Jovian-Cinephile1002’s blog

古今東西の映画のレビューを、備忘録も兼ねて、徒然なるままに行っていきます

『 シークレット・スーパースター 』 -母と娘の織り成す極上の人間ドラマ-

シークレット・スーパースター 80点
2019年8月19日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:ザイラー・ワシーム メヘル・ビジュ アーミル・カーン
監督:アドベイト・チャンダン

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アーミル・カーンが出演だけではなく製作も手掛けた作品。何故にこのような作品が100館規模で上映されないのか。日本の配給会社に勤める方々に真剣に考えて頂きたいものだ。最近のインド映画は意図的に歌と踊りを減らしつつあるが、そのことが彼の国の映画のエンターテインメント性やメッセージ性を些かも減じていない。ということは、それだけ映画製作に関して確固たるポリシーとノウハウを有しているのだろう。極東の島国の住民としては羨ましい限りである。

 

あらすじ

インドの片田舎に住むインシア(ザイラー・ワシーム)は、いつかインド最大の音楽賞であるグラマー賞の獲得を夢見る少女。だが頑迷固陋な父親は彼女の夢を決して肯定しない。ある日、インシアはブルカを纏って顔や体を隠して、“シークレット・スーパースター”というハンドルネームで自分の歌をYouTubeに投稿した。動画は爆発的にヒットし、インシアはお騒がせ作曲家のシャクティ・クマール(アーミル・カーン)の目にも留まり・・・

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ポジティブ・サイド

頑固な娘とそれを見守る母親という構図は『 レディ・バード 』そっくりである。しかし、そこに厳格すぎる父、というよりも田舎(という閉鎖社会)の悪しき因習、価値観、行動原理などをすべて体現してしまったような父親が加わるだけで、サスペンスとヒューマンドラマの要素が倍増した。なぜなら、インシアやその母ナズマは父親そして夫という一人の人間に闘争を挑むのではなく、その先にあるインドという国が抱える男尊女卑的な思想や体制に挑戦しているからだ。暴君然として振る舞う父親に我々は嫌悪感を抱く。そして、誰かこの男を思いっきり懲らしめてやってくれと願ってしまう。だが、物語は安易にそれをしない。凡百の脚本ならば、アーミル・カーン演じるシャクティ・クマールをこの父親と対峙させて、娘の才能を自分に託すように言わせてしまうかもしれない。もしくは、エクストリームにアホな展開にしてしまうなら、シャクティに「俺はちょうど離婚が成立した。だから、お前の嫁は、娘ごと俺が頂く」と言わせてしまうことも考えられる。しかし、それでは意味が無い。本作は、この母と娘の自立への旅路をある意味では非常にコメディックに、また別の意味では非常にポリティカルに描き出す。以下、ネタばれ。

 

シャクティの嫁さん側の弁護士に頼ろうという発想が面白い。笑えてしまう。だが、インシアのこの発想は、単純にfunnyなだけではない。彼女が目指すのは、因習の打破。だが、それは非常に強固に人々の内側に根を張っている。それを壊す、あるいは超えるために民主主義的に成立したルール、法律に則るというのは現実的かつ現代的である。象徴的なのは空港のシーン。当たり前のことだが、暴君である父親も、飛行機に積み込める荷物の重さや数の制限には従うのである。法律やルールを最大限に利用して、母と子どもたちが自由の身になるシークエンスのカタルシスは筆舌に尽くしがたいものがある。

 

それにしても、主演のザイラー・ワシームは『 ダンガル きっと、つよくなる 』の姉妹の姉のギータだったのか。確かにどこかで見た気がしたわけだ。立派に成長しつつあるが、見る角度によってはJovian一押しのヘイリー・スタインフェルドにちょっと似ている。奇しくもヘイリーもザイラーもギター少女。What an amazing coincidence! ヘイリーのファンは『 はじまりのうた 』を観るべし!そして母親役は『 バジュランギおじさんと、小さな迷子 』でも、ムンニーの母親を演じていた。娘のためにあらゆる手を尽くそうとする姿勢には純粋に心を打たれるばかりだ。

 

Back on track. ザイラー演じるインシアは感情の起伏が激しく、中盤まではやや感情移入しにくいキャラクターだった。だが、それも終盤手前で明かされるある出来事の真相によって、彼女が受けるショックの大きさを逆説的に表すための布石なのである。なぜ『 旅猫リポート 』は、こうした劇的な演出ができなかったのか。『 パッドマン 5億人の女性を救った男 』や『 ダンガル きっと、つよくなる 』でも顕著だったが、女性に生まれる、そして女性を産むということがインド社会ではこれほどの重しになるのかと驚嘆させられ、また慨嘆させられる。そうした社会の悪弊を打ち破ろうとするインシアの物語のクライマックスは、まるで昨年(2018)のアカデミー賞を受賞したフランシス・マクドーマントのようであった。何というカタルシスであることか。

 

本作は単なる女性救済の物語ではない。男性のあるべき姿についても大いなる示唆を与えている。かといって、典型的な、紋切り型のヒーロー像ではなく、極めてユニークな男性像である。それぞれインシアの同級生、インシアの弟、そしてアーミル・カーン演じる音楽家である。健気さを読み取る人もいるだろうし、優しさを読み取る人もいるだろう。あるいは気高さを見出す人もいるかもしれない。男として彼らの姿に何かを感じ取らない者は、よほどの完璧超人か、あるいは鈍感を極めたダメ男かのいずれかであると断言させていただく。そうそう、インシアと同級生のチンタンはパスワードについてとあるやり取りを行うが、類似のあるいは模倣のシークエンスが、今後日本の少女漫画の映画化作品でちらほら見られると予想しておく。このシーンではJovianの脳裏では『 ロマンティックが止まらない 』と『 ロマンティックあげるよ 』の両方が流れた。我ながらオッサンだなと実感してしまう。

 

ネガティブ・サイド

インシアがYouTubeに投稿する動画は、もう数本あってもよかったのではないか。最後の最後にアーミル・カーンが歌と踊りで大いにエンターテインしてくれるとはいえ、本作は思ったよりも歌の成分が少なめである。もう少し、このギータ・・・、ではなくギター少女の音楽活動を鑑賞したかった。

 

また、アーミル・カーンが本格的に物語に絡んでくるのに、かなりの時間を要する。この不世出のスーパースターの登場を映画ファンは楽しみにしているのだから。出し惜しみはよろしくない。インターバルのタイミングと併せて、ストーリー進行のペーシングをもう少し速めても良かったのではないか。

 

総評

シネ・リーブル梅田はお盆期間中から連日の満員御礼である。エンドクレジット終了後には「いよっ!」という掛け声、口笛、拍手がごくわずかだが発生した。これは『 カメラを止めるな! 』以来である。娯楽性とメッセージの両方をハイレベルで追求した傑作である。上映してくれる箱の数は少ないが、是非とも多くの方に鑑賞頂きたいと思う。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

Keep it up.

アーミル・カーンが序盤で言うセリフである。意味としてはKeep up the good work. とほぼ同じと考えていい。今後もグッジョブを続けて欲しい相手に言おう。

 

Can I have a window seat?

これはインシアが空港で言う台詞。Can I have ~? で飲食物の注文から、相手の名前や住所、電話番号、メールアドレスなどの contact information まで、何でもリクエストが可能である。

 

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『 イソップの思うツボ 』 -このようなアンフェアな演出や伏線を許すな-

イソップの思うツボ 45点
2019年8月16日 東宝シネマズ梅田にて鑑賞
出演:石川瑠華 井桁弘恵 紅甘
監督:浅沼直也 上田慎一郎 中泉裕矢

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カメラを止めるな! 』や『 お米とおっぱい。 』の上田慎一郎が満を持して(かどうかは分からないが)世に送り出す作品ということで、期待はあった。一方で、上田監督の才能を最も活かせるのは、こじんまりとした映画であるという印象を抱いているのも事実である。果たして本作はどうか。上田監督らしさはあるものの、フェアかアンフェアかで、かなり意見が割れるところであろう。

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あらすじ

内気な女子大生の亀田美羽(石川瑠華)は、学校で独りだった。一方でクラスメイトの兎草早織(井桁弘恵)は家族そろって芸能人。仕事も順風満帆で、恋愛にも積極的だった。接点のなさそうな二人であったが、ある日、新任講師が講座を担当することがきっかけて・・・

 

以下、ネタばれや他作品に関する記述あり

 

ポジティブ・サイド

石川瑠華という役者のポテンシャル、それをまずは評価したい。はっきり言って演技が上手いかどうかで言えば、「下手ではない」というレベル。けれど、母親が心配そうに、それでいてどこか嬉しそうに見つめるのは、この娘の表面に見える弱さや脆さ、儚さの奥深くに芯の強さが潜んでいることを見抜いているからだろう。そう感じられる母娘のやりとりは、非常に説得力のあるものだった。彼女のハンドラーは少女漫画の映画化作品に端役で登場させてやって欲しい。浜辺美波森川葵らから、何かを学び、才能を開花させるかもしれない。頑張れ~!

 

井桁弘恵。かわいい。以上。

 

紅甘。2017年にシネ・リーブル梅田で鑑賞した『 光 』に出ていた。島の少年がじいさんからコンドームを手に入れ、猿のようにセックスに耽る相手。山中でおっさん相手に立位でセックスしながら、カメラ(少年)に向かってアンニュイな表情を見せるシーンが印象的だった(芸術的な意味で)。

 

ネガティブ・サイド

【予測不能!】、【騙されてほしい!!】などの惹句は逆効果である。というよりも、一部のハードコアな映画ファンやミステリファンにとっては有害ですらある。『 マスカレードホテル 』のレビューでも指摘したが、ミステリファンという生き物は、あらゆる媒体から情報を引き出し、事前に推理を組み立てるのである。ましてやカメ止めの上田慎一郎。ドンデン返しの存在を予想するのは容易い。我々の興味関心は、どのようにしてひっくり返すのかである。その意味で、本作は終盤のドンデン返しが弱い。というよりも、それほどひっくり返らなかった。まあ、初打席で場外ホームランを飛ばしてしまうと、二打席がきれいなセンター前ヒットでも、物足りなく感じてしまうようなものである。

 

本作にはフェアな伏線とそうではない伏線がある。アンフェアな伏線の最たるものは、『 シックス・センス 』的な演出を使わなかったことである。具体的に言えば、母と娘がしっかりと会話を交わしながらも、母親は何にも触れない、何も動かさないという描写をしなかったことである。これは酷い。ここから何かを読み取れというのは無理だし、アンフェアである。Misleadingを誘うのは別に構わない。というか、『 ユージュアル・サスペクツ 』以降、我々は足を引きずって歩くキャラを見るたびに身構えるようになってしまった。『愚行録 』の妻夫木聡然り、『 ブレス あの波の向こうに 』のエリザベス・デビッキ然り。だから、観る側が勝手に早合点したり読み違えたりするような思わせぶりな描写は許容できるのだ。しかし、終盤の種明かしで「あのシーンの真相はこれで御座い」と言われても、このようなアンフェアな描写ではブーイングしか飛ばせない。「好きな人、できた?」という母の台詞に、「お母さん、大好きだよ」ぐらいの台詞を返しておけば、まだ許せた。このような演出や描写は心底から許せないと思う。観る側をびっくりさせたい、予想を裏切ってやりたいという思いが完全に空回りしたとしか判断できない。

 

一応、フェアな伏線にも触れておくと、美羽の行動の全てである。特に、兎草早織たちと新任講師の会話を淡々と撮影し続ける美羽にかなりの人が違和感を覚えた/覚えることだろう。また、イソップと聞けばたいていの人は「ウサギとカメ」の寓話を思い浮かべるはずだ。だから美羽が早織を追い越すというか出し抜くプロットであることは観る前から分かる。そして、カメ、ウサギ、イヌがロープで縛られているショット。誰かが彼女らを罠にかけることが示唆されている。ウサギとカメ(とイヌ?)の競争をだが、中途半端にフェアな伏線が張られていることで、アンフェアな伏線、さらには非現実的な要素がかえって目立ってしまう。以下、特に気になった点を箇条書きにする。

 

芸能人のマネージャーになるに際して、身辺調査はないのか。

兄が大学講師であるにしても、どのようにしてドンピシャのタイミングでドンピシャの講座をゲットしたのか。

医師が袖の下をもらってトリアージの判断を変えるか。得られるカネよりも、医療訴訟のリスクの方が遥かに大きいだろう。

そもそも売れっ子芸能人と、どのようにして不倫関係となり、ベッドインしたのか。それがマスコミに一切すっぱ抜かれなかったのはご都合主義でないか。

亀田家はいつ、どこで、どのようにして銃の扱いに習熟したのか。

 

その他、とっくに『 インシテミル 』で使われたネタをドンデン返しの一部にしてしまうなど、新鮮味にも欠けたし、あるキャラの関西弁の不自然さには辟易させられた。方言が下手なのは許せる。しかし、変であることは許されない。総じて、リアリティに欠けるし、2パート目と3パート目もつながりが著しく弱い。本当に観る者の度肝を抜きたかったのであれば、似非関西弁のヤクザの下に濱津隆之演じる日暮隆之監督を連れてくればよかったのだ。そうすれば劇場のボルテージは一瞬で最高潮に達したことだろう。

 

総評

劇場鑑賞するに当たって最も重要なことは、過度な期待を抱かないことである。一部に「ほほう」と感じられるtwistもあることはあるが、アンフェアな伏線の張り方、演出の方が遥かに多い。兎にも角にも、期待に胸躍らせないように。本作を何らかの形で堪能できたという向きには、サウンドノベルの『 街 運命の交差点 』と『 428 封鎖された渋谷で 』をお勧めしておきたい。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

 

「 復讐・・・完了 」

Mission … complete.

 

これ以外に思いつかない。

 

「マジ最低!!!」

You really do suck!!!

 

suckは定番。人でも物でも出来事でも、貶してやりたい時はまずはsuckでOK。

 

「好きな人、できた?」

Did you fall for someone?

 

fall for 誰それ = 誰それを好きになる。何でもかんでもloveを使うと少々重いし、バリエーションにも欠ける。

 

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『 ダンス ウィズ ミー 』 -看板に偽りあり-

ダンス ウィズ ミー 45点
2019年8月16日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:三吉彩花 やしろ優 宝田明
監督:矢口史靖

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マンマ・ミーア! 』のレビューで、Jovian個人が選ぶオールタイム・ベストのミュージカルは『 オズの魔法使 』と『 ジーザス・クライスト・スーパースター 』で、次点は『 ウエスト・サイド物語 』であると述べた。ミュージカルというジャンルは、まあまあ好みなのだ。なので、それなりに期待して本作に朝イチで突撃してきたが・・・

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あらすじ

大手商社に勤める鈴木静香(三吉彩花)は、ふとしたことからマーチン上田(宝田明)の催眠術によって、音楽を聴くと歌わずにはいられない、踊らずにはいられない体質になってしまった。街中でも職場でもレストランでも歌って踊ってしまう静香。なんとか催眠を解くために、いんちき催眠助手の千絵(やしろ優)と共にマーチン上田を追うが・・・

 

ポジティブ・サイド

いぬやしき 』で木梨憲武に散々ブー垂れていた女子高生が、わずかな歳月で立派なOLになっていた。女子も三日会わざれば刮目して見なければならないようである。本作の成功は、主役たる三吉彩花の歌唱力とダンス力にかかっている。その意味では、三吉はよく頑張ったと言える。自宅マンションのロビーではパンチラを厭わないスピンを披露し、「お、これは本物か?」と思わせてくれた。カメラ・オペレーターにも“Good job!”と言わせていただく。キム・ヨナが印象的だったが、やはり踊りそのものを魅せるには、スラリと手足が伸びた長身の方が有利である。三吉はまさに適材適所だった。

 

おそらく最も良い仕事をしたのは、やしろ優だろう。一人自家発電、一人自己啓発セミナーができそうなテンションの高さで、「ああ、俺もたまにはこれぐらいポジティブに人生送らなアカンな」と思わされた。彼女の前向きな姿勢に共感する、あるいは胸を打たれる視聴者は多いだろう。仕事にくたびれた社畜リーマンなどは特にそうではなかろうか。人生に疲れていると思うなら、やしろ優にエンパワーされようではないか。選曲も昭和全開なので、30代後半以上なら楽しめるはずだ。

 

ネガティブ・サイド

スウィングガールズ 』の矢口監督はどこに行ってしまったのか。この監督は音楽的なセンスがある人だったはずだ。あの、横断歩道の効果音でジャズのリズムを女子高生たちに感じ取らせる演出には感心したものだった。ならば、音楽を聴くと踊らずにはいられなくなるという体になってしまった静香を、もっともっと思わぬ形で躍らせ、観客をエンターテインしなくてはならない。ここでそう来るか、と感じたのは函館駅の時計ぐらい。それも踊らずに歌うだけ。それを見たムロツヨシが「マジか・・・」と絶句するが、別に衝撃を受けるシーンでも何でもないだろう。ちょっと変な奴だな。ぐらいにしか思わないはずだ。そうではなく、「え、こんなんでも踊っちゃうの?」というシーンが必要だったのだ。極端な例を挙げれば、心療内科を受診する際にMRIで撮影をされたが、そこで出る音にすら反応してしまうぐらいの極端な演出があれば、医師ももっと茫然自失して、匙を投げることができたはずだ。静香がちょっと困った女子にしか見えないのが問題なのである。本当に困っている状態から、旅をするうちに、歌って踊ってしまう体質によって、少しずつ人生を前向きに捉えられるようになっていく。そんなプロットが求められていたはずだ。本作にはそれが欠けていた。

 

その歌って踊って体質が役に立ったという演出も弱い。特にchay演じるギター女子とコラボして投げ銭を稼ぐというのは、アイデアとしては悪くないが、その歌と踊りのクオリティの低さゆえに、かえって作品の面白さを減じている。もっともっと、はっちゃけた歌と踊りが必要だった。思わずおひねりをあげたくなるような歌でも踊りでもなかった。本作のハイライトは、実はトレイラーに収められているオフィスで踊るシーン、そしてシャンデリアを空中ブランコにしてしまうレストランのシーンである。そこ以外に盛り上がらない。

 

いや、それはさすがに言い過ぎか。上でも述べたように、最も良い仕事をしたのはやしろ優であり、彼女の肉感的なダンスは確かに魅力的だった。しかし、ここにトーンの問題がある。容姿にも恵まれず、金銭的にも余裕が余りなさそうな千絵が元気いっぱい幸せいっぱいで、容姿端麗、高給取り(っぽい)静香が足取り重く、心持ちも暗いのだ。途中から、タイトルにある“ミー”とは誰を指すのかが分からなくなった。本作をミュージカルとして鑑賞しようとすると、こうした混乱が必然的に起こってしまう。本作を凸凹コンビによるバディ・ムービー、ロード・ムービーとして見るなら、普通にありである。だが本作は【 最高にハッピーなコメディミュージカル 】と銘打っている。看板に偽りあり、羊頭狗肉である。

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総評

本当なら35点をつけたいところだが、三吉彩花のスタイルの良さとやしろ優の好演で10点オマケしておく。これは韓国かアメリカでリメイクした方が、遥かに面白くなりそうだ。その場合は、『 サニー 永遠の仲間たち 』を手掛けたカン・ヒョンチョル監督か、『 ミッドナイト・サン タイヨウのうた 』や『 ステータス・アップデート 』のスコット・スピア監督にお願いしたい。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

 

「そもそもミュージカルっておかしくない?さっきまでフツーにしゃべってた人が急に歌いだしたりしてさ」

 

For crying out loud, aren’t musicals weird? You are talking, and the next thing you know you are singing!

 

For crying out loudは疑問やリクエストを強調するための表現。the next thing you knowで、「次の瞬間には」ぐらいの意味。こういう会話を逐語訳すると往々にして大失敗する。映画やドラマの台詞を訳そうと思うと、普通の参考書ではなく映画やドラマをたくさん参照しなければならないのだろう。

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『 東京喰種 トーキョーグール【S】』 -アクション爽快度アップ、メッセージ性ダウン-

東京喰種 トーキョーグール【S】 65点
2019年8月14日 梅田ブルク7にて鑑賞
出演:窪田正孝 山本舞香 松田翔太
監督:川崎拓也  平牧和彦

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前作『 東京喰種 トーキョーグール 』は非常に示唆的なメッセージに富む作品であった。何故、単に喰種ではなく東京喰種なのか。それを背景に考えれば、グールという存在が何を象徴しているのかが見えてきた。それでは、本作はどうか。エンターテインメント性はアップしたものの、そうしたメッセージ性は薄れてしまった。

 

あらすじ

半人間・半喰種になってしまったカネキ(窪田正孝)は、自分の居場所を模索しながら「あんていく」で働いていた。そこに美食家=グルメの異名を持つ月山習(松田翔太)という喰種が現れる。彼は半分人間であるカネキの匂いに異常な執着を示して・・・

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ポジティブ・サイド

CCG捜査官とのバトルよりも、喰種同士のバトルの方が盛り上がる。それは間違いない。月山とカネキ&トーカの激闘は赫子をあまり使わない、まさに肉弾戦。車がひっくり返って終わり、コンクリの橋に穴をあけて終わりだった前作のバトルシークエンスを、今回はさらに過激にレベルアップさせてきた。とにかく月山邸のチャペル内の椅子やら壁が壊れまくる。CGではなくワイヤーアクションでも、迫力ある絵は撮れるのである。かつての東宝怪獣のピアノ線での操演はもはやロストテクノロジーになってしまった。ワイヤーアクションもいつかそうなるかもしれない陳腐で旧態依然とした技術かもしれないが、CGは『 ライオンキング 』並みのレベルに達しないと、どうしても偽物感がつきまとう。それをぎりぎりまでそぎ落としてやろうと言う川崎・平牧両監督の意気は買いたい。

 

本作は、脚本段階からそうだったのか、それとも撮影中に軌道修正が施されたのか、主人公たるカネキではなく、松田翔太演じる月山習がsteal the showだった。近年では『 ボーダーライン 』がそうだった。エミリー・ブラントが主役だったはずが、ある時点からベニシオ・デル・トロがsteal the showをしてしまった。漫画版の貴族的な月山を表現する演技もそれなりに良かった。特に、フィクションの世界に惑溺することがいかに救いたりえるのかを語る場面や、サヴァランの書籍を恭しく差し出してくれるシーンが印象に残った。本のネタをエサにリゼに引っかかってしまったカネキが、同じ手口にまたもや引っかかってしまうのは、それだけ月山の演技が真に迫っていたからだと勝手に受け取らせてもらう。

 

だが、松田の真骨頂は月山の変態性を表す場面だ。手洗いでカネキの血液を含んだハンカチの匂いに恍惚の境地に至るのはハイライトのひとつである。普通、人はトイレで深呼吸はしない。しかし、それをやってしまうところが月山の普通ではないところで、それをしながらエクスタシーを感じているかのごとく、上半身をエビ反りさせてしまうのは、さすがに18禁・・・ではなくR-15指定である。冒頭の登場シーンでも、自己紹介からダンス、目玉をくりぬいて食べるところまで、松田の変態演技はとどまるところを知らない。本作の主役はカネキではなく月山である。異論は認めない。

 

前作は人間社会の中で喰種に居場所があるかどうかを問うていたが、本作では人間と喰種の個と個の関係が描かれる。これは漫画および映画の『 寄生獣 』が描けなかったテーマである。ただ、このあたりのメッセージ性が貧弱だった。これに近いテーマは小野不由美が『 屍鬼 』で既に描いているからだ。それでも、異人との共生は現代日本の主要な課題である。映画人は、エンタメ要素以外にも社会的なメッセージを発さなければならない。時代と切り結ぶような作品を生み出す気概を持たねばならないのである。

 

ネガティブ・サイド

カ  ネ  キ  の  マ  ス  ク  は  ど  こ  に  い  っ  た  カネキ自身も、ウタと再会して「あ、時々使ってます」みたいなことを言っていたではないか。ここぞという場面であれを装着しないことには、優男のカネキが野獣になれないではないか。格闘訓練を積んで、ただの人間をぶちのめすだけで満足してはならない。マスクを装用して、グールに内在する凶暴さを引き出さなくてはならない。トーカも同様で、グールの象徴たるマスクをまともにかぶっているのが月山だけでは、月山が主役扱いされてもおかしくはない。

 

トーカも、清水富美加から山本舞香にチェンジしたことそれ自体は受け入れよう。だが、似せる努力をしてほしい。キャラが変わり過ぎだ。たとえば前作で「人しか喰えねえんだ!!!」と憤怒と悲嘆の両方を目に宿しながら叫んだトーカはもういなかった。

 

本作はせっかくのR-15指定なのだから、エロ描写・・・じゃなかったグロ描写にもっと果敢に挑戦して欲しかった。両目を抉り出すシーンは肝心なところを映さなかったし、グールレストランでの人間解体ショーの描写も生ぬるかった。いや、血がピューピュー流れ出るような描写はなくてもいい。だが、せっかく美食家の月山の優雅な食事シーンを丹念に描写するなら、それら肉料理の調理シーンも映し出そうとは思わないのか。月山という一癖も二癖もあるグールを描くには、細部や周辺のリアリティまで追求しなくてならないとは思わなかったのだろうか。

 

リアリティについて付言するなら、いい加減に眼球の解剖を学んだ方が良い。人間のみならず生物の眼球には、様々に異なる筋肉がついている。そうでなければ、我々はこれほど自由に眼球を動かせない。また、冒頭のマギーの死亡シーンで、墜落音が小さすぎる。あれではせいぜい二階から落ちた音だ。それにそこらじゅうに飛び散っていて然るべき窓ガラスの破片が見当たらなかったのは何故だ。絵コンテ段階でも撮影中でも編集中でも、誰一人として気付かなかったのか。そんな馬鹿な・・・

 

総評

これも続編ありきの作り方をしている。三作目も監督が変わるのだろうか。もちろん、シリーズを追うごとに監督が代わっていく映画作品などごまんとある。しかし、前作をしっかりとリスペクトし、踏襲するところが踏襲する。大胆に変えてしまうべきは変えてしまう。そうしたメリハリをしっかりとつけてほしい。また、次作では窪田正孝には『 きっと、うまくいく 』の撮影に臨む前に徹底的に節制したというアーミル・カーン並みに若さを保ってほしい。前作を楽しめたという人なら、まずは鑑賞すべし。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

カネキくんが食べながらカネキくんを食べたい!

I want to eat you, Kaneki-kun, while you, Kaneki-kun, are eating!

 

カネキくん!君はもっと自分が美味しそうなことに気づいたほうがいい!

Kaneki-kun! You should at least know by now how delicious you smell!

 

日本語を英語に置き換えるのはなかなか骨が折れる作業である。しかし、英語力を高めたいと思うなら、どこかの時点で日英翻訳のトレーニングが必要である。逐語訳は、してはならない。これまでに自分が接してきた英語のフレーズやセンテンスを総動員して、最も原文に近い意味を自分なりにクリエイトしてみよう。

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『 あなたの名前を呼べたなら 』 -ほろ苦さ強めのインディアン・ロマンス-

あなたの名前を呼べたなら 70点
2019年8月14日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:ティロタマ・ショーム ビベーク・ゴーンバル
監督: ロヘナ・ゲラ

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原題は Sir である。インドは国策として映画作りを推進しているが、だんだんとインド特有の歌や踊りを減らしていくという。個人的にそれはつまらないと感じるが、グローバルなマーケットで売ろうとするためには、柔軟さも必要か。本作はそうした、ある意味ではデタラメなパワーを持つインド映画らしさではなく、普通に近い技法で作られたインド映画なのである。

 

あらすじ

建設会社の御曹司アシュヴィン(ビベーク・ゴーンバル)は挙式目前。しかし、婚約者の浮気が発覚し、結婚は破談した。通いのメイドのラトナ(ティロタマ・ショーム)は、そんなアシュヴィンに甲斐甲斐しく尽くす。彼女には夢があった。いつかファッションデザイナーになり、自立した女性となる夢が。だが、彼女は19歳で結婚した身。今は未亡人でも、新たな恋愛や結婚は因習的に許されない。いつしか惹かれ合い始める二人だが・・・

 

ポジティブ・サイド

とてもとても静かな立ち上がりである。アシュヴィンとラトナの間に恋愛感情が芽生えることは誰もが分かっている。そのbuild-upをどうするのかが観る側の関心なのであるが、ロヘナ・ゲラ監督は淡々と二人の日常生活を描いていくことで、二人の間の距離感を丁寧に描写していく。食事のシーンが好例である。ラトナがアシュヴィンに供する食事は、どれも一皿に一品で、ナイフとフォークで食するようなものばかりである。一方で、自分がとる食事は大皿にナンや野菜や鶏肉などを全て乗せた、いわゆるインド的なカレーであったりする。この対照性が二人の距離である。

 

だが、二人には共通点もある。ラトナはファッションデザイナーになるという夢があり、将来は妹とともに独立して自分たちの力でビジネスを営みたい。そのために妹の学費を自らの稼ぎから工面している。一方でアシュヴィンはアメリカに留学し、ライター稼業をしていたが、兄の死によって自らが事業継承になるためにインドに帰国してきた。つまり、ラトナもアシュヴィンも、本当の意味での自己実現を果たしているわけではないのである。全くとなる背景を持つ二人であるが、自分にはどうしようもない事情で現在の自分があることを受け入れている。だからこそアシュヴィンはラトナが仕立て屋に通うことや裁縫学校に行くことを快く承諾してくれるし、ラトナはアシュヴィンに執筆業への回帰を促す。それが互いへの思いやりであり配慮である。そのことが、しっかりと伝わってくる。安易にさびしさに負けて、なし崩し的にキスからベッドインなどという展開にはならない。しかし、二人が互いに秘めていた想いを一瞬だけ露わにするシーンは、見ているこちらが緊張するほどぎこちなく、それでいて甘く、激しい。近年のラブロマンスにおいては、白眉とも言えるシークエンスである。

 

ラストシーンが残す余韻も素晴らしい。終わってみれば「なるほどね」なのだが、この一瞬のために、ここまでドラマを積み上げてきたのかと得心した。そのドラマとは、ラトナの精神的、そして経済的な自立への旅路であり、アシュヴィンにとっては家族、そして友人関係のしがらみからの解放への旅路でもある。そして、二人はインドの因習からの独立を目指す同志でもあるのだ。使用人とその主人という縦の関係を、水平的な関係に転化させる一言を絞り出すラトナの表情に、我々は心の底から祝福のエールを送りたくなるのだ。

 

アシュヴィンを演じたビベーク・ゴーンバルはアメリカ帰りという設定ゆえか、非常に流暢な英語を操る。彼の台詞のかなりの割合が、非常にスタンダードな英語なので、英語悪習者の方は、ぜひ彼の台詞に耳を傾けて欲しい。本作の感想ではないが、インド人はそこそこの割合で英語を話せる。また、人口の結構な割合の人々が英語を聞いて理解できると言われている。確かに『 きっと、うまくいく 』の講義は英語だったし、『 パッドマン 5億人の女性を救った男 』でも、ラクシュミは英語を話すのは苦手だったが、リスニングはできていた。英語の運用能力を持つことがそれなりのステータスであるという点で、日本はインドとよく似ている。しかし、インドにおいて英語力というものは、おそらく運転免許証のようなものなのだと推測する。なくてもそこまでは困らないが、だいたい皆が持っている。そういうことである。

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ネガティブ・サイド

アシュヴィンのone night standは必要だったのだろうか。別にこのシーンがなくとも、ストーリーはつなげられるように感じた。もちろん、結婚が破談になったアシュヴィンが人肌恋しく思うのは理解できるが、その相手をバーで調達してしまうというのは、あまりにも安易ではないか。また、ラトナに「彼女はもう帰ったのか」と尋ねるのもいかがなものか。自分が求めているのは刹那的な関係ではなく、長期にわたって真剣に互いを高め合える、あるいは補い合えるような関係であると気付くのであれば、破談になった相手との関係を振り返る、あるいはアシュヴィンの姉や友人に劇中以上にそのことを喋らせれば良かった。このあたりはゲラ監督とJovianの波長は合わなかった。

 

もう一つ。アシュヴィンが最初からあまりにも物分かりの良いご主人様で、少々ご都合主義のようにも感じられた。召使いとして甲斐甲斐しく恭しく使えるラトナは、メイド仲間の愚痴を聞くシーンが何度か挿入されるが、その仲間の愚痴がことごとくアシュヴィンに当てはまらないのだ。そうではなく、仲間が愚痴ってしまうようなシチュエーションが自分にも訪れた時に、主人であるアシュヴィンがどのように反応するのか、そうした展開があってこそ、ハラハラドキドキ要素がより一層盛り上がるというものだ。それが無かったのは惜しいと言わざるを得ない。

 

総評

静かな、大人のラブストーリーである。韓国ドラマのように、互いが互いを想いながらも絶妙にすれ違う展開にイライラさせられることはなく、むしろ近くて、けれどなかなか縮まらない距離感をじっくりと鑑賞できる構成である。そこにインド独特の因習や女性蔑視への眼差しもあるのだが、決してそれらに対して批判的にならず、そうした障害を乗り越えていく予感を与えてくれる作品である。

 

Jovian先生のワンポイント英会話レッスン

アシュヴィンが友人からの誘いに対して“Rain check?”と返す場面がある。これは野球の試合が雨天順延になった時に、rain check=再試合のチケットを受け取ることから、「別の機会にまた誘ってくれ」という意味で使われる表現である。主に北米=野球が行われる地域でしか通用しない。なので、オーストラリアやニュージーランドの人間に使うと「???」と返されることがある。アシュヴィンのアメリカ帰りという設定、そして野球にちょっと似ているクリケットが盛んなインドのお国柄を考えてみると面白い。ちょっとした慣用表現の向こうに、様々な世界が見えてくる。同表現は『 パルプ・フィクション 』でJ・トラボルタも使っている。

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『 存在のない子供たち 』 -大人たる者、傍観者になることなかれ-

存在のない子供たち 90点
2019年8月13日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:ゼイン・アル・ラフィーア
監督:ナディーン・ラバキー

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レバノン 判決、ふたつの希望 』は紛れもない大傑作であった。事実、Jovianは2018年の最優秀外国映画に選ばせてもらった。では、同じくレバノン発の本作はどうか。こちらも年間最優秀映画級の超良作であった。

 

あらすじ

ゼイン(ゼイン・アル・ラフィーア)は身分証明のない推定12歳の男の子。当然、学校に行くこともできず、スラムで日銭を稼がされる日々を送っている。ある日、まだ年端もいかない妹が結婚させられてしまう。それに反発したゼインは街を飛び出し、ふとしたことから知り合ったエチオピア移民の女性ラヒルとその乳飲み児ヨナスと共に暮らすことになるが・・・

 

ポジティブ・サイド

まず、本作を観ている2時間超の時間のほとんど全てがリアルなドキュメンタリーに感じられた。いや、ドキュメンタリー映画でもスクリーンの外側には、音響や照明、カメラ・オペレーター、監督その他が存在する。本作は、まさにレバノンのスラム街をリアルに切り取ったドキュメンタリーにしか見えなかった。ゼインというキャラクターが本当に存在し、脚本通りの演技をしているのではなく、彼自身の日常を表現しているようにしか思えなかったのだ。不自然な、つまり演出上の光や音響を極力排し、レバノンという国の暗部を隠すことなく映し出しているのである。

 

原題はCapharnaum、英語ではChaosの意、日本語ならば“混沌”とでも訳せようか。随所にスラムを俯瞰するショットを挟み、いかにスラム街が入り組んでおり、混沌とした空間であるのかを観る者に想起させる。本作が世に問うテーマは至ってシンプルである。子供を不当に苦しめるなということである。我々は自分で選択してこの世に生まれてきたわけではない。知らないうちに世界に投げ出されている。近代ドイツ哲学者のハイデガーの言葉を借りれば、「被投性」である。ゼインは知らぬ間にレバノンのスラム街に生まれ、知らぬ間に労働に従事させられている。ゼインはそこで必死に生きている。彼は自分自身を常に「投企」している。彼は12歳とは思えない度胸と知恵、行動力を持っている。しかし、悲しいかな、身体も頭脳も子どもであり、致命的なことに身分証明を持っていない。この物語はゼインの存在証明を求める闘争でもある。

 

物語前半のゼインは、自らが生き抜くために奮闘する。だが、物語後半でラヒルが不法移民として拘束されてしまうと、物語は一転、『 火垂るの墓 』となる。つまり、子どもが子どもを育てようとする物語に変貌する。かの作品のキャッチコピーは「4歳と14歳で生きようと思った。」であった。だが、ゼインは推定12歳、ヨナスは推定12~13カ月の乳幼児。これでどうやって生きて行けと言うのか。ゼインがあらゆる手段でヨナスを世話し、食べさせていこうとすることに胸が潰れた。息を飲まずにはいられなかった。物語冒頭で初潮を迎えた妹に、それを隠すようにてきぱきと指示を出すゼインは、生活力という言葉だけでは説明がつかないほどのサバイバル能力を有している。そして、密造酒ならぬ密造ドラッグでカネを稼ぐ様には、喝采さえ送ってやりたくなってしまう。『 火垂るの墓 』の清太は火事場泥棒を働いたが、生活力に関してはゼインの方が一枚上手と認めざるを得ない。

 

子どもが生きていく。子どもが子どもの世話をする。子どもに関わらず結婚させられ、適齢期でもないのに妊娠させられる。そうした現実が存在することの重さに、無力感を覚える。しかし、無力感を覚えてはならないのだ。我々にできること、すべきこと、してはならないことが諸々あるのだ。物語は最後に大きなどんでん返しを用意する。ゼインのマグショットを撮影するシーンと思わせて、それは身分証明書用の写真を撮影するシーンなのだ。この時にゼインが初めて見せる子どもらしい表情、すなわち曇りのない笑顔に、心臓を握りつぶされるほどのショックを受けた。大人が大人であることの証明、それは「子どもが屈託のない笑顔を見せることができる」、そんな世界を用意することだ。傍観者になっていて、どうするのだ。それがJovianがラバキー監督から得たメッセージである。ジアド・ドゥエイリ監督といい、ラバキー監督といい、何という作り手であることか。

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ネガティブ・サイド

人身売買男アスプロはお縄を頂戴しないのか。法廷で自らの罪状を告白し、刑に服さないのか。ゼインの両親やアサードだけではなく、この男もしょっぴかなければこの物語は閉じないと思われる。

 

両親が検事に言い返すシーンも不要だったのではないか。新しい子どもに何らかの希望を託したいという、その一瞬の想いまで否定するには、ゼインの両親の叫びは悲痛に過ぎた。『 焼肉ドラゴン 』にもあったシーンだが、子どもを授かった瞬間の気持ちまで否定するのは、観る側の精神に相当以上のダメージを与える。子どもの名前を否定するぐらいで良かったと個人的には思う。

 

総評

これは年間ベスト作品である。ベスト級ではなくベストである。まだ2019年は4ヶ月半を残しているが、それでもそのように断言させていただく。レバノンに手を差し伸べなくてはならないわけではない。しかし、保育園や幼稚園がうるさい。公園で遊ぶ子どもが邪魔だ。そんな気持ちを抱いてしまった時に、まず“子供たちの存在”に思いを馳せようではないか。大人にとって子供たちの笑顔以上に優先されるべきものなどないのだから。

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『 ブレス あの波の向こうへ 』 -青春&サーフィン映画の佳作-

ブレス あの波の向こうへ 70点
2019年8月13日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:サイモン・ベイカー エリザベス・デビッキ
監督:サイモン・ベイカー

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嫁さんは以前はTVドラマ『 リゾーリ&アイルズ ヒロインたちの捜査線 』にハマっていた。そして今は『 メンタリスト 』の最終シーズンおよび『 グッド・ワイフ 』を鑑賞中である。サイモン・ベイカーを映画で観るのは『 プラダを着た悪魔 』以来だろうか。『 メンタリスト 』のリズボンといつか映画で共演を果たしてほしい。

 

あらすじ

やや内気な少年パイクレットは無鉄砲なルーニーと、危険を顧みずに遊びまわっていた。ある日、彼らは海でサーファーたちが波に乗るのを見て、えもいわれぬ感覚に襲われる。自分たちもサーフィンをしてみたいと思い立った彼らは、サンドー(サイモン・ベイカー)とその妻イーヴァ(エリザベス・デビッキ)と知り合う。サンドーに導かれ、彼らはどんどんとサーフィンに魅せられていくが・・・

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ポジティブ・サイド

BGMを極力排して、風の音、潮騒、鳥の鳴き声などのオーガニックな音を聞かせようとするところが、『 君の名前で僕を呼んで 』とよく似ている。オーストラリアと言えば砂漠のイメージが強いが、一切はグレート・バリア・リーフのように海も巨大な観光資源になっている。大自然と言えば、夏。夏と言えば山か海が定番である。オーストラリアならば海だ。その海の波も、葛飾北斎の名画『 神奈川沖浪裏 』のような大波荒波である。その波の青と白を雄大な波音を交えてスクリーンいっぱいに叩きつけんばかりの勢いで映し出せば、大自然=wildernessの力強さがそのままこちらに伝わってくる。特に、何を海面下から見上げるショットは海の深さ、荒々しさ、激しさを伝える興味深いショットだった。

 

サイモン・ベイカーのオーストラリア英語を始めて聞いたように思うが、『 ボルグ/マッケンロー 氷の男と炎の男 』でスウェーデン語を話すステラン・スケルスガルドのように、本来の素の自分を出せていた。彼の演じるサンドーという男はミステリアスでセクシーでワイルドながらも、父親らしさがある。ルーニーとパイクレットの二人がある意味で飢えていた、人生におけるpositive male figureを巧みに体現していた。

 

そのルーニーは『 スタンド・バイ・ミー 』におけるテディ(コリー・フェルドマン)、または『 IT~"それ"が見えたら終わり~ 』におけるリッチー・トージアのようなクソガキで、確かに男というものは悪い奴、またはアホな奴とつるんでしまう時期というものがある。若気の至りや若気の無分別という言葉そのままに突っ走るルーニーは、愛せそうで愛せない、しかし憎むこともできない困ったキャラクターを存分に表現した。

 

主人公たるパイクレットは前半と後半でまるで違う人間になっている。つまり、少年から大人になったのである。子ども=労働と性から疎外された存在、という近代的な定義をこれまでにも何度か紹介したが、パイクレットが一夏の間に持つ性体験は、言葉そのままの意味で劇的である。同級生の良い感じの女子とボール(ダンス)で良い感じに燃え上がりながら、相手の娘の方からセックスに誘ってきたのに、それに乗らない。その代わりに、サンドーとルーニーインドネシアに旅立っている間、孤閨を託つイーヴァとのセックスに耽る。イーヴァの元に自転車で猛スピードで向かうパイクレットを観て、苦笑する大人は多かろう。セックスそのものよりも、セックスを求める様が滑稽で、なおかつ真剣味に溢れているからだ。サンドーが良き父親代わりを演じる反面で、イーヴァはパイクレットやルーニーの恋人になるには年齢が上過ぎるし、かといって母親的な役割を演じるには年齢的に若すぎる。つまり、イーヴァはパイクレットにとって、恋人でも母親でもない存在として立ち現われてくるのである。この展開は見事である。

 

パイクレットはサーフィンと出会い、海に魅了されながらも、翻弄はされなかった。海に出ることの怖さを知ったからだ。しかし、彼は臆病になったのではない。自分にできることとできないことを弁別できるようになったのだ。爽やかな余韻を残して物語は幕を閉じる。これはビルドゥングスロマンの佳作である。

 

ネガティブ・サイド

昔にMOVIXあまがさきで観た『 ソウル・サーファー 』との共通点も感じる。海とは異界への入り口であり、芳醇な恵みをもたらしてくれると共に、容赦なく命を奪う凶暴なる存在でもある。劇中でも示唆されたように、ホオジロザメなどは恐怖の対象である。だが、それが出てこない。バーニーとは結局のところ何だったのか。『 ハナレイ・ベイ 』のような展開を予感させつつ、これではただの虚仮脅しではないか。

 

パイクレットと父親の距離感も気になった。もう少しだけで良いから、ラストの親子の対話に至る前振りが欲しかった。洋の東西を問わず、父親と息子の対話は一大テーマなのである。

 

前半と後半の転調の落差が激しく、違う映画になってしまったのかとすら感じてしまった。一夏のアバンチュールを機にストーリーの方向が変わっていくのはクリシェである。トーンの一貫性が映画監督サイモン・ベイカーの今後の課題なのかもしれない。

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総評

嫁さんに連れられて行ってみたが、これは思わぬ掘り出し物である。スクリーンに広がる大自然の驚異、サーフィンの躍動感はそれだけでfeast to the eyeである。また、エリザベス・デビッキの美貌とエロチシズムはおっさん観客を満足させるであろう。ストーリーはどこかで観たり読んだりした映画や文学のパッチワーク的ではあるが、少人数の大人と子どもが限られた時間と空間で濃密な時を共有するドラマは、静かでいて力強さに満ちている。

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