドローズ 70点
2020年6月27日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:ジェシー・バックリー ジュリー・ウォルターズ ソフィー・オコネドー
監督:トム:ハーパー

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イントゥ・ザ・スカイ 気球で未来を変えたふたり 』のトム・ハーパー監督と『 ジュディ 虹の彼方に 』でジュディ・ガーランドのマネージャー役を演じたジェシー・バックリーが送る本作。英国は世界的なミュージシャンを生み出す土壌があり、それゆえに実在および架空の音楽家や歌手にフォーカスした映画も多く生み出されてきた。本作もそんな一作である。

 

あらすじ

 

ローズリン・ハーラン(ジェシー・バックリー)は刑務所あがり。カントリー歌手になる夢を追い続けるため、かつて働いていたクラブに出向くも、そこにはもう自分の居場所はなかった。ローズリンはシングルマザーとして生計を立てるために、母(ジュリー・ウォルターズ)の紹介で資産家のスザンナ(ソフィー・オコネドー)の家で掃除人としての職を得るが・・・

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ポジティブ・サイド

刑務所を颯爽と去っていくローズリンがバスの中で聞いているのは『 Country Girl 』。初めて聞く曲だったが、“What can a poor boy do?”の一節に、頭をガツンと殴られたような衝撃を覚えた。これはローリング・ストーンズの名曲『 Street Fighting Man 』のサビの出だしの歌詞と全く同じではないか。ロンドンには俺っちみてえな悪ガキの居場所はねえんだ!と叫ぶ。最高にロックではないか。それのカントリー・ミュージック版ということか。また『 Country Girl 』のサビの締めが“Country Girl gotta keep on keeping on”というのも、『 ハリエット 』の『 Stand up 』の歌詞とそっくり。冒頭のこのシーンだけで一気にストーリーに引き込まれた。

 

昭和や平成初期のヤクザ映画だと、主人公が刑務所から出所してくると、まずは酒か、それともセックスかというのがお定まりだったが、この主人公のローズリンは日本の任侠映画文法を外さない。いきなりの野外セックスから子どもに会いに自宅へ、そのままかつての職場のクラブへ出向きビールで乾杯と来る。こうした女性像を気風がいいと受け取るか、未熟な大人と受け取るかで本作の印象はガラリと変わる。カントリー・ミュージックに傾倒する人間は、だいたいが現状に満足していない。自分はあるべき自分になっておらず、いるべき場所にいない。往々にしてそのように感じている。学校でいじめられていたという歌姫テイラー・スウィフトカントリー・ミュージックに傾倒していたし、『 耳をすませば 』でも天沢聖司は自らの居場所をコンクリート・ロードの西東京ではなくイタリアに見出した。こうした姿勢はポジティブにもネガティブにも捉えられる。現状からの逃避と見るか、それとも向上心の表れと見るか。それは主人公ローズリンと見る側との距離感次第だろう。

 

ベイビー・ドライバー 』のベイビーさながらにヘッドホンをつけて音楽にのめりこみながら掃除機をかけるローズリンの姿は滑稽である。『 バック・トゥ・ザ・フューチャー 』でギターをかき鳴らして自分の世界に没入してしまうマーティーと同じようなユーモアがある。一方で、現状を打破するための行動が取れない。自分には才能がある。歌っていればチャンスがやって来る。それは古い考えである。作曲家の裏谷玲央氏は「今は作曲家は音楽だけ作っていればいい時代じゃないですよ、プロデューサーも兼ねないと」と言っておられた。至言であろう(作曲家を「英語講師」に、音楽を作るを「英語を教える」に置き換えても通じそうだ)。セルフ・プロデュースが必要な時代なのである。そこで重要な示唆を与えてくれるスザンナが良い味を出している。『 ドリーム 』(原題: Hidden Figures)でも、NASAおよびその前身組織で活躍した女性の影には有力な男性サポーターがいたという筋立てになっていたが、本作でローズリンを支えるのは女性ばかりである。男はバックバンドのメンバーやセックスフレンドである。これは非常にユニークな作りであると感じた。『 ジュディ 虹の彼方に 』ではシングルマザーで仕事もろくに無いジュディを支えたのは市井の名もなき男性ファンたちだったが、紆余曲折あってナッシュビルにたどり着いたローズリンは、コネになりそうな出会いを紹介してくれるという男性の誘いをあっさりとふいにする。「え?」と思ったが、彼女の行動や思想はある意味で首尾一貫しているのである。

 

『 ジュディ 虹の彼方に 』と言えばジュディ・ガーランドジュディ・ガーランドと言えば『 オズの魔法使 』、そのテーマはThere’s no place like home.ということである。黄色いレンガの道を辿っていけばエメラルド・シティーにたどり着けるかもしれない。けれども、本当にカンザスに帰るためには自分が真に求めるものを強く心に思い描かなければならない。ともすれば子どものまま大人になったように見える自己中心的で粗野で卑近なローズリンであるが、彼女が最後にたどり着いた場所、そして歌にはそれまでの彼女の姿を一気に反転させるようなサムシングがある。これは究極的には母と娘の物語であり、positive female figureによって少女から女性へと成長するビルドゥングスロマンでもある。ジェシー・バックリーの歌唱力は素晴らしいとしか言いようがない。音楽とストーリーがハイレベルで融合した良作である。

 

そうそう、劇中でJovianが物心ついた時から聴き続けて、今も現役のRod Stewart御大の名前も出てくる。スコットランド出身の大物と言えば、Jovianの中ではロッド・スチュワートジェームズ・マカヴォイなのである。

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ネガティブ

ローズリンのキャラクターが過剰に就職されているように感じた。間抜けなところはいい。許すことができる。ロンドン行きの高速列車内で上着とカバンを置きっぱなしにして結果的に紛失または盗難被害に遭うわけだが、それは彼女のドジである。そしてドジとは時に愛嬌とも捉えられる。一方で掃除人として雇ってもらっている家の酒を勝手に飲むのは頂けない。これはドジや間抜けで説明がつく行動ではない。囚人仲間や看守、守衛たちから“Don’t come back.”と言われ、意気揚々とシャバに舞い戻ってきたというのに、白昼堂々と窃盗を働くとはこれ如何に。この辺で結構な人数のオーディエンスが彼女に真剣に嫌悪感を抱き始めることだろう。高いワインの瓶を落として割ってしまったぐらいで良かったのだが。

 

母と娘の距離というテーマでは『 レディ・バード 』の方が優っていると感じた。車を運転することで初めて見えてくる世界がある。自分が大人になった、社会の一員になったと感じられる一種の儀式である。レディ・バードはここで母親の視点を初めて追体験する。それが強烈なインパクトで彼女に迫ってくる。本作におけるローズリンの改心というか、人間的な成長にもとある契機があるのだが、その描き方にパンチがなかった。ベタな描き方(かつ微妙なネタバレかもしれないが)かもしれないが、ナッシュビルでたまたま立ち寄ったベーカリーのおばちゃんの仕事っぷりがあまりにもプロフェッショナルだったとか、もしくは親子で楽しくピザを頬張る光景をピザ屋で見ただとか、なにかローズリンのパーソナルな背景にガツンと来るような描写が欲しかった。

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総評

音楽映画のラインナップにまた一つ、良作が加わった。これまでの女性像をぶち壊す、力強い個人の誕生である。『 母なる証明 』の母や『 ストーリー・オブ・マイ・ライフ 私の若草物語 』の四姉妹ように、ステレオタイプを打破する力を与えてくれる作品である。ただし、自力でキャリアを切り拓いてきたという独立不羈の女性は本作のローズリンを敵視するかもしれない。なぜならJovianの嫁さんは全く物語にもキャラクターにも好感を抱いていなかったから。デートムービーに本作を考えている男性諸氏は、パートナーの背景や気質についてよくよく熟慮されたし。それにしても英国俳優の歌唱力よ。『 ロケットマン 』のタロン・エジャートンも素晴らしかったが、ジェシー・バックリーはそれを上回る圧巻のパフォーマーである。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

out of place

場違い、状況にふさわしくない、という意味。エンドロールで流れる“That’s the view from here”の冒頭で

 

Wear this, don't wear that, don't step out of place

Just smile, don't say too much, put that makeup on your face

Just keep pretendin' you're having a good time

'Cause that's the price of fame when you're standing in the line

 

という歌詞がある。文脈からしてstep out of place = 場違いな行動に出る、だろう。残念なことに字幕では「外に出るな」と訳されていたが、これは明確に間違い。訳す時はまず全体像を見て、意味を類推し、それから辞書を引くべきである。ここでは最後の部分のstand in the lineとstep out of placeが意味上の対比になっていることが分かる。列に並ぶ=秩序に従う、列から出る=秩序を乱す。普通はstep out of lineと言うことも多いが、step out of placeという用法も少数ながら見つかった。また同僚のカナダ人にも確かめている。

 

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『 タバコイ タバコで始まる恋物語 』 -本音と建て前と男と女-

タバコイ タバコで始まる恋物語 50点
2020年6月26日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:又吉直樹
監督:中川通成

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煙草に対する風当たりが強くなって久しい。『 風立ちぬ 』ですら喫煙シーンの多さで叩かれる時代である。Jovianも2012年7月23日にタバコをやめて今に至る。ある意味、2020年代では作れない映画なのかもしれない。

 

あらすじ

宮内正(又吉直樹)は馬鹿がつくほど正直な男。他人の言葉は全て鵜呑みにするし、嘘をついたこともない。おかげで合コンでは失敗続き。だが、ある日、馴染みの中華そば屋の主人からタバコをもらう。そのタバコを吸ってみると、宮内はどういうわけけ他人の本音が目に見えるようになり・・・

 

ポジティブ・サイド

色々なところで芸が細かい。又吉のタバコのくわえ方、火のつけ方、たばこの持ち方、火の消し方、全てが素人っぽい。実際に喫煙者ではないのだろう。もしくは喫煙者だったとしても、見事に非喫煙者になりきった。煙の吐き出し方も、肺まで吸い込んで吐き出している時と、単にふかしているだけの時があった。タイトルの通りに、タバコの描写には一定のこだわりが見られた。

 

ヒロイン役の遠藤久美子のファッションも細かい。もともと高身長なところへハイヒールを履いているため、又吉を見下ろす構図になることがほとんどだが、はじめてキスをする場面だけはヒールではなかった。つまり、目線の高さが又吉とエンクミでちょうど合う。高飛車と呼ばれる女性が、ちょっと下に降りてきたわけで、このビジュアル・ストーリーテリングは上手い。

 

描き出される男女のステレオタイプも嫌味には感じられない程度に抑えられているので許容できる。男は女をベッドに連れ込むためならアホになる。というか、下半身と脳が戦うと大抵の場合、下半身が勝つ。脳が勝つのは、羞恥心が極度に強いか、あるいは相手に対して本気の時である。本気ではない相手に自分のセックスの感想を求めるところはリアルである。本命にそれができるとすれば、極度のナルシストか、あるいはベテラン夫婦だろう。

 

非常にコンパクトにまとまって、それなりにツイストもあり、カタルシスも感じられる。典型的なrainy day DVDだろう。

 

ネガティブ・サイド

タバコの効果効能がよく分からない。嘘をついた時にその人の本音が見えるようになると宮下正自身は得心しているが、必ずしもそうではない。ダイレクトに思考を読んでいる時も多い。昨今話題になっている賭けマージャンで正がカネを稼ぐシーンがあるが、マージャンは相手の待ちを回避しただけで勝てるゲームではない。また、せっかくのアイテムであるが、その効果に一貫性がないように見えるのは減点対象である。

 

合コンで調子に乗り過ぎた結果、会計に窮した正がクレジットカード払いをする。それは良い。問題なのは、飲食店で分割払いを申し出るところだ。飲食店や宿泊施設は一回払いしか受け付けられない。なぜならそうした店は返品が不可な商品やサービスを提供しているからだ。一回払いで清算した後にリボや分割に変更する、あるいはリボや分割専用カードを使うべきだった。

 

正の鈍さも、正直なところどうかと思う。人を疑うことを知らないことと、物事を深く突き詰めて考えられないことは、全く別の事柄だ。『 アントマン 』のスーツでも、『 続・夕陽のガンマン 』の金(ゴールド)の情報でも、誰か一人だけしかそれを持っていない、ということはありえない。『 水曜日が消えた 』でも感じたことだが、“水曜日”が消えたなら、他の“曜日”も消える/消えたのではないか?普通はそう疑うものだ。正が仕事でも恋愛でも絶好調になった時に、「仕事でも恋愛でも成果を出せる奴はこういうアイテムを持っているんじゃないのか?」という考えに至らない愚鈍なキャラクターである点がマイナス、さらにこれまでに嘘をついたことがない正直者というキャラ属性とその愚鈍さの間につながりがないのもマイナスである。

 

ストーリーそのものも極めてありきたりだ。もうちょっと捻りが欲しかった。特に序盤のとある女性の言う「彼氏はいないよ、旦那はいるけど」は必要だったか?『 アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン 』のホークアイ以前にこのセリフが日本で使われていることには少々感心したが、アベンジャーズの原作コミックの方がおそらく先だし、このセリフのおかげで、エンクミの背景がすぐに見えてしまう。色々な意味で工夫しすぎたせいで、面白さが減じてしまっているように感じた。

 

総評

悪い作品ではないが、面白い作品でもない。又吉の演技の稚拙さには敢えて目をつぶってこの点数をつけている。ただ、4~5年前、Jovianが結婚を意識していたころに観たEテレの『 オイコノミア 』で又吉が自身の恋愛観や結婚観を語っていたり、公開が延期になっている映画『 劇場 』の原作小説を読んだりしていれば、本作には興味深い点もいくつか発見できる。正の参加する合コンの回数が3回というのは、ある意味良く出来たプロットである。又吉のファンならば観ても損はないかもしれない。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

obnoxious

ハンナ 』で gross =キモイ を紹介したが、この obnoxious はその上級版だろうか。意味は「キモイ」、「うざい」、「イヤな感じ」など、ネガティブなイメージを持つ人に対して使うことが多い。合コンで正は何人かの女子に obnoxious であると思われていた。この語が日常会話でスラっと使えれば、英会話スクールは卒業していいだろう。

 

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『 哀しき獣 』 -韓国ノワールの秀作-

哀しき獣 75点
2020年6月23日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:ハ・ジョンウ キム・ユンソク
監督:ナ・ホンジン

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暗数殺人 』のキム・ユンソクに痺れたので、本作もさっそくレンタル。韓国社会および朝鮮族というアウトサイダーのダークサイドをまざまざと見せつけられた。

 

あらすじ

中国・延辺朝鮮族自治州のタクシー運転手グナム(ハ・ジョンウ)は借金で首が回らず、妻を韓国に出稼ぎに出していた。だが、妻とも連絡が途切れた。そんな時、犬商人のミョン(キム・ユンソク)から韓国である人物を殺害すれば借金と同額の報酬を約束された。グナムは意を決して黄海を渡るのだが・・・

 

ポジティブ・サイド

暴力の描写に一切の妥協をしない韓国映画界の中でも、ナ・ホンジン監督は図抜けている。『 チェイサー 』のキム・ユンソクは殴る蹴るの暴行だったが、本作ではハ・ジョンウもキム・ユンソクも手斧や刃物で相手を傷つけ、殺しまくる。良い意味でも悪い意味でも度肝を抜かれたのが、ミョンがぶっとい牛骨で敵を撲殺していくシーン。さっきまで自分たちが鍋で食っていたものを武器にするのは、映画史上に残る珍演出ではなかろうか。骨で何かをぶっ叩くシーンがこれほど印象的なのは『 2001年宇宙の旅 』の冒頭のサル以来ではないか。これは誉め言葉である。『 アジョシ 』のテシクの洗練された殺人術ではなく、本能のままに殺していく、まさに獣である、

 

暴力だけではない。走る。走って走って走りまくる。『 チェイサー 』でも走りまくったハ・ジョンウとキム・ユンソクがさらに走る。『 ターミネーター2 』のロバート・パトリックを彷彿させる走りっぷりである。人間にも動物にも、闘争・逃走反応(Fight-or-flight-response)というものがあるが、本作のグナムは逃走から闘争へとドンドンと狂暴化していく。走って逃げた先が袋小路であれば、牙を剥くしかない。窮鼠猫を嚙むというのは真実である。

 

本作は前半と後半でがらりと趣が変わる。ソウルに渡ったグナムがターゲットの店を入念に下見して行動パターンを掴むまではクライムドラマ風味だが、ターゲットが死んだところから、一気に逃走サスペンスになりアクション映画にも変貌する。『 逃亡者 』のリチャード・キンブルもかくや、というほどの逃走劇。ビルの壁を伝い、窓を突き破ってクルマの上に落下し、路地を走ってパトカーを振り切り、大通りを突っ切って事故を誘発して、警察から逃げおおせる。山を越えるし、検問も逃げ切る。原題の英語版は“The Fugitive”ではないのかと思ったほどだ。この警察からも裏社会からも追われるという緊張感と恐怖は、ちょっと想像がつかない。大型船をめぐる逃走劇と闘争劇がクライマックス近くにあるが、『 AI崩壊 』の入江監督は、本作をもっと研究すべきだったのだろう。それぐらい、船の中でのバトルシーンには迫力と迫真性がある。狂乱の逃走劇は、実際には様々なカットを編集しているだけとはいえ、ジャンパーが切り裂かれた時に羽毛がひらひらと舞うシーンを挿入することで、一連のシークエンスに見せることに成功している。これはすごい演出である。

 

本作を観ていると、本当に身につまされる。朝鮮族という、中国人でもなく韓国人でもない立場の人間とは、いったい何なのか。寄る辺ない人間にも、やはり寄る辺は必要なのだ。グナムは確かに甲斐性無しであるが、だからといって妻への思慕の念や子への愛情までも否定されてよい存在ではない。特に何度も夢に見る妻との閨房のシーンの切なさは、男やもめならずとも容易に想像がつくだろう。哀しき男だ。だが本作の邦題は『 哀しき獣 』である。その意味は、ラストシーンで明らかになる。この救いの無さに救いを感じることができる自分に虚しい乾杯をあげたいと思う。

 

ネガティブ・サイド

ミョンの大暴れシーンで二度ほど画面がセピア色に変わるが、これは不要な演出。頸動脈から血液がドバっ、というシーンや脳天がカチ割られるシーンでこれが起こるが、そこをカラーで映し出してこその韓国映画ではないのか、ナ・ホンジン監督。

 

ミョンがグナムに殺しの依頼をする背景と真相は、かなり拍子抜けさせられるものである。というか、『 新感染 ファイナル・エクスプレス 』でも感じたが、韓国ではバス会社の社長や常務というのは、社会的に決して尊敬されない、逆に忌避され疎外される存在なのだろうか。財閥の人間とまでは言わないが、もっと社会的に実力のある人間であるように描写すべきだ。上級国民が下級国民を使嗾して悪事を働かせた。それが自らに盛大なしっぺ返しとして返ってきた。このようなプロットは書けなかったか。本作における朝鮮族には、あまりにも救いや希望がなさすぎる。

 

グナムがたびたび妻との房事を夢に見るが、それによりエンディングのシーンの悲哀が逆に少し薄れてしまっているように感じた。最後の最後に一瞬、妻のことを思い出す。あるいは、いざ殺人という瞬間に妻の顔が脳裏をよぎる。それぐらいの演出の方が個人的には望ましかった。

 

総評

原題は『 黄海 』=The Yellow Sea、すなわち朝鮮半島と中国の間の海である。中国人でも韓国人でもない朝鮮族の悲哀の象徴なのだろう。本作はテーマだけではなく技法でも優れている。グナムの髭の伸び具合をよくよく観察してみよう。時間の経過がリアルに感じられるはずである。そして、グナムが持ち運んでいる指の汚れ具合や腐敗具合にも注目しよう。一昔前の邦画の任侠映画における指が、いかに作り物然としているのかが一目瞭然である。バイオレンス描写に耐性がないのなら、本作を観てはならない。耐性があるのなら観よう。韓国映画の特徴と魅力が本作にたっぷりと詰まっている。

 

Jovian先生のワンポイント韓国語レッスン

オイ

日本語でも「おい」という相手に対する呼びかけの言葉として使われている。日韓共通語かと思わせて、さにあらず。英語でも“Oi!”という表現は、話し言葉でも書き言葉でも使われる。意味もやはり「おい」である。なにか間投詞として人間の根本的な言語感覚に普遍的に訴える音の響きがあるのかもしれない。

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『 暗数殺人 』 -名もなき死者への鎮魂歌-

暗数殺人 75点
2020年6月21日 心斎橋シネマートにて鑑賞
出演:キム・ユンソク チュ・ジフン チン・ソンギュ
監督:キム・テギュン

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心斎橋シネマートで予告編を観た時から気になっていた。これはタイトルの勝利である。暗数という聞き慣れない言葉それ自体が強烈なインパクトを持って我々に迫って来る。そして本編も実に強烈なサスペンスであった。

 

あらすじ

刑事キム・ヒョンミン(キム・ユンソク)は恋人殺しの容疑をかけられたカン・テオ(チュ・ジフン)から、「全部で7人殺した」という告白を受ける。テオが死体を埋めたと供述した場所を掘ってみると確かに白骨死体が発見された。だが、テオは突如、「自分は死体を運んだだけだ」と供述を翻して・・・
 

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ポジティブ・サイド

まずはカン・テオという殺人者を演じたチュ・ジフンの迫真の演技に満腔の敬意を表したい。ADHDなのかと思わせるほどの落ち着きのなさの中に、冷酷冷徹な計算が働いている。テオという男は警察や検察がどういう論理で動き、どういう論理では動かないのかを熟知している。人を食ったような態度はその余裕の表れである。同時に、警察や刑事の個人的な心情や信条を巧みに利用する。狡知に長けたサイコパスで、「他人の命はゴキブリと同じ。けど俺の命は違う」という酒鬼薔薇聖斗のような二重倫理の持ち主である。また『 チェイサー 』の殺人鬼ヨンミンが語っていたように、血抜きに言及するところ、死体の重さを生々しく語るところに、韓国映画と邦画の決定的な差を思い知らされるようだった。銀幕の世界の殺人者をどこか神秘的な存在に描いてしまいがちな邦画と、文字通りの意味で血肉の通った人間として描く韓国映画の違いである。命が鴻毛よりも軽く、理不尽な理由であっさりと奪われる。その背景には、お定まりの悲惨な過去があり、うっかり同情させられそうになる。

 

対するキム・ユンソクの刑事役は、警察という「組織でこそ力を発揮できる組織」の一員にはとても馴染まない男である。検挙数や起訴数がそのまま手柄になり昇進に直結するとなれば、誰も暗数殺人などに興味は示さないだろう。では何故、キム・ヒョンミン刑事はテオの供述する暗数殺人に殊更に執着するのか。明確には語られないが、そこには死別した妻に対する愛情が感じられた。悪気はなく、むしろ善意から「結婚はしないのか?」と声をかけてくる同僚警察。だがヒョンミンにそのつもりはない。詳しい説明はなされないが、彼は妻を忘れていないし、忘れるつもりもない。だが、周囲は自分の妻がまるで最初から存在していなかったかのように扱う。そのギャップが刑事ヒョンミンの静かな原動力になっているかのような描写には唸らされた。最後に彼が語る刑事としての捜査の哲学は、韓国社会全体に向けたキム・テギュン監督のメッセージなのだろう。

 

本作のキーワードの一つに「再開発」というものがある。村落の墓地の再開発、アーバンスプロールによって無秩序になってしまった地域の再開発。そうした社会の姿勢は否定されるべきものではない。『 パラサイト 半地下の家族 』で注目されたエリアは再開発と保存の間で揺れていると報道された。開発は、それがsustainableなものである限り、許容されるべきとは思う。一方で、開発されることによってその痕跡を消し去られてしまう者も確実に存在する。

 

トガニ 幼き瞳の告発 』のように、韓国映画は実在の事件から着想を得るのが得意なようである。それはつまり、社会を揺るがすような事件は風化させてはならないという韓国映画人の気概の表れなのだろう。本作も同様である。少し異なるのは、大きなスポットライトを浴びた事件ではなく、そもそも日の目を見なかった事件の深淵に光を当てようという試みであることだ。これは現代日本にとっても関連が無いこととは言えない。COVID-19がどこか他人事のように扱われていた2020年2月~3月であったが、志村けん岡江久美子といった「名前のある」人物が相次いで死亡したことで、国民全体に危機意識が急激に高まった。逆に言えば、名前のない人間が死亡しても、特に誰も気にしないということである。そして名前とは認知・認識の最たる道具である。余談だが、この「名前」というものに意識を持ちながら本作を観ると、名優キム・ユンソク演じる刑事キム・ヒョンミンにある瞬間に同化することができる。

 

認識されない。それは取りも直さず、その人間がいなくなったとしても社会が回っていくということである。だが、個人のレベルではどうか。御巣鷹山への日航機墜落事故、尼崎の福知山線脱線事故など、被害者の遺族の多くが望むのは「事故を風化させないこと」である。事件の被害者も同じだ。忘却しないこと。あなたという人間が存在したこと、その痕跡を消さないこと。それは推し進めるべきは分断ではなく連帯だという強力なメッセージであると思えてならない。

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ネガティブ・サイド

中盤にヒョンミンが失態を犯して、刑事から交番勤務の警察官に降格および左遷させられるが、ヒョンミンは気にすることなく捜査を継続する。果たしてそんなことは可能なのだろうか?交番勤務でも警察のデータベースにはアクセス可能だが、足を使った捜査は無理だろうし、何より上司に報告の義務があるだろう。それとも韓国の交番勤務の警察官は日本とはまったく違う仕組みで働けるのだろうか。エンドクレジット前の字幕で、キム・ヒョンミン(仮名)は2018年時点でも刑事として捜査継続中とされるが、こうした降格・左遷劇は脚色なのか。だとすれば少々やり過ぎである。

 

エクストリーム・ジョブ 』でブレイクを果たしたチン・ソンギュの活躍が少ない。コミカルな役から大悪人まで演じ分けられる遅咲きの役者だが、見せ場がいかんせん少ない。目立たないバディで終わってしまったのが残念である。

 

総評

韓国映画らしい骨太のメッセージと、娯楽映画として申し分のないサスペンスに満ちた良作である。社会の暗部から決して目をそらさないというあちらの映画人の哲学や思想信条を感じる。静のキム・ユンソクと動のチュ・ジフンの演技対決も見応えがある。映画館に足を運ぶ価値がある一作である。 

 

Jovian先生のワンポイント韓国語レッスン

ソンベ

先輩の意味である。先=ソン、輩=べ。『 建築学概論 』でも聞こえてきていたように思う。日本語も韓国語も結構な部分を中国語に負っていることは否めない。上下関係に厳しい韓国社会にも日本語と同じように「先輩」が存在する。階級社会の警察なら、辞めても関係は残る、または続くのだろう。

 

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『 水曜日が消えた 』 -竜頭蛇尾の邦画ミステリ-

水曜日が消えた 30点
2020年6月20日 TOHOシネマズ梅田にて鑑賞
出演:中村倫也 石橋菜津美 深川麻衣
監督:吉野耕平

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多重人格ものと記憶喪失もの、そしてタイムトラベルあるいはタイムパラドックスものは、たいてい始まりは抜群に面白い。その面白さをいかに維持するか、それが共通のテーマとなるが、それに成功した作品はごく少数である。本作はどうか。Fizzle outした。

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あらすじ

幼い頃の交通事故の影響で“僕”(中村倫也)は曜日ごとに異なる人格に入れ替わるようになってしまった。成長し、各人各様に生きるようになった“僕”だが、その中でも火曜日は掃除やゴミ捨てなど損な役回りを押し付けられていた。だが、ある日、目覚めてみると、水曜日だった。“水曜日”が消えて、“火曜日”が火曜と水曜を生きるようになったのだ。火曜日はいなくなった“水曜日”を不審に思いながらも、水曜日の生活を堪能するのだが・・・

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ポジティブ・サイド

“火曜日”と深川麻衣とのロマンティックな関係が、平凡ながらも幸せの意味を実感させる良いシークエンスだった。テレビドラマ『 まだ結婚できない男 』でなかなか売れない芸能人役がハマっていたように、元がアイドルとは思えない地味さが深川麻衣の魅力だ。褒めている。決してけなしてなどいない。実際に本人を目の前にしたとすれば、相当にキュートであろう。しかし、スクリーンで見ると地味なのだ。そのギャップが良いのである。

 

“僕”の友人を演じた石橋菜津美もなかなかに奥ゆかしい。ベリーショートで、体の曲線をまったく感じさせない服装で、言動もかなりの男前。その一方で、そうした態度はすべて“僕”への好意の裏返しであることがバレバレというとても分かりやすいキャラ。そんな人物が「じゃあ、深夜らしいことするか」というシーンは、「お?お色気シーンがあるのか?」と期待させてくれた。もちろん、そんなものはない。『 月極オトコトモダチ 』はやはりファンタジーだ。そういったサバサバ系女子の因果は、ちゃんと後半に明らかにされるし、そこにはそれなりの説得力がある。

 

“火曜日”が別の人格とコミュニケーションを取るシーンの演出はそれなりに斬新か。どこか初代『 グレムリン 』を思わせる深夜のルールも、序盤から中盤のサスペンスを効果的に盛り上げている。

 

ネガティブ・サイド

なんというか、プロットだけ見れば『 セブン・シスターズ 』と『 ジョナサン -ふたつの顔の男-   』を足して2で割ったようなストーリーである。つまり、オリジナリティが無い。他に類似作品としては新城カズマの小説『 サマー/タイム/トラベラー 』の某キャラや漫画『 嘘喰い 』の某キャラなどが挙げられる。とにかくキャラクター設定が陳腐だ。

 

また多重人格ものの定石として、物語の割と早い段階でそれぞれの人格がいかに異なり、独立したものであるのかをオーディエンスに明確に示す必要がある。観客の一定数は役者の演技力を堪能したいがために鑑賞しているからだ。そうした意味でも、本作の構成には不満が残る。『 スプリット 』のジェームズ・マカヴォイのレベルは別に求めない(そんなことができる役者は世界的にも40~50人しかいないと思われる)。しかし中村倫也の一人七役というのは過剰広告であった。実質的には一人二役で、それも正反対のキャラクター。こういうのは非常に演じ分けやすく、はっきり言って役者のポテンシャルをとことんまで引き出す演出にはなりにくい。スマホの録画機能で対話するシーンは現代的だが、それも『 ジョナサン -ふたつの顔の男- 』が似たようなことを先に行っている。スマホと対話するのではなく、スマホで録画するシーンを交互に映し出せなかったか。あるいは、スマホを右手に構えながらシームレスに人格同士が語り合うシーンは撮れなかったか。そこまでやらないのなら多重人格ものを撮る意味は薄い。

 

映像演出の面でも不満が残る。割れたサイドミラーに映る鳥が分裂していくのは、どう考えても『 スプリット 』のジャケットやポスターの二番煎じだし、そもそもそのシーンを繰り返し再生しすぎである。またキーとなる図書館が『 図書館戦争 』 のそれ。もっと別の図書館を探せなかったのか。同じ図書館を使うにしても、上方からの俯瞰のショットや、円周部分の書棚など、『 図書館戦争 』で飽きるほど見た構図である。もっと別の角度からのショットを監督や撮影監督は模索すべきでなかったか。

 

腑に落ちないのは、“火曜日”の態度。普通は“水曜日”が消えたら、第一に「自分も消えてしまうのではないか」という恐怖、第二に「他にも消えている曜日がいるのではないか」という疑念を抱くはずである。そうはならずに、いきなり未知の水曜日を楽しんでしまうところに、とんでもないご都合主義およびDIDへの無知と無理解を感じた。『 スプリット 』のカウンセリングシーンや『 ISOLA 多重人格少女 』を観ろ、そして原作小説『 十三番目の人格 ISOLA 』を読めと吉野耕平監督に強く言いたい。『 セブン・シスターズ 』も“月曜日”が姿をくらませたことで残りの曜日たちは大混乱に陥ったではないか(あちらは七つ子だが)。普通に考えれば10年単位で付き合いのある人間がいなくなれば困惑するだろう。あるいは、“水曜日”が水曜日を拒否したくなるような出来事があったのかと、水曜日に警戒することはあっても、ウキウキはしないだろう。七重人格という設定だけを先走らせて、人間というものが描けていない。

 

“僕”の面倒を看るべき医療関係者たちの目も節穴なのだろうか。脳への器質的なダメージでDIDを発症した、あるいは器質的なダメージの回復過程でDIDを発症したということは、“各曜日”との面談(カウンセリング)とメディカル・チェックが人格の独立あるいは統合という、いわゆる治療への道筋を立てるための大きなカギとなる。それを火曜日に“火曜日”相手にしか行っていない。アホなのだろうか。脚本および監督を務めた吉野耕平は、どこまで取材し、どこまで考察し、どこまで七重人格へリアリティを付与しようと努力したのか。おそらく満足にしていない。様々な先行作品の色々な要素をつまみ食いしただけの企画に予算とゴーサインを出した配給会社と制作委員会の罪である。ということは邦画という産業構造の罪でもある。勘弁してくれ。

 

メインキャスト以外の演技が総じて学芸会レベルである。特にきたろうと若い医者。これで出演料を受け取っていいと感じているのか。監督も何テイク撮ったのか。編集にどこまで関わったのか。どこまで現場で演出や演技指導をしたのか。せっかく昨今珍しい小説や漫画原作ではない邦画だというのに、この出来はあまりにも無残であり残念である。

 

総評

邦画のダメなところが凝縮されたような作品である。映画館が徐々に日常(withコロナだが)を取り戻しつつある中、割と楽しい気分で劇場に向かったのだが。これがTOHOシネマズ梅田のScreen 1というスクリーンの大きさと画質、そして音質に優れた劇場でなければ、もうマイナス5点したい。それぐらいの酷い出来である。某映画サイトなどで好評レビューが多いが、サクラだと思いたい。そうでなかれば映画ファンの劣化も甚だしい。というのはさすが言い過ぎか。はっきり言って中村倫也のファンでなければ、観る価値は極小である。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

get along

劇中で火曜日の言う「僕たち、仲良いんだよ」を英語にすれば、“We get along.”となるだろうか。A and B get along. = AとBは仲良くやっている、We get along = 僕たちは仲良くやっている、である。一定以上の世代の人間ならば“We can get along together.”と言えば通じるだろう。

 

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『 チェイサー 』 -韓国版『 セブン 』+『 ソウ 』-

チェイサー 80点
2020年6月18日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:キム・ユンソク ハ・ジョンウ ソ・ヨンヒ
監督:ナ・ホンジン

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PMC ザ・バンカー 』のハ・ジョンウの出演作。鬱映画だと聞いていたが、この作品は確かに精神的にくるものがある。

 

あらすじ

元刑事のジュンホ(キム・ユンソク)はデリヘルを経営している。しかし、所属する女性二人が行方をくらます。誰かに売り飛ばされたと直感したジュンホはミジン(ソ・ヨンヒ)使って独自におとり捜査を開始。自店に他店にも記録のあるヨンミン(ハ・ジョンウ)という客をジュンホは追走して捕まえるが・・・

 

ポジティブ・サイド

2000年代の作品だが、やはりここにも『 国家が破産する日 』の傷跡が見える。刑事を辞めて、どういうわけかデリヘル経営者になっているジュンホが、最初は自社の商品を誰かに奪われていると憤慨し、行動を起こす。それが徐々に、社会的な弱者を自分が守らねばという使命感へと変わっていく。警察はあてにならない。所詮は権力者の犬である。ナ・ホンジン監督のそんな信念のようなものが物語全体を通じて聞こえてくるようである。

 

それにしても、ジュンホ演じるキム・ユンソクの妙な迫力はどこから生まれてくるのか。『 オールド・ボーイ 』でオ・デスを演じたチェ・ミンシクもそうだが、一見すると普通のオッサンが豹変する様は韓国映画の様式美なのか。『 アジョシ 』の悪役、マンソク兄のように三枚目ながら、やることはえげつない。こうしたギャップが、決してlikeableなキャラクターではないジュンホを、観ている我々がだんだんと彼のことを応援したくなる要因だ。最初の15分だけを観れば、ジュンホが主役であるとは決して思えない。むしろ、こいつが悪役・敵役なのでは?とすら思える。普通に社会のゴミで、普通に女性の敵だろうというキャラである。何故そんな男を応援したくなるのか。その絶妙な仕掛けは、ぜひ本作を観て体験してもらうしかない。アホのような肺活量と無駄に高い格闘能力も、何故か許せてしまう。なんとも不思議なキャラ造形である。

 

だが、キャラの面で言えばハ・ジョンウ演じるヨンミンの方が一枚も二枚も上手。『 殺人の追憶 』の真犯人はこんな顔だったのではないかと思わせるほど平凡な見た目ながら、その内面は鬼畜もしくは悪魔。このギャップにも震えた。それも『 羊たちの沈黙 』のハンニバル・レクター博士のような超絶知性のサイコパスではなく、『 殺人の追憶 』や『 母なる証明 』などのポン・ジュノ作品でも静かにフィーチャーされた知的障がい者を思わせる男で、どこまでが素なのかが全くつかめない。本当に知的に問題のあるキャラかと言うと違う。ミジン(そして、その前の二人も)を自宅に連れ込んで、あっさりと監禁してしまうまでの流れは、非常に知性溢れる犯罪行為である。けれど、警察の取り調べにあっさりと口を割ってしまうところなど、どこか幼い子どもを思わせる素直さ。これほど掴みどころのない猟奇殺人者はなかなか見当たらない。その語り口はどこか『 ユージュアル・サスペクツ 』のケビン・スペイシーを彷彿させる。実在の事件と犯人に基づいているというところに韓国社会の闇と、その闇に多くの人に目を向けてほしいという韓国映画人の気迫を感じる。

 

それにしても韓国映画のバイオレンス描写というのは、いったい何故にこれほど容赦がないのか。ミジンを殺そうと金槌で特大の釘を後頭部にぶち込もうとするシーンは、観ているだけで痛い。『 ソウ 』でとあるキャラクターが壮絶な自傷行為を行うシーンも視覚的に痛かったが、本作はもっと痛い。路上のチェイスでついにジュンホがヨンミンを捕らえ、マウント状態からアホかというぐらい殴るシーンも痛い。邦画にありがちな口から血がタラリといったメイクや演出ではない。顔が腫れる、出血する、傷跡が残る、痛みで目がチカチカする。殴られる側の痛みが観る側にまで伝染してくるかのような描写だ。

 

鬱映画とは聞いていたが、エンディングも救いがない。まさしく韓国版『 セブン 』である。奇しくもこれもケビン・スペイシーか。猟奇殺人者やシリアル・キラーの恐ろしいところは、殺人行為そのもの以上に、何が彼ら彼女らを殺人に駆り立てるのかが不明なところにある。弁護士との接見シーンでヨンミンが性的に不能だから、その腹いせに女性を殺したのだという説が開陳される。単純で分かりやすい説明だ。だが、ヨンミンの甥っ子の負った頭の大怪我はいったい何なのか。ヨンミンが女刑事の“性”を揶揄するシーンは何を意味するのか。宗教的なシンボルを半地下の部屋の壁に描きたくったのは、いったいどういう衝動に突き動かされたからなのか。ヨンミンという殺人鬼の内面に迫ることなく閉じる物語は、我々に圧倒的な無力感と敗北感を味わわせる。だが、その先に一縷の望みもある。社会の底辺に生きる者同士の連帯を予感させて、物語が終わるからだ。後味の悪さ9、光の予感1である。それでも光は差しこんでくると信じたいではないか。

 

ネガティブ・サイド

ギル先輩とその仲間たちとジュンホの絡みが欲しかった。何の説明も示唆もないままに、「またお前が何かやりやがったのか!」という態度は、下手をすると偏見や差別になりかねない。もちろん偏見や差別に対する糾弾の意味合いも本作には込められている。けれど、偏見・差別は関係性が全く存在しない相手との間に発生する傾向のあるものだ。彼らの態度は、悪を許すまじというある意味で度を超えた正義感の持ち主であるジュンホという人間へのまなざしではなく、デリヘル経営者という社会のはみ出し者への視線に感じられた。

 

ジュンホの部下であるチンピラは最後はどこに行った?素晴らしく良い顔の俳優である。この男の活躍をもっと堪能したかったのだが。

 

クライマックスの展開の引っ張り方が少々強引かつ冗長だった。検事から12時間以内に証拠を出せと言われて、タイムリミットが設定されているうちはよいが、それを過ぎてしまった後の流れとテンションが中盤から後半のそれに比べて、やや落ちた。

 

総評

傑作と評して良いのかどうかわからないが、それでも最後までハラハラドキドキを持続させる良作である。グロ描写や暴力描写が多めなので観る人を選ぶ作品だが、社会矛盾を穿つメッセージ性と、社会的弱者を救うのはまた別の社会的弱者という希望とも絶望とも取れる内容は、これまた観る人を選ぶ。サスペンスの面だけ見れば、迷うことなく傑作である。この緊張感はちょっと他の作品では得られない。

 

Jovian先生のワンポイント韓国語レッスン

アニ

日本語では「いいや」ぐらいの軽い否定語。アニアニ=いやいや、も韓国映画ではちらほら聞こえてくるような気がする。外国語学習のコツの一つに「はい」、「いいえ」と1~10の数字をまずは覚えろ、という教えがある(ボクシングジャーナリスト・マッチメーカー・解説者のジョー小泉)。なかなか機会は訪れないだろうが、韓国旅行や韓国出張の際に土産物屋であれこれ売りつけられそうになったら「アニアニ」と言ってやんわりと断ろう。

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