Jovian-Cinephile1002’s blog

古今東西の映画のレビューを、備忘録も兼ねて、徒然なるままに行っていきます

『 エスケープ・ルーム 』 -現代的シチュエーション・スリラー-

エスケープ・ルーム 55点
2020年3月14日 テアトル梅田にて鑑賞
出演:テイラー・ラッセ
監督:アダム・ロビテル

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200314142948j:plain
 

2016年だったか、JovianはMOVIXあまがさきでリアル脱出ゲーム「ある映画館からの脱出」にトライしたことがある。結果は、本の半分くらいまでしか進められなかった。あと1時間半あれば、もしかしたら全部解けた・・・かもしれない。そういうわけで、ある意味でリベンジを期して本作に臨んだが、頭脳系というよりはアクションとサスペンスの風味が強めだった。

 

あらすじ

このエスケープ・ルームを最初に攻略した者には賞金1万ドル。各地から集まってきたゾーイ(テイラー・ラッセ)ら6人は、シカゴのビルの一室でゲーム開始を待っていた。だが、部屋のドアノブが外れたのを合図に脱出ゲームがいきなり開始された。この脱出ゲーム、エンターテイメントというにはあまりにもシリアスで過酷なもので・・・

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200314143308j:plain
 

ポジティブ・サイド

冒頭からただなぬら雰囲気である。足を怪我していると思しき男が、上階から天井を突き破って落下してきた。そしてドアに取り付けられた暗号鍵のヒントを探す。だが、そうする間にも部屋はみるみると縮まっていき、調度品を押しつぶしていく・・・

 

まるでスペインの怪作『 キューブ■RED 』(ちなみにこれは『 キューブ:ホワイト 』と同じで、いわゆる『 CUBE 』の名を模しただけの作品である)のクライマックスにそっくりである。色々な部屋に恐ろしい趣向が凝らしてあるというのは、まさに『 CUBE 』の精神を受け継いでいる。

 

一つ一つの部屋も、しっかりと作りこまれている。このあたりも『 CUBE 』的である。また、一見して建物の中とは思えない部屋も存在する。扉が開くごとに異世界に放り込まれる感覚は、『 キラー・メイズ 』を格段にシリアスにしたようにも感じられた。『 ジュマンジ 』はゲームのキャラになる話だが、こちらはリアル脱出ゲーム。どこかコミカルな前者と違い、全編に緊張感・緊迫感があふれている。

 

集められてきた面々にも「ある要素」が仕込まれており、そのことが物語の早い段階でフェアな形で暗示されている。このあたりは巧みな構成であると感じた。また、彼ら彼女らは集められてきたわけであるが、では集めた側はどうなっているのか。このあたりは米澤穂信の小説および映画化もされた『 インシテミル 』の経済格差社会バージョン。我々が昔、TBSのスポーツエンタメ番組『 SASUKE 』を見ているようなものか。構造は『 インシテミル 』と似ていても、観る側がスーパーリッチ(その姿は当然見えない)であるというところは現代的であると感じた。

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200314142834j:plain
 

ネガティブ・サイド

キャラクターがほとんど全員立っていない。優等生で内気な少女やゲームヲタクの少年などはその最たる例だろう。死んでいく順番も手に取るように分かってしまう。このあたりにもう少し意外性を期待したかった。

 

ゲームの主催者がビルから一切合切の痕跡を残さず去ってしまうのも、相当に無理がある。現実にゲーム参加者ではない者の死体、それも銃殺されたものがある以上、本腰を入れて捜査せざるを得ないはずだ。なので、捜査は行われるも一切進展せず。警察はあてにならない。という流れの方が説得力があったと思われる。

 

また用意されていた各参加者の死亡新聞記事も、つじつま合わせとしては少々苦しい。特にゲーオタ少年などはほぼ100%、ネット上で活発に発言し、行動するナードだろう。「これから最難関の脱出ゲームに行ってきます!」のようなブログ記事やオンラインメッセージ、メールや友人知人への吹聴などがあったに決まっている。そういったもの全てを消し去る、あるいは歪曲するのは、不可能に思える。

 

総評

続編作る気満々で、実際に早々に続編制作をも決まったらしいが、どうなることやら。こういう作品は単体では面白いが、シリーズ化されてしまうと途端に陳腐になってしまう。それは『 CUBE 』や『 ソウ 』の証明するところである(特にJovianは開始10~15分で『 ソウ 』の仕込みを見破ったから猶更そう感じる)。あまり深く考えず、遊園地のアトラクション的なノリで鑑賞するのが正解かもしれない。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

work

劇中で何度か“It didn’t work.”というセリフが使われたが、「働く」という意味ではない。「上手くいく」という意味である。“It didn’t work.”は「(入力したパスコードが)ダメだった」ということである。日常生活でも

“Your advice worked.”

“This medicine will work.”

などという具合に使ってみるべし。

現在、【英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー】に徐々に引っ越し中です。こちらのサイトの更新をストップすることは当面はありません。

I am now slowly phasing over to https://jovianreviews.com. This site will continue to be updated on a regular basis for the time being.

『 バハールの涙 』 -女、命、自由の時代を求めて-

バハールの涙 70点
2020年3月11日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:ゴルシフテ・ファラハニ エマニュエル・ベルコ
監督:エバ・ユッソン

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200311081126j:plain
 

パターソン 』でパターソンの愛妻ローラを演じたゴルシフテ・ファラハニの主演映画。英語、フランス語、ペルシャ語クルド語まで解すとは、いったいどんな才媛なのだ。本作では一転、武器を取り、女性部隊を率いる勇猛な女性役。日本からこういう女優が出てこないのは何故なのだ?

 

あらすじ

バハール(ゴルシフテ・ファラハニ)はある日、ISの襲撃を受け、夫は殺され、息子は連れ去られ、自らと妹も拉致され、凌辱された。なんとか脱出したバハールは、女性部隊「太陽の女たち」を結成する。彼女たちを取材するジャーナリストのマチルド(エマニュエル・ベルコ)も、徐々にバハールの信頼を得ていく・・・

 

ポジティブ・サイド

ゴルシフテ・ファラハニの憂いを帯びた表情が何とも言えず良い。閉ざされ冷え切った心の奥底には、しかし、マグマが煮えたぎっている。そんな相反するような属性を併せ持つキャラクターをしっかりと体現した。バハールという女性は架空の存在のようであるが、その存在感は群を抜いている。小説や映画にありがちな、一見すると小市民だが、実は特殊部隊上がりだったとか、幼少から格闘技や暗殺術を叩き込まれていたといったような、ある意味でお定まりの背景を持っていないことが、逆にリアリティを高めている。平塚らいてうは「元始、女性は太陽だった」という言葉を残した。太陽は光と熱の塊であるが、表面よりも内部の方に圧倒的なエネルギーを蓄えている。植物にその無限のエネルギーを分け与え、我々動物はそのおこぼれに頂戴している。バハールをはじめとした「太陽の女性たち」が歌う「女、命、自由の時代」の歌には、名状しがたい力が溢れている。彼女らの歌う「女 命 自由の時代」というのは、それこそ「男 死 束縛の歴史」が続いてきたことへの痛烈な批判である。これを中東だけの事象であると思い込むことなかれ。ほんの1世紀前の極東の島国は、アジア中に死と破壊をもたらす戦争への道を、男だけの論理の世界で突き進んでいったのである。バハールが常に虚無的な表情で銃を手に持っているのは、それだけ目の前の現実に抑圧されているからに他ならない。我々も妻や母が虚無的な表情になっていないか、少しは気を配ろうではないか。

対照的に、エマニュエル・ベルコ演じるマチルドは、明らかに『 プライベート・ウォー 』のメリー・コルビンだろう。ホムスで逝ったコルビンの意思を受け継ぐかのように、マチルドはホムスの爆撃で片目を失明し、それ以来眼帯を巻いている。そのマチルドも、ジャーナリストとしての報道の使命を果たすことや真実を追求するために記者をしているわけではない。コルビンと同じく、市井の名もなき人々との出会いを羅針盤に、彼女は戦地を取材している。「我々は世界のことを考えすぎている」と養老孟司は喝破したが、本当は生身の人間に思いを馳せるべきなのだ。空爆があったとか、災害があった、疫病が流行したというニュースに触れる時、その地域にリアルタイムで生きる人々を想像する力を育むべきなのだ。彼女が自らを突き動かす行動原理を語る時、我々はバハールとマチルドが同志であることを知る。「女は弱し、されど母は強し」とはよく言ったものである。

 

本作は赤と黒が入り混じった光の使い方が印象的である。人間の内部のドロドロとした感情と、「太陽の女たち」を取り巻く現実のダークさ、不透明さを象徴しているかのようである。どこか『 エイリアン2 』を思わせる光の使い方である。

 

良いところなのかどうかは微妙だが、本作を鑑賞するにあたって、中東情勢やイスラム国の台頭、クルド人の歴史などを詳しく知っている必要はない。バハール、そしてコルビン・・・ではなくマチルドという個人の生き様に注目すべし。

 

ネガティブ・サイド

アクションやヒューマンドラマの演出がやや弱い。ストーリーそのものが充分にドラマチックであるからだろうか。ペルシャ絨毯の上に女性たちがどっかと腰を下ろして、各自銃の手入れに余念のない様子は印象的だった。いかにも非日常、緊急事態である。このような何気ない描写の中に感じる違和感=非常時、異常事態のただ中、というものをもっと使ってほしかったと思う。

 

後は石頭の男性司令官を、もうちょっと柔軟に描けなかっただろうか。あれでは融通さに欠けるただの無能、しかも下手をすればへっぴり腰のオッサンにしかならない。女性・母というもののしたたかさを描くために、男性をことさらアホに描く必要はない。男は元来、アホである。だからこそISを作ったり、そこに参加したりするわけである。

 

総評

一言、良作である。派手なドンパチはないが、それでも戦闘の緊迫感は伝わってくるし、なによりもバハールとコルビンの生き様がこの上なく inspirational である。戦争、紛争のニュースに接する時、我々は「あー、なんかやってるな」ぐらいにしか感じないが、それでもそこには生きた人間、死んでいく人間が存在することをこのような映画を通してあらためて知らされた。戦地のスーパーマンではなく、人間として強さの純度を高めた個人の物語であり、非常に現代的な作品である。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

You name it.

序盤の英語とフランス語とクルド語が入り混じっている場面で使われていた。意味は「その他にも色々ある」のような漢字である。実際の使い方についてはこの動画を見てもらえるとよく分かるだろう。こういった何気ない表現を会話やスピーチ、プレゼンの中で自然に使えれば英会話の中級者である。

現在、【英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー】に徐々に引っ越し中です。こちらのサイトの更新をストップすることは当面はありません。

I am now slowly phasing over to https://jovianreviews.com. This site will continue to be updated on a regular basis for the time being.

『 スマホを落としただけなのに 囚われの殺人鬼 』 -完全にネタ切れ-

スマホを落としただけなのに 囚われの殺人鬼 40点
2020年3月8日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:千葉雄大 成田凌 白石麻衣
監督:中田秀夫

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200308193222j:plain
 

前作『 スマホを落としただけなのに 』の続編。前作はスマホという文明の利器の闇を描いたという点では意欲的な作品だったが、本作はただのハッキング+シリアル・キラーもの。それも先行する作品のおいしいところばかりを頂戴して、ダメな料理を作ってしまった。

 

あらすじ

刑事の加賀谷(千葉雄大)が天才ハッカーにしてシリアル・キラーの浦野(成田凌)を逮捕して数か月後。浦野が死体を埋めていた山中から新たな死体が発見される。浦野は加賀谷に「それはカリスマ的なブラック・ハッカー、Mの仕業ですよ」と語る。時を同じくして、加賀谷の恋人である美乃里(白石麻衣)に魔の手が忍び寄っていく・・・

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200308193534j:plain
 

ポジティブ・サイド

千葉雄大が前作に引き続き好演。闇を秘めたキャラであると見ていたが、それなりに納得のいくバックグラウンドを持っていた。こういうところでも、日本は律義にアメリカに20年遅れている。しかし、こうしたことがリアルに感じられるのも現代ならではである。最近、自動相談所が小学生女児を親の元に帰してしまったことで悲劇が起きたが、こうしたことは実は全国津々浦々で起こってきたのではないか、そして見過ごされてきたのではないか。そうした我々の疑念が、加賀谷という刑事の背景に逆に説得力を持たせている。

 

白石麻衣、サービスショットをありがとう。

 

役者陣では、成田凌の怪演に尽きる。まあ、ハンニバル・レクターもどき、もといハンニバル・レクター的アドバイザーを体現しようとしているのは十分に伝わってきた。犯罪を楽しむ、いわゆる愉快犯ではなく、社会的な規範にそもそも収まらない異常者のオーラは前作に引き続き健在だった。千葉と成田(というと地名みたいだが)のファンならば、劇場鑑賞もありだろう。

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200308192943j:plain
 

ネガティブ・サイド

何というか、ありとあらゆる先行作品を渉猟しまくり、あれやこれやの要素をパッチワークのようにつなぎ合わせたかのような作品という印象を受けた。『 羊たちの沈黙 』のハンニバル・レクタースターリング捜査官の関係、『 トップガン 』のマーヴェリックの入隊理由、『 ハリー・ポッターと賢者の石 』のスネイプ先生など、さらには高畑京一郎の小説『 クリス・クロス 混沌の魔王 』および『 タイム・リープ あしたはきのう 』の「あとがきがわりに」に登場する江崎新一など、メインキャストの二人、千葉と成田を評すにはクリシェ以外の言葉がなかなか見当たらない。千葉は童顔とのギャップで、成田は持ち前の演技力でなんとかこれらの手あかのつきまくった設定を抑え込もうとしたが、残念ながら成功しなかった。作品全体を通じて感じたのは、スリルでもサスペンスでもなく退屈さである。

 

凶悪な犯罪者が野に放たれたままであるという可能性が高い。そいつを捕まえんと警察も全身全霊で奮闘するが及ばない。獄中の天才犯罪者の力をやむなく借りるしかないのか・・・ こうした描写があればストーリーに説得力も生まれる。だが、本作における警察はアホと無能の集団である。しかも、そうした設定に意味はない。単に観る側にネットやスマホの技術的な解説や悪用方法を説明したいからだけにすぎない。この室長(?)キャラはただただ不愉快だった。無能でアホという点では、浦野の監視についた脳筋的ギャンブル男もどうかしている。浦野の食事に嫌がらせをするから不快なのではない。相手が大量殺人鬼であると分かっていながら油断をするからだ。というよりも、PCを使うのに支障がない程度に、浦野は両手両足は拘束されてしかるべきではないのか。ハンニバル・レクター博士並みというのは大げさだが、それぐらい警戒しなければならない相手のはずである。だいたい、なぜ監視が一人だけなのだ?現実の警察(富田林署除く)がこれを見たら、きっと頭を抱えることだろう(と一市民として信じている)。

 

浦野がMを追う手練手管はそれなりに興味深いものだったが、ブログ解説はいかがなものか。いや、ブログの中身ではなく、ブログ記事執筆者としての加賀谷の写真をいつどうやって撮影したのか。シリアスな事件の捜査中に、笑顔でPCに向かう写真を撮ったというのか。考えづらいことだ。それとも合成・生成なのか。また【 Mに告ぐ 】というメッセージをクリックさせるという罠にはめまいがした。そんなもの、M本人がクリックするわけないだろう。ダークウェブに潜み、あらゆるネット犯罪に精通するカリスマ的ブラックハッカーが聞いて呆れる。そもそも、こいつが怪しいですよというキャラクターをこれ見よがしに登場させるものだから、すれっからしの映画ファンやミステリファンならずとも、Mを名乗る者の正体は容易に分かってしまう。こういうのはもう、スネイプ先生に端を発するお定まりのキャラである。

 

他にも珍妙な日本語も目立った。脳筋ギャンブラーによる、ラーにアクセントを置く“ミラーリング”や、「とりあえずメール送った相手に注意勧告してください」(そこは注意喚起だろう・・・)など。撮影中、最悪でも編集中に誰も気付かないのだろうか?こんなやつらがサイバー犯罪を取り締まっているようでは、邦画の中での日本の夜明けは遠いと慨嘆させられる。

 

後はリアリティか。獄中生活が長い浦野が、毛根まで銀髪というのはどういうことなのか。最近の留置場は髪染めもOKなのだろうか。普通に黒髪でいいだろうに。

 

総評

ミステリやサスペンスものの小説や映画に馴染みがない人ならば、前作と併せて楽しめるのだろうか。ストーリーの根幹の部分は悪くないのだ。ネット社会、PC社会の闇というのは今後広がっていくのは間違いない。だが、そこに至るまでの過程に説得力がない。『 羊たちの沈黙 』とはそこが最大の違いである。続編作る気満々のようだが、原作者、脚本家、監督の三者で相当にプロットを練りこまないことには、さらなる駄作になることは目に見えている。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

the most safest

劇中のダークウェブ侵入前にブラウザに上の表現を使った文章が現れていた。the most safestは、もちろん文法的には誤りである。the safestか、またはthe most safeとすべきだろう(後者のような形はどんどん受け入れられつつある eg. the most sharp, the most clearなど)。受援英語で the most 形・副 estと書けば間違いなく×を食らうが、実際にポロっとネイティブが使うことも多い表現である。Jovianの体感だと、the most awesomestという二重最上級が最もよく使われているように思う。受験や大学のエッセイ、ビジネスの場では使わないこと!

現在、【英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー】に徐々に引っ越し中です。こちらのサイトの更新をストップすることは当面はありません。

I am now slowly phasing over to https://jovianreviews.com. This site will continue to be updated on a regular basis for the time being.

『 仮面病棟 』 -面白さは小説 > 映画-

仮面病棟 45点
2020年3月8日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:坂口健太郎 永野芽郁
監督:木村ひさし

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200308124839j:plain
 

小説『 仮面病棟 』の映画化である。小説=活字であれば上手く誤魔化せていた部分の粗が映像では目立ったという印象。さらに、映画化に際して加えたちょっとした改変が、リアリティを損なってしまっているシーンもある。脚本には原作者の知念実希人の名もあったが、彼が関与できたのはどの程度なのだろうか。

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200308125147j:plain
 

あらすじ

速水(坂口健太郎)は、先輩医師の代打で急遽、当直医のバイトを引き受ける。だが、出向いた病院にピエロの仮面をかぶった銃を持つコンビニ強盗が押し入って、負傷した若い女性を治療しろと強要してきた。女性・川崎ひとみ(永野芽郁)をなんとか治療した速水だったが、ピエロは病院を立ち去らない。事態を打開しようとする速水だが、院長も看護師も病院そのものも、どこか不審な点ばかりでで・・・

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200307194801j:plain
 

  • 以下、ネタバレに類する記述あり

 

ポジティブ・サイド

本作はミステリ風味の脱出系シチュエーション・スリラーに分類されるのだろうか。病院まるごとを一種の密室にして、そこに『 エスケープ・ルーム 』(近く観たい)と『 パニック・ルーム 』の要素を混ぜてきた。ミステリ要素がサスペンスを呼び、サスペンス要素がミステリを盛り上げる。原作小説の持っている面白さを損なうことなく映像化した点は、間違いなく加点対象である。

 

大根役者だと思っていた坂口健太郎が、いつの間にか普通の役者になっている。『 人魚の眠る家 』では、まだ少しぎこちなさがあったが、本作ではピエロに怯えながらも知力と胆力で堂々と渡り合う若い医師を見事に演じきった。坂口よ、3年間みっちり英語を勉強して英語圏の映画に出ることを目標にしてみないか?その気になったら、Jovianが学習プランを立てて、コーチングして、時々実際のレッスンも提供しようではないか。

 

Back on track. 小説にあった病院の秘密を、映画化に際してはさらにパワーアップ。社会的なメッセージを放り込んできた。小説の出版は2014年12月。当時と今とで、日本の何が異なったのか。一つには、経済格差がさらに進んだこと。一億総中流というのはもはや幻想にすぎない。ごく一部の富裕層(それを上級国民と言い換えても良いのかもしれない)と、マジョリティである中の下クラスの庶民、そして貧困層が固定化されつつあるのが日本のみならず、いわゆる先進国に共通する現象である。そうした中、若さや命をカネで買おうとする者が現れるのは、理の当然と言える。

 

松竹系の劇場だけだろうか。最近、頻繁にドナーカードのCMが予告編前に流れるが、なかなかに意味深で趣がある。『 AI崩壊 』も、AIが命の選別をしてしまうというプロットだったが、命の価値についての問題提起をフィクション、そしてエンターテインメントの形で行ったことには一定の意義を認めたい。

 

ネガティブ・サイド

銃創がいくらなんでも不自然すぎる。というか、服の上をほぼ真横から撃たれたというのに、服は一切損傷しておらず、腹に傷を負わせるとは、いったいどんな擦過射創なのだ。『 JFK 』で言及された“魔法の銃弾”なのか。

 

小説のレビューで期待交じりに書いた「映画化に際して、永野芽郁の下着姿が拝めるかもしれない」という部分は実現せず。なんじゃそりゃ・・・

 

もしもJovianが速水と同じ状況になったら、病院にあるカネを全てピエロに渡し、全員が二階に上がったところで階段の鉄格子を鎖と鍵で封印してもらい、なおかつピエロに一回のエレベーターにソファを突っ込んで(『 十二人の死にたい子どもたち 

の仕掛けの一つ)、扉を閉められなくなる=他の階から一階に移動できなくなるようにするということを提案する(その上で院長が5階のエレベーターに同じ細工を施せばいい)。金目当てなら、乗ってくるだろう。この提案を飲まないのなら、それは目的がカネ以外にあるということになる。だが、普通に考えれば、互いが互いを隔離できる上のような提案が生まれなかったというのは、やや不自然にも感じられた。

 

セリフのつながりがおかしいところがある。ずばり、トレーラーの「あいつだけじゃない」の部分である。坂口演じる速水は、小説版では即座にピエロの仲間、もしくはピエロが二人いる可能性に思考を巡らせるが、映画の速水はさにあらず。なにやら頓珍漢な応答をする。あの状況で「あいつ」と言われて、それが誰を指すのか分からないというのは無理がある。説得力ゼロである。

 

ズバリ書いてしまうが、上のセリフを言う看護師もおかしい。普通は院長に言うだろう。もしくは速水に言うべきだ。なぜ永野に耳打ちするのか。いや、普段から羊しかいない牧場に、ふらりと狼がやってきたら絶対に警戒するだろう。ましてや女、それも同性。さらに勘が鋭い(はずの)看護師。一発で気が付かないとおかしい。活字では誤魔化せるだろうが、映像では無理だ。粗が目立ちすぎである。

 

警察の対応も間抜けの一言である。普通は監禁された人間の安否をまずは確認する。それはいい。だが次に確認すべきは位置だろう。犯人および人質が1階なら「はい」、2階なら「いえ」、3階なら「ええと、まあ」などと符丁を使ってやり取りすべきだ。元警察官のJovianの義父がこれを観たら、頭を抱えることだろう。また、SITも機動力が無さすぎるし、突入前に病院の間取りを確認したのかどうか怪しい挙動をする者もいる。なぜ特殊事件捜査係をことさらに無能に描くのか。

 

無能なのはマスコミも同じである。『 ホテル・ムンバイ 』でも米メディアがリアルタイムで軍の突入を報じたことで、ホテル内部のテロリストが一般人を殺傷するというシーンがあったが、同じことをここでも繰り返している。アホなリポーターがリアルタイムで警察の突入の様子をテレビで報じている。ご丁寧に、警察の配置なども丸見えの絶好のポジションを映している。マスコミは警察の味方なのか、ピエロの味方なのか。2020年1月に島根で立てこもり事件があったが、その時もマスコミは建物は遠くからだけ映し、警察官などは映り込まないように配慮していた。木村ひさし監督よ、リアリティというものを学んでくれ・・・

 

またラスト近くの絵が非常にシュールである。どうやって手術台に乗せたのだろうか。というか、一般人がオペ室に入れてしまうのは何故なのか。病院のセキュリティが緩すぎる。

 

記者会見での魂の叫びもシュールである。現実にこんなやつはいないだろうということ。そして、原作にあったロマンス要素を取っ払い、代わりに婚約者を交通事故で死なせてしまったという背景を速水にくっつけたのは悪いアイデアではなかった。だが、この映画版の背景と上述の叫び声が必ずしもリンクしない。原作通りに、患者に惚れる医師で良かった。その上で「生きてくれ!」と叫ぶのなら、まあ分からんでもない。医者が私的に告発するというのは、ダイヤモンド・プリンセス号に乗りこんだドクター岩田がやってくれた。そのおかげで、記者会見のくだりだけはそれなりに説得力があった。

 

総評

端的に言って、映画化失敗である。映画単独で観ればそれなりに面白いのかもしれないが、原作のスパッとした切れ味がなくなり、冗長性ばかりが目立つ作りになってしまった。1時間30分~1時間40分にまとめることもできたはずだ。原作を読んだ人なら、劇場鑑賞する意味はない。キャストに惹かれる、あるいは予告編に何かを感じたという人は劇場にどうぞ。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

clown around

仮面病棟(小説) 』でも紹介したが、clown around=(道化師のごとく)ふざけた真似をする、の意である。トレーらーにもある「ふざけるな」というセリフはいかようにも訳しうるが、せっかくピエロが出ているのだから、それに絡めた訳をしてみた。

現在、【英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー】に徐々に引っ越し中です。こちらのサイトの更新をストップすることは当面はありません。

I am now slowly phasing over to https://jovianreviews.com. This site will continue to be updated on a regular basis for the time being.

『 野性の呼び声 』 -野性と人間性の鮮やかな対比-

野性の呼び声 65点
2020年3月7日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:ハリソン・フォード ダン・スティーブンス オマール・シー
監督:クリス・サンダース

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200307195028j:plain
 

Jovianは小さい頃にアニメ『銀牙 -流れ星 銀- 』が好きだった。ある程度活字にはまるようになってからは本作の原作者ジャック・ロンドンの『 白い牙 』も繰り返し読んだ(文庫や単行本ではなく、巻末に付録がたくさんついた児童文学書だった)。本作は『 白い牙 』とは裏腹に、飼い犬が野性に帰っていくストーリーである。

 

あらすじ

19世紀末。飼い犬だったバックは、盗難の末に売り飛ばされ、そり犬となる。郵便配達人のそりを引く群れに加わったことでバックは徐々に野性を取り戻していく。しかし、その郵便配達チームも解散。数奇な運命をたどるバックは、ジョン・ソーントン(ハリソン・フォード)と再会を果たして・・・

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200307195240j:plain

ポジティブ・サイド

本作には厳然たるテーマが存在する。バックが最初に連れて来られるアラスカ州、そしてユーコン準州大自然という言葉では言い表せない自然の威厳、驚異、そして美がある。日本人は「自然」という英語をしばしば nature と訳すが、本作に描かれる自然はまさに wilderness である。本作の大部分はカナダだが、鑑賞中にアメリカの裸足の郵便配達人(ジェームズ・E・エド・ハミルトンが特に著名)を思い起こした。本作の描く一つ目のテーマは現代社会にも共通するものである。

 

一つには、テクノロジーの発展により仕事を奪われる者が出てくることである。そして、仕事を奪われるのは人間だけとも限らない。犬もそうである。時と場所を変えれば、牛や馬もそうだろう。郵便配達人として犬そりを操るペロー(オマール・シー)の情熱と、それゆえに仕事を失った時の落胆のコントラストは、現代社会に生きる我々にも大きな説得力を持って迫って来る。

 

二つには、大自然への憧憬である。今という時代ほど、科学が日進月歩し、人類全体の世界に対する知識が向上しつつある時代はなかった。GoogleアースやGoogleマップGoogleストリートビューは、良いか悪いかは別にして、地球上の大部分から未知の土地という概念を奪い取ってしまった。人間はすでに持っているものよりも、持っていないものを欲しがる生き物である。文学『 野性の呼び声 』が時を超えて何度も映画化されるのは、我々がそれだけ大自然への憧憬、さらには畏怖を求めているからに他ならない。そうした文脈で考えれば、なぜキングコングが現代に復活し、ゴジラと対決するのかにも意味を見出すことができる。地図にない土地を目指すソーントンとバックのコンビは、逆説的であるが現代人の姿をそのまま反映したものである。

 

三つには、人間性とは何かという問いである。本作のテーマの柱はバックが野性の呼び声を聞き、野性に回帰していくことであるが、それが同時にバックの相棒であるソーントンが人間性を取り戻す旅路でもある。人間とは何かを定義、説明することは難しい。だが我々は直感的に人間らしくない事柄は理解することができる。「血も涙もない奴だな。それでもお前は人間か!」と思ったことは誰でもあるだろう。もしくは「そこまでやっちゃあ、人間おしまいだよ」でも良い。我々は本能的にありうべき“人間像”を持っている。ソーントンを巡っては大きく二つの物語がある。一つは彼の家族、もう一つは彼と揉めて、彼を狙うゴールド・ハンターである。家族との別離に懊悩するのも人間であるが、その苦しみから逃れるために人里離れたユーコンに引きこもるのは人間らしいとは言えない。そのソーントンがバックとの交流を通じて変化していく様には迫真性がある。特に砂金を集めて何をするのかを自問するソーントンの姿は、ともすれば経済活動に没頭しがちな現代人への遠回しな批判となっている。

 

ハリソン・フォードのナレーションが耳にとても心地よい。『 ショーシャンクの空に 』におけるモーガン・フリーマンの何とも言えないゆったりとしたナレーションにそっくりで、それが耳にとてもよく馴染む。『 スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け 』でも、息子と難しい関係を持つ父親を演じていたが、本作のフォードの演技はそれよりも遥かに味わい深いものがある。

 

動物にとっての自然なこと、そして人間にとって自然なこと。そうした雄大なテーマをユーコンやアラスカの大自然を背景に描く本作は、ファミリーで観るのにうってつけだろう。小中学生の息子と父親というペアをお勧めしたい。

ネガティブ・サイド

ライオンキング 』のCGと同じで、バックという犬、その他の犬や動物たちの再現度も非常に高い。にもかかわらず、やはりCG酔いを起こしてしまいそうになるのは、本作はテーマにおいても映像面においても、自然と人工物(CG)の対比がこれ以上なく露になるからである。『 ライオンキング 』のように、全編にわたって一切人間が出てこないのであれば、CG動物たちにも映像的な一貫性が感じられる。だが、人間との交流や動物同士の交流や対立をふんだんに描く本作では、バックがあまりにも擬人化されていると感じられたり、他の犬とバックとの関係にあまり動物らしさを感じられなかったりもした。『 ハチ公物語 』や『 マリリンに逢いたい 』のような、本物の犬を起用した映画はもう作れないのだろうか。JovianはAnimal rightsの考え方に大方では同意するが、それでも動物に危害を加えない方法での映画撮影というのはできると思っている。

 

全編を通じて、本作はBGMが弱い。BGMのクオリティが低いという意味ではない。音量が全体的に小さすぎると思う。犬ぞりが疾走するシーンや雪崩のシーン、カヌーで川下りをするシーンなどでは特にそう感じた。本作は会話劇やアクションで魅せるタイプの映画ではない。映像と音楽・効果音で観る者の想像力を刺激しなければいけないタイプの作品である。その意味では、音質ではなく音量の低さが少々気になったところである。せっかくの素晴らしいBGMが、腹にまで響いてこなかった。

 

総評

チケット代の元は十分に取れるクオリティの作品である。単なる動物物語ではなく、そこに時代を切り結ぶテーマがあり、さらに普遍的なテーマもある。だからといって小難しい理屈が分からないと楽しめないというわけではない。アニメの『 フランダースの犬 』が理解できる子どもであれば、人間と犬は非常に濃密な関係を構築することが肌で理解できることだろう。今般の事情では難しいが、親子連れで映画館で鑑賞してほしいと思える作品である。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Here be dragons

作中で直接使用される表現ではないが、地図の範囲外、あるいは地図はあっても誰もその内部を探検したことがないという領域は“Here be dragons”と呼称される。外資系に勤めている方で、完全に新規の事業を興したり、あるいは新規の地域での顧客開拓を目指すとなった時に、「そこは“Here be dragons”ですね」と(心の中で)呟いてみてはどうだろうか。

現在、【英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー】に徐々に引っ越し中です。こちらのサイトの更新をストップすることは当面はありません。

I am now slowly phasing over to https://jovianreviews.com. This site will continue to be updated on a regular basis for the time being.

『 ジュディ 虹のかなたに 』 -愛は虚妄ではない-

ジュディ 虹のかなたに 75点
2020年3月7日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:レニー・ゼルウィガー ジェシー・バックリー フィン・ウィットロック
監督:ルパート・グールド

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200307123149j:plain
 

オズの魔法使 』は『 スター・ウォーズ 』と並んで、Jovianにとってオールタイム・ベストの一つである。そこでドロシーを演じたジュディ・ガーランドの晩年を描いた物語とあれば、観ないという選択肢は存在しない。

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200307124831j:plain
 

あらすじ

ジュディ(レニー・ゼルウィガー)は子どもと共にステージに上がって、日銭を稼ぐ日々。カネが底を尽き、ホテルとの契約も解消となったジュディは元夫の家に駆けこむ。子どもと一緒に暮らすための家、そして親権を手に入れるため、ジュディはロンドンでの公演に臨むが・・・

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200112195254j:plain
 

ポジティブ・サイド

ジュディ・ガーランドについては、実はそれほど多くは知らない。ただ、一般的な意味での幸せな人生を歩んでこなかった人であるということは、どこかで読んでいた。彼女はバイセクシャルで、『 ボヘミアン・ラプソディ 』のフレディ・マーキュリー、『 ロケットマン 』のエルトン・ジョンのような、マイノリティの悲哀を誰よりも先に体現した、一種の先駆者だったのだ。『 イミテーション・ゲーム 』で描かれた頃の英国が舞台で、いわゆるLGBTが枕を高くして寝られる地域でも時代でもなかった。そうした状況で、彼女が同性愛の男性カップルとささやかな交流を持つシーンに、大女優にして大歌手であるジュディ・ガーランドではなく、一人の“普通”の人間の姿を垣間見るようだった。

 

本作は、過酷な生活環境に置かれたジュディの子役時代と現在を行き来する。そうすることで、現在の彼女の苦しみの根の深さを浮き彫りにする。同時に、彼女が何を求め、何を得られなかったのかをも明らかにする。ジュディが求めていたもの、それは愛である。愛ほど定義に困る概念はないが、本作でジュディの求める愛は「求めること」である。あの虹の彼方に夢の国がある。夢の国にたどり着くことではなく、その旅路そのものに意味があるのだ。ラストの“Over the Rainbow”のもたらす感動は圧倒的である。『 サウンド・オブ・ミュージック 』の“エーデルワイス”、そして『 キャッツ 』の“メモリー”、そして“Beautiful Ghosts”を合わせたかのようである。

 

アリー / スター誕生 』の冒頭のタイトルが浮かび上がってくるシーンでレディー・ガガが口ずさんでいたのが“Over the Rainbow”である。『 スタア誕生 』で得られるはずだったオスカーは、しかし、ジュディの手には渡らなかった。それをゼルウィガーが今年、手に入れた。泉下の人となって久しいジュディも、get happy したことと思う。

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200220194207j:plain
 

ネガティブ・サイド

LGBT、ドラッグ、乱れた生活、壊れていく人間関係。成功する人間が堕ちていく様には一定のルールでも存在しているのだろうか。もちろん、ジュディ・ガーランドは20世紀半ばの人物で、彼女こそが成功と失敗のジェットコースターに乗った第一世代ではあるのだが、ストーリーそのものにも真新しさはなかった。

 

また、ある人物の特定の時期にスポットライトを当てるやり方も『 スティーブ・ジョブズ 』などでお馴染みである。もっと『 オズの魔法使 』制作当時に比重を置いた作りでも良かったのかもしれないと感じる。

 

後はエンディングのクレジットシーンで、ジュディ・ガーランド本人の映像や写真が絶対に映されると期待していたが、それがなかった。何故だ。権利関係なのか。作りはハリウッドのbiopicのクリシェなのに、こうしたところでは王道を外してくる。何故なのだ、ルパート・グールド監督?

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200220194139j:plain
 

総評

ジュディ・ガーランドの名を知らなくても、“Over the Rainbow”を知らないという人はいないだろう。歌手としても歌の方が、女優としてよりも作品の方が大きいという存在。それがジュディ・ガーランドである。そんな彼女がジュディ・ガーランドとしてではなく、一人の人間としてステージ上で“愛”を求めて歌う。若い世代で本作に感銘を受けたならば、ぜひとも『 オズの魔法使 』や『 スタア誕生 』を観てほしいと思う。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

take ~ seriously

「 ~を真剣に受け取る 」、「 ~を真面目に捉える 」といったような意味である。『 ダークナイト 』でジョーカーが【 昼間のセラピー・セッション 】から立ち去る時に、“Why don't you give me a call when you wanna take things a little more seriously?”と言い放つときにも使われている。これの反対表現は take ~ lightly である。ちなみに『 グーグル ネット覇者の真実: 追われる立場から追う立場へ 』には“Are you taking me lightly?”というフレーズは一時グーグル社内で流行したというくだりがある。

現在、【英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー】に徐々に引っ越し中です。こちらのサイトの更新をストップすることは当面はありません。

I am now slowly phasing over to https://jovianreviews.com. This site will continue to be updated on a regular basis for the time being.

『 初恋 』 -粗が目立つ意欲作にして珍作-

初恋 50点
2020年3月1日 MOVIあまがさきにて鑑賞
出演:窪田正孝 大森南朋 染谷将太 小西桜子
監督:三池崇史

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200301183227j:plain
 

ラプラスの魔女 』をはじめ、多くの奇作・珍作を作ってきた三池監督。本作もやはり、珍品であった。

 

あらすじ

新進気鋭のボクサー葛城レオ(窪田正孝)は、格下相手にラッキーパンチをもらいKO負け。病院行きとなってしまった。その病院で脳に腫瘍があり、余命幾ばくもないと告知されてしまう。自暴自棄になっていたところ、レオは夜の街で薬物依存症の娼婦モニカ(小西桜子)と巡り合う。それにより、レオはヤクザや刑事、中華マフィアをも巻き込んだ騒動の渦に否応なく巻き込まれていく・・・

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200301204745j:plain
 

ポジティブ・サイド

窪田正孝は意外にボクシングの型ができている。試合のシーンでも左フックのダブルトリプルを見せたが、これは鬼塚勝也の得意技だった。ボクサーにフィーチャーした映画は色々あるが(『 あゝ荒野 』を早く鑑賞せねば・・・)、左オンリーのコンビネーションはかなり珍しいように思う。この一瞬のシーンを撮るためだけに、かなりの鍛錬を積んできたことが伺える。一瞬、角海老が映っていたように見えた。角海老と言えば坂本博之坂本博之と言えばvs畑山隆則。レオが素手で格闘するシーンは、坂本vs畑山、あるいは吉野弘幸vs金山俊治のような“熱”が確かにあった。

 

染谷将太のヤクザ役はそれなりに堂に入っていた。チンピラ的な小物オーラから殺人を厭わない冷酷無比な暴力男の顔まで、硬軟自在に演じていた。予告編のパープリンな顔に騙されてはならない。『 君が君で君だ 』で向井理がヤクザ役を演じて新境地を拓いたように、また『 ザ・ファブル 』でも安田顕がヤクザを好演したように、少々伸び悩みやキャリアのプラトーにある役者がヤクザを演じるのは、良い転換になるのかもしれない。

 

中華マフィアの存在や暗躍にも説得力がある。『 ギャングース 』でも中華料理屋が中華マフィアの隠れ蓑になっていたが、これも日本の国力の衰えが顕著になっているひとつの証拠か。中国人が高倉健の“仁”に魅せられるというのも面白い。任侠は元々は古代中国に起源を持つとされているが、文化は辺境に残るものなのだ。ヤクザという非常に暗く狭い領域にも、高齢化以上にグローバル化の波が訪れている。外圧である。非常に屈折した形ではあるものの、これは三池監督流の日本へのエールであろう。そのことは終盤の「日本車を信じろ」という一言にも端的に表れている。

 

終盤のチャンバラも迫力十分。剣戟と言えば昭和の頃のVシネ任侠映画のクライマックスと相場が決まっていたが、北野武あたりから一方的な銃撃戦になってきた(それも非常に乾いた世界観にマッチしていて悪くなかったが)。やはりヤクザの喧嘩の華は昔も今もチャンバラなのである。

f:id:Jovian-Cinephile1002:20200301204221j:plain
 

ネガティブ・サイド

ベッキーの怪演が凄い!という評判が先に立っていたが、Don’t get your hopes up. 『 ディストラクション・ベイビーズ 』の小松菜奈の切れ具合と同程度では?あるいは本格的な役者ではないが、半狂乱を超えた全狂乱でヒール街道をひた走ったこともあるWWEのマクマホン家の娘、ステファニー・マクマホンの方がよほど迫力と凄みがあった。目を見開いてバイオレンスなアクトをすれば怪演・・・というわけではない。ギャップによる意外さはあっても演技として格別に優れていたとは感じられなかった。

 

ストーリーの上で、レオが天涯孤独であるということにいまひとつ必然性を感じられなかった。別に両親が離婚して施設に預けられたでも、小さなころに両親と死別したでも、なんでもよかった。生まれてすぐに捨てられた、だから親の顔も何も知らない。そのことがレオというキャラクターの性格にも天性のボクシングセンスを持っていることにも関連がない。つまりはキャラが立っておらず、薄いのである。冒頭でレオに取材に来る記者も笑わせる。人気のコラムのタイトルが「あしたのチャンピオン」とは、いかにも漫画『 あしたのジョー 』の「明日のために」をパロった、あるいはパクったものだろう。どうせパクるなら「熱病的観戦法」のような、一般人にはさっぱりでも古くからのボクシングファンならば思わずニヤリとしてしまうようなものにすれば良いのにと思う。作りが無難なのだ。

 

これは一種のファンタジー映画なのでリアリティ云々は興ざめであることは自覚している。それでも言わねばならない。

 

血は水では洗い落とせない!ボクサーであるレオがそれを知らないはずはない。いや、血ほど布から落ちにくいものはないというのは、鼻血でも何でもいいので、とにかく血を福に垂らしてしまった人ならば誰でも知っていることだろう。冷水シャワーを浴びて、肌はまだしも、衣服からもきれいに血の跡が消えてしまうのは不自然極まりない。

 

中華マフィアが使う刀剣が大刀(巷間言われる青龍刀)ではなく日本刀というのも疑問符である。確かに高倉健を憧憬する中国人女性は出てくるが、ポン刀を使う中国人はそこまで高倉健ファンではなかっただろう。せっかくの迫力あるチャンバラシーンなのだが、これが青龍刀と日本刀の戦いなら、もっともっと絵的に映えたように思えてならない。

 

最大の問題点は「日本車」である。日本車の性能云々ではなく、その描写である。本作は一種のファンタジーであるが、クライマックスで一挙に漫画、それもギャグマンガの域に到達する。三池監督でなければ「は?」となるが、三池監督なので「ま、ええか」となる。これは決してポジティブに評価しているわけではない。匙を投げているのである。

 

プロットもまんま『 ガルヴェストン 』である。死の宣告を受けた男が、娼婦を連れて逃避行に出る。そして行く先々でイザコザが起きる。ほら、『 ガルヴェストン 』でしょ。もうちょっとオリジナル要素を入れるべきだ。モニカが離脱症状(いわゆる禁断症状)で見てしまう幻覚にも、ギャグ要素は不要である。ホラーのテイストをそのまま保てばよかった。幻覚に怯えるモニカに目の前で渾身の右ストレートを一閃。そのあまりの鋭さに幻覚が霧散。生身の人間のパンチに宿る威力を思い出して、離脱症状に苦しむときにもそのパンチを思い出して、自身を奮い立たせる。モニカにそうした描写があればよかったが、ない。そして、『 ガルヴェストン 』のオチと同じオチが本作にも訪れる。って、ちょっとは捻らんかいな・・・

 

総合的に見て同じ東映でも『 孤狼の血 』にかなり劣る。一部にかなりのバイオレンス描写があるが、韓国映画の『 The Witch 魔女 』や『 ブラインド 』の暴力描写にも負けている。まあ、近年の三池クオリティの作品である。

 

総評

突出して面白いわけではないが、どこをとってもダメというわけでもない。とにかくオリジナリティがない。一部の役者の熱演に支えられてはいるが、かえってそのことが作品全体のトーンから一貫性を奪っている。ただし、映画を事細かにexamineしてやろうという目で見なければ、そこそこに楽しめる作品になっているのではないだろうか。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Yakuza don’t belong in the sun.

「ヤクザに朝日は似合わねえ」というセリフの私訳。ヤクザはinternational languageでyakuzaとなり、これは単複同形である。受験英語ではしばしばbelongと来たらto、と教えるようだが、This belongs in a museum. (これは美術館に所蔵されるべきだ)だとか、あるいはテイラー・スウィフトの“You Belong With Me”のように、belongの後にto以外の言葉を自然につなげられるようになれば、英語の中級者である。

現在、【英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー】に徐々に引っ越し中です。こちらのサイトの更新をストップすることは当面はありません。

I am now slowly phasing over to https://jovianreviews.com. This site will continue to be updated on a regular basis for the time being.