Jovian-Cinephile1002’s blog

古今東西の映画のレビューを、備忘録も兼ねて、徒然なるままに行っていきます

『 Diner ダイナー 』 -映像美は及第、演出は落第-

Diner ダイナー 50点
2019年7月6日 大阪ステーションシティシネマにて鑑賞
出演:藤原竜也 玉城ティナ 窪田正孝 本郷奏多
監督:蜷川実花

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190708122949j:plain

漫画原作で藤原竜也が出演する作品はハズレが少ないという印象を持っている。『 カイジ 』シリーズしかり、『 デスノート 』シリーズしかり、『 るろうに剣心 』シリーズしかり。それでは原作は小説で、漫画化もされている本作はどうか。かなり微妙な出来栄えである。

 

あらすじ

人間不信だったオオバカナコ(玉城ティナ)は、ある時、異国の色鮮やかな光景に魅了された。どうしてもそこに行きたいと願ったカナコは即日30万円というバイトに応募する。しかし、それは殺し屋のgetaway driverの仕事だった。裏社会の連中に始末されそうになったカナコは料理の腕をアピールする。すると殺し屋専門のダイナーに送り込まれ、凄腕シェフのボンベロ(藤原竜也)と出会う・・・

 

ポジティブ・サイド

このDinerの内装のサイケデリックさよ。常識ではありえない設定のレストランだが、馬鹿馬鹿しいまでの工夫を施せば、それもリアリティを生み出す。壁のピンクを基調にシックに決めたカウンターとテーブル席から、カビ臭ささえ感じさせる薄暗い個室まで、このDinerは確かに狂っている。客もシェフも狂っている。そんなサイケでサイコな世界に足を踏み入れたカナコが全裸になって全身を清めるのも蓋し当然である。これは禊ぎなのである。そして眼福でもある。『 わたしに××しなさい! 』ではYシャツのボタンをはずして首元、胸元をあらわにしたが、本作ではさらなるサービスをしてくれている。この調子で頑張って欲しい。

 

まるっきりCGだったが、最も原作に忠実に再現されていたのは菊千代であろう。一家に一頭、菊千代。店一軒に一頭、菊千代。こんな犬を番犬に飼ってみたい。また窪田正孝演じるスキンも再現度は高かった。極めてまともに見えるところから、殺人鬼の本性が解き放たれる刹那の演技はさすが。『 東京喰種 トーキョーグール 』でも大学生をまったくの自然体で演じていたが、その演技力の高さを本作でも見せつけた。漫画では悪魔的、サイボーグ的な活躍を見せたキッドも、本郷奏多が好演。菊千代をボコらなかったのは動物愛護法に引っかかるからなのか。続編があるとすれば、キッドの狂気が爆発するのだろう。

 

しかし最大のハイライトは真矢ミキと土屋アンナであろう。『 ヘルタースケルター 』でも顕著だったが、訳あり女、一癖も二癖もある女、凶暴な女を狂気の極彩色で描き出すのが蜷川実花監督の手腕にして真骨頂なのだろう。クライマックスのバトルアクションは彼女の美意識が暴発したものである。ここは必見である。宝塚ファンは劇場へGo! である。

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190708123038j:plain
 

ネガティブ・サイド

Jovianは原作小説未読で、週刊Young Jumpに連載していた漫画(良いところでWeb送りになったが・・・)を読んでいた。そのイメージで語らせてもらえるなら、藤原竜也はボンベロには似ていない。顔およびイメージの近さで言うなら、高良健吾山田裕貴要潤松田翔太あたりではないだろうか。もしかすると原作小説内のボンベロの外見描写に藤原竜也にマッチするものがあるのかもしれないが、あくまで漫画ビジュアルに基づいた感想で言えば、ミスキャストに思えた。演技ではなく、あくまで外見についてである。

 

そして漫画のオオバカナコのビジュアルと玉城ティナも、何か違う。弱々しくも肝っ玉が据わっており、おぼこいながらも巨乳であるというアンバランスさが特徴だったはずだ。このイメージに当てはまる女優というと、仲里依紗新川優愛あたり、さらに門脇麦もいけそう。いや、やはり違うか・・・。とにかくメインを張る二人のイメージがしっくりこないのである。

 

また内装や客連中の服装、コスチューム、アクセサリーの派手派手しさ、毒々しさ、色鮮やかさに対して、肝心の料理のビジュアル面での迫力が決定的に不足している。4DXやMX4Dがどれほど進化しても、味は伝えられないだろう。匂いも、火薬や油のそれならまだしも、料理となると相当に難しいのではないか。だが味については料理を堪能する役者の演技で間接的に伝えられる。映画が観客に直接に料理の旨さを伝えるには、映像と音を以ってするしかない。そのことはクライマックスでのボンベロの台詞にも表れていた。ならばこそ、ボンベロの料理シーンにもっとフォーカスした絵が欲しかった。肉の表面に焼き色や焦げ目がついていく様、肉汁の爆ぜる音、包丁が食材の形をどんどんと変えていくところ、野菜や果物、肉の芯に刃が通る音、こうした調理のシーンがあまりにも少なすぎた。ドラマの『 シメシ 』や『 深夜食堂 』、『 孤独のグルメ 』よりちょっと映像を派手目にしてみました、では不合格である。元殺し屋が命がけで作る料理のディテールを伝える絵作り、演出、それこそが求められているものなのだ。

 

最後のアクションは素晴らしい部分は素晴らしいが、クリシェな部分はクリシェである。特に、『 マトリックス 』のようなバレットタイムを今という時代に邦画でこれほどあからさまに取り入れる意味は何なのか。まさかとは思うが、真矢ミキその他のキャストのアクションに注力するあまり、主役のボンベロのアクションは途中からネタが尽きたとでも言うのか。

 

また、一部の販促物に「殺人ゲームが始まる」という惹句があったが、それは漫画もしくは原作小説の展開であって、今作にはそんなものは存在しない。看板に偽りありである。

 

総評

かなり評価が難しい作品である。おそらく絶賛する人と困惑する人に分かれるのではなかろうか。もしくは悪くは無いが、決して傑作ではないという評価に落ち着くのだろう。ただし、結構なビッグネームが出演していながらもあっさりとぶち殺されたり、宝塚女優が脳みそイッてる演技を見せてくれたりするので、芸術作品ではなく、純粋な娯楽作品を観に行く姿勢で臨めばよいだろう。

現在、【英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー】に徐々に引っ越し中です。こちらのサイトの更新をストップすることは当面はありません。

I am now slowly phasing over to https://jovianreviews.com. This site will continue to be updated on a regular basis for the time being.

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190708123013j:plain

『 X-MEN:ダーク・フェニックス 』 -X-MENシリーズ、着地失敗-

X-MEN:ダーク・フェニックス 45点
2019年7月4日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:ソフィー・ターナー ジェームズ・マカヴォイ マイケル・ファスベンダー ジェシカ・チャステイン
監督:サイモン・キンバーグ

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190708003847j:plain

Marvel Cinematic Universeが一つの区切りに達したところでMonsterVerseが本格的に指導し始めた。まさに映画の時代の区切りの感がある。そこで『 X-MEN 』シリーズの最終作品が届けられる。はっきり言ってX-MENシリーズは玉石混交である。しかし、All is well that ends well. 最終作品の評価を以ってシリーズ全体を総括することも可能であろう。では本作はどうか。残念ながら、やや駄作であった。

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190708003913j:plain
 

*以下、ネタばれに類する記述あり

 

あらすじ

ミュータントと人類が共存する時代が到来していた。そこで宇宙探査機の事故が発生する。米政府はX-MENにレスキュー・ミッションを依頼し、プロフェッサーX(ジェームズ・マカヴォイ)は受諾。宇宙空間での救出作戦は成功したかに思えた。しかし、ジーン・グレイ(ソフィー・ターナー)の中には本人も気付かぬ変化が生じており・・・

 

ポジティブ・サイド

トレイラーにもある、列車内のアクションシーンは非常にスリリングである。それは列車という細長い空間内でカメラのアングルが縦横無尽に変化していくからだ。一方通行の戦いを多角的に見る。閉鎖空間内のアクションを堪能するために必要な工夫である。ココはとても楽しめる。

 

マカヴォイやファスベンダーら、英国で最も実力ある俳優たちが共演するのも本シリーズならではである。パトリック・スチュワートイアン・マッケランも悪くないが、Jovian個人としてはジェームズ・マカヴォイマイケル・ファスベンダーの方が、プロフェッサーXやマグニートーを表現しているように思うのである。特にチェスのシーンは、『 X-MEN2 』を思い起こさせてくれた。つまり、終わったと言いながらも「俺たちの戦いは終わらない」的なことを感じさせてくれたのである。実際に、続編に色気を出したエンディングを迎えているし、このあたりは『 X-MEN: アポカリプス 』と同じである。History repeats itself. 同時に『 X-MEN: ファースト・ジェネレーション 』の構図でもある。実際にサイクロップスは「自分たちが最後のファースト・ジェネレーション(First Class)だ」と明言する。セカンド・ジェネレーションの存在を力強く示唆する言葉であり、今後はディズニーの元、同じく第二世代のアベンジャーズファンタスティック・フォーに合流していく伏線であるとも取れる。期待せずに期待したい。

 

ネガティブ・サイド

オリジナリティが無い。これが最初に目につく本作の欠点である。まず、ジーンの変化のきっかけがそのまんま『 ノイズ 』(監督:ランド・ラヴィッチ)である。そして登場する宇宙人がほとんどそのまんま『 サイン 』(監督:M・ナイト・シャマラン)である。また、ジーンの幼少期の悲劇が、これまたほとんどそのまんま『 シャザム! 』のシヴァナの見に起こった事故である。ダーク・フェニックスとなったジーンにクイック・シルバーが立ち向かっていくシーンは、そのまんま『 ジャスティス・リーグ 』におけるスーパーマンに向かっていくフラッシュの構図である。ことほど然様に本作はオリジナリティに欠ける。終盤の列車内バトルの鮮烈さと対照的である。実際に、終盤は監督を変えて最撮影したものらしい。なるほど、と得心する。これまでに製作の面でX-MENに携わってきたキンバーグであるが、監督としての才能は凡庸であった、またはこのような大作のメガホンを取るにはキャリアが浅すぎたと判断せざるを得ない。

 

キャラクターにも一貫性を欠く。これは『 デッドプール 』でも触れられていたが、タイムラインが混乱している。例えば、チャールズ・エグゼビアは『 LOGAN ローガン 』では自らの人生を悔いていた。自らの為した仕事を失敗だったと涙ながらに後悔していた。そのことは、本作の中盤までのチャールズと共通する。しかし、終盤で明らかになる彼の本心とは矛盾するというか、相容れない。また、マグニートーというキャラクターの一貫性にも混乱が見られる。『 X-MEN: ファイナル ディシジョン 』のイアン・マッケランはいとも簡単にミスティークを見捨てたが、本作ではマイケル・ファスベンダーはミスティークの死を知ったことで弔い合戦に参加してくる。ウェイド・ウィルソンの言葉をそのまま借りて言えば、「タイムラインが混乱している」のである。

 

だが最大の弱点はジェシカ・チャステインのキャラであろう。X-MENの世界にX-ファイルが入り込んできた。それがJovianの偽らざる感想である。いや、オリジナリティの欠如だけなら、まだ許せないことはない。問題は、一体全体どのようにしてジェシカ・チャステインという当代随一の女優を、これほど無味乾燥で、物語に何の彩りも添えることのないキャラクターに落としてしまうことができたのか、である。ジェシカ・チャスティンと愉快な仲間たちは、はっきり言って倒されるためだけに存在している。その仲間たちもアクションに華を加えることには役立ったが、物語にスリルやサスペンスを加えることはなかった。というか、このように地球人の皮をかぶる宇宙人と戦うに際してこそ、ミスティークの能力が輝くのではないか。ミスティークの死は、単にミュータントを集める口実にしかならない。紆余曲折を経てミュータントが一堂に会し、宇宙から脅威およびジーン・グレイに立ち向かい、その戦いの最中、ミスティークが非業の死を遂げる。そうした脚本を誰も描くことができなかったのか。それともジェニファー・ローレンスのギャラが高騰してしまうのが不都合だったのか。

 

もっとダイレクトに不満に感じることを言ってしまおう。ミュータントはそもそも共同体や社会、国家におけるマイノリティの象徴だったはずだ。そうした顧みられざる者たちが、異能の存在者として世界に居場所を見つけようとする叙事詩X-MENだったはずだ。しかし、『 インディペンデンス・デイ 』のウィットモア大統領の演説、“We can’t be consumed by our petty differences anymore.”よろしく、安易に地球外の生命体を登場させることで「我ら皆、地球人にて候」と非常に安易な二項対立の構図に物語を収斂させてしまうことが気に食わない。ダーク・フェニックスは確かにダークな存在ではあるが、彼女が人間社会にもたらした破壊と暴力は、過去のミュータント連中、例えばマグニートーやミスティーク、ナイトクローラーのそれと比べると、一段落ちる。にも関わらず、殊更に彼女を脅威であるかのように煽るので、辛抱強くシリーズに向き合ってきた者としてはどうにも腑に落ちない。まさしく franchise fatigue の悪弊である。

 

総評

言いたいことが色々とあってまとまらないが、これでX-MENが終わりであるというには、余りにもお粗末な締めくくりである。死に際して紅蓮の炎に飛び込み、灰燼の中から復活する不死鳥のように、おそらく本シリーズもいつの日か復活するであろう。その時は練りに練った脚本と斬新な映像演出を期待したい。

現在、【英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー】に徐々に引っ越し中です。こちらのサイトの更新をストップすることは当面はありません。

I am now slowly phasing over to https://jovianreviews.com. This site will continue to be updated on a regular basis for the time being.

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190708003953j:plain

『 哲人王 李登輝対話篇 』 -様々な点で更なる深堀りが必要な作品-

哲人王 李登輝対話篇 40点
2019年7月4日 シネ・リーブル梅田にて鑑賞
出演:桃果 てらそままさき
監督:園田映人

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190707163454j:plain

人に勧められて鑑賞。元々少し興味があったので、劇場上映最終日に出陣。着眼点は悪くないと思うが、映画的演出の面、さらに歴史を見つめる視座・視覚にまだまだ改善の余地ありと言わざるを得ない。

 

あらすじ

女子大生の山口まりあ(桃果)は現代の世界の在り方に疑問を抱いていた。悪くなっていくだけの世界に絶望したまりあは湖への投身自殺を図る。しかし、その時、まりあの心に語りかけてくる声があった。それは台湾の元総統・李登輝の声だった。李登輝は言う。あなたの心を変えてみたい。だから私の話を聞いて欲しい。それまで、あなたの命は私に預けるように、と。かくして、李登輝とまりあの心の対話が始まった・・・

 

ポジティブ・サイド

台湾という、ある意味で誰もが余りはっきりと理解していない国に焦点を当てるというのは、着眼点として優れている。そして、地政学的に複雑な場所に位置する台湾が辿ってきた数奇な歴史は、日本が歩んでいたかもしれないifの歴史とシンクロする、あるいはオーバーラップするところも多いだろう。2014年のロシアのクリミア併合や今も続く北方領土問題、前世紀末から続く周辺諸国による南沙諸島の領有争い及び中国の実効支配化、更に尖閣諸島への進出など、現代においても領土的野心を捨てていない大国がすぐ近くに存在するという現実を念頭に置いた上で李登輝の話に耳を傾ければ、グローバリゼーションが着々と進行する中で、どのように「民族自決」にも重きを置いていくべきなのかが見えてくる。

 

歴史を過去の物語とせず、現代を把握する上での貴重な羅針盤や航海図として見るのならば、それは正しい歴史の見方であると思う。そのことがある程度達成されていることが本作の貢献であろう。

 

ネガティブ・サイド

大きくは二つある。まず、まりあというキャラクターがあらゆる意味で駄目駄目である。世界には飢えた子どもがいる、戦争、紛争が絶えない地域がある。自分たちはそれをニュースとして消費するだけである。こんな世界に誰がした?こんな世界に生きる価値は無い!だから死ぬことにする・・・って、アホかいな。ティック・クアン・ドックみたいに燃えるプラカードとして国会議事堂前で絶命するぐらいしてみろ、とまでは言わない。ただ希死念慮を抱く前に、「こんな世界に誰がした?」という問いかけに、自分で答えようとする意気込みぐらい持ちなさい。大学生だろう。色々勉強してみたが、現代史はあまりにも複雑に絡まり合っていて何が何だか分からない、自分はやっぱり無力だ・・・という流れも何もなしに、「死にます」では誰の共感も得られない。2分でいいから、まりあの勉強、および無力感を味わうシーンを挿入できなかったのか。ストーリーボードの時点でそもそもそんな構想は存在しなかったのか。またはポスプロの編集でカットされたのか。いずれにしても、まりあというキャラクターを立たせるのに失敗している。

 

二つには、歴史を単眼的に捉えている点である。複眼的ではないということである。では複眼的とは何か。これについては色々と分析できるが、Jovianが主に用いる思考法は以下である。すなわち、「事実」と「真実」の両方を考える、ということである。

 

まず李登輝総統が語る日本軍による台湾統治の物語は紛れもない真実であろう。しかし事実は、日本が軍事力によって台湾を支配したということである。台湾がそのことによって発展し、教育を授けられ、日本に恩義を感じたというのは真実である。しかし、日本は台湾及び台湾人のために開発援助を行ったのではない。台湾が日本の一部になったからそうしたのである。日本政府が日本の国土を適切に開発し、自国民に適切な教育を与えるのは理の当然である。事実はこうである。それを台湾の人たちがありがたく受け取ってくれたことが真実である。本作は真実の方にばかり焦点を当て、事実を顧みることに余りにも無頓着であるように映った。日本は教育熱心だったのは事実である。そのことは、例えば岡山県閑谷学校の歴史を見ればよい。藩から独立した財源を確保することで、藩政に支障が出た時や財政難にあっても、教育活動が絶えることなく行われるような仕組みが江戸時代にはすでに存在していたのだ。閑谷学校の例があまりにもマイナーだと言うなら、寺子屋のことを考えるのも良いだろう。日本は大昔から自国民の教育に熱心だった。これは素晴らしい点である。日本の美徳と言ってよい。これは事実である。台湾の人が日本の教育をありがたく思った。これは真実である。台湾は当時、日本の一部だった。これは事実である。日本は自国民たる台湾の人々に教育を施した。これは事実である。事実は事実で、真実は事実に解釈を加えたもののことである。そして、解釈は自分で行うものである。まりあは余りにも無邪気に李登輝の語る真実を受け止め過ぎている。それがJovianの印象である。事実と真実を峻別できていない、すなわち批判的思考=Critical Thinkingができていない。それが、まりあというキャラクターの最大の欠点である。まるで小林よしのりの『 ゴーマニズム宣言 』に次々に洗脳されていった2000年前後の憐れな大学生たちを思い出した。『 主戦場 』には、日本の未来への眼差しがあった。本作は現実の肯定および受容で立ち止まってしまった。そこにある質的な差は大きい。

 

映像芸術としても粗が目立つ。実写とアニメーションの混合という点では『 真田十勇士 』という駄作が思い出される。本作のアニメーションは欠点とまでは言えない。しかし。余りにも数多く繰り出されてくるクリシェなショットには頭痛がしてきた。具体的には、まりあの振り返りである。廊下を歩くまりあがふと立ち止まり、振り返る。まりあの向こうにはまばゆい光が輝き、それがまりの輪郭をより強く際立たせ・・・って、これは美少女にフォーカスしたアホなラブコメなのか?まりあが自殺を図って、気を失って、目を覚ますところでも、なぜか服がピンクのワンピースに変化していたが、その時のまりあの寝姿がグラビアアイドルのそれだった。だから、そういう構図のショットはラブコメまたは純粋なロマンスもの、またはアイドルのイメージビデオでやってくれ。園田監督のセンスを大いに疑う。

 

総評

本作を見て、「嗚呼、日本はやはり素晴らしかった」と思える人はあまりにも純粋無垢である。勘違いしないで頂きたいが、Jovianは別に日本の歴史の全てをネガティブに捉えているわけではない。ただし、歴史の一部だけを切り取って、それを現状の肯定の材料にするという思考方法に大いなる疑問を抱いているだけである。子曰く、「過ちて改めざる 是を過ちと謂う」。Jovianは第二次大戦について絶対に譲ることのできない日本の過ちとして、学徒動員を挙げる。兵隊が尽きたら降伏せよ。軍人ではない市民を戦争に駆り出すな。日本政府そして日本国民の大部分はそのことに無自覚である。外国人からの評価を以って、自身の評価につなげるべからず。自身の歴史を引き受けよ。その上で現状だけではなく未来に目を向けよ。しがないサラリーマン英会話講師の精いっぱいの叫びである。

現在、【英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー】に徐々に引っ越し中です。こちらのサイトの更新をストップすることは当面はありません。

I am now slowly phasing over to https://jovianreviews.com. This site will continue to be updated on a regular basis for the time being.

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190707163945j:plain

『 町田くんの世界 』 -無邪気な純粋さがオッサンには刺さる-

町田くんの世界 70点
2019年7月2日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:細田佳央太 関水渚
監督:石井裕也

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190706091114j:plain

留まるところを知らない邦画界の漫画の映画化トレンド。しかし、たまに良作が生み出されるから、あれこれとアンテナを張っていなければならない。個人的には『 センセイ君主 』と並ぶ面白さであると感じた。

 

あらすじ

町田一(細田佳央太)は人が好き。呼吸するように人助けをする彼が、ちょっとした不注意で怪我をしてしまい保健室へ。そこで普段はめったに学校に来ない猪原奈々(関水渚)と出会う。町田くんの愚直なまでの親切さに、奈々の心は少しずつほぐれていくが・・・

 

ポジティブ・サイド

まず町田くんというキャラが良い。山本弘の小説『 詩羽のいる街 』の詩羽の男子高校生バージョンのようなものを事前に想像していたが、全然違った。町田くんの行動には損得勘定が無い。人が好きだという言葉に裏が無い。思い込んだら一筋で一途。手助けの結果、見返りを求めない。先立つ一切の前提なく行動できることを、イマヌエル・カントは「自由」と呼んだ。町田くんは純粋な自由人なのだ。必ずしも良い人なのではない。劇中、猪原さんを大いに怒らせ、落胆させるからだ。それも悪意や敵意からではなく、他人に対する好意や善意ゆえになのである。こうしたキャラは希少である。そんなキャラクターを見事に現出せしめた細田佳央太を、周囲のハンドラー達は今後しっかり成長させ続けねばならない。

 

だが、もっと頑張って欲しいと願うのは関水渚のハンドラー達である。浜辺美波南沙良のような、ポテンシャルが発揮されるのは時間の問題、すなわち良い役と出会えるかどうか、と思えるような女優ではなく、ポテンシャルの底をもっともっと掘るべしと思わせるタイプである。浜辺や南は多分、大谷翔平タイプだ。大いなる舞台と機会を与えれば、きっと開花する。しかし、関水は多分、藤浪晋太郎タイプである。現時点のポテンシャルだけで勝負させてはならない。もっとトレーニングを積まねばならない。だが、そうすれば二軍 → 一軍 → オールスター → 日本代表 → MLBという未来も拓けてくるかもしれない。削って磨いてみなければ分からないが、この石はおそらく光る。夜の町田くん宅の前、および自宅前のとあるシーンは、素直になりたいが故に素直になれないという猫的な、王道的な少女漫画的キャラのクリシェを忠実に演じていた。序盤と中盤以降で全く違う表情になるのは、メイクアップアーティストの手腕もあるだろうが、本人の表現力の高さのポテンシャルも感じさせる。売れるうちに一気に売りまくるのではなく、じっくりと確実に成長させてほしい。

 

少女漫画の王道は、自分の気持ちに素直になれないイケメンと美少女の予定調和的な紆余曲折を経て結ばれる。本作はそこをひっくり返した。常に自分の気持ちにまっすぐに生きる少年が、自分の気持ちに苦しむ。人がみんな好きということは、特定の誰かを好きではないということだ。そして特定の誰かを好きになってしまうことは、その他の人たちを傷つけてしまうことになる。町田くんはそのことを恐れている。その狭間で悩み苦しみ、足掻く町田くんの姿は、くたびれたオッサンの心に突き刺さった。『 わたしに××しなさい! 』でも指摘したが、それは青春の醍醐味であり、終わりでもある。彼の無邪気さ、純粋さは時に周囲には能天気さとも過剰な真面目さとも受け取られる。だが、町田くんほど劇的な形ではないにせよ、オッサンもオバちゃんも皆、このようなビルドゥングスロマンを自ら経験してきたはずだ。美男美女が織り成す美しい物語ではなく、生真面目で一生懸命な少年と、素直になりたいのに素直になれない少女のファンタジックな交流物語は、アラサー、アラフォーの世代にこそ刺さるはずだ。特に町田くんが無意識のうちに実行している存在承認、成果承認、行動承認は、モテ男を目指す全ての男性および職場で居場所を確保したいビジネスパーソンにとって必見であると言える。

 

キャラクター以外の要素も光る。たびたび川原の水門沿いのスペースが映し出されるが、これは猪原さんの心象風景であろう。流してしまいたい思い、溢れ出させてしまいたい想いのメタファーである。そこに暮らす仲睦まじい鴨のカップルにもほっこり。また学校にある二宮金次郎像に思わずニヤリ。様々な事情から全国的に撤去されているが、これも現代の日本人像のメタファーである。終盤のとあるシーンの不自然さも、これで見事に帳消しになっているのである。様々なガジェットも無意味に配置されているわけではない。石井監督、さすがの手練である。

 

ネガティブ・サイド 

主演二人以外のキャスティングが豪華すぎる。それはまだ良い。しかし、一部に高校生役が厳しい者も混じっている。前田敦子は意外に通じる。岩田剛典や高畑充希はちょっと苦しい。大賀はもう無理である。

 

光、照明に関しても、一貫性に欠けるシーンが2、3あった。最も気になったのが、病室が夕陽で満たされていたのに、次にとある場所に移動したときには完全に夜中になっていたこと。普通に考えれば近場の施設であるはずだし、そうでないとおかしい。作中で7月冒頭と明示されたいたはず。つまり、夏至直後である。午後8時としても、空は薄明かりが広がっているはず。病院からいつもの川原まで1時間半以上かかったと言うのか。にわかには信じがたい。

 

町田くんが「キリスト」と一部で呼ばれているというのも少々気になった。原罪を背負った人類の贖罪のために、神は其の子イエスを地上に遣わし、敢えて死なせしめた。愛する対象のために代わって死ぬ。これが神の御業である。愛する妻や子が病気で苦しんでいたら、自分がその苦痛を引き受けてやりたいと願う。それが人の愛である。それを本当に実行してしまうのが神の愛であるが、これを町田くんに適用するのはちょっと違うのではないかと感じる。第一に、町田くんの愛は彼の生活世界の中での博愛である。第二に、あくまで人間イエス・キリストは人格者でも何でもないからである。むしろ、博愛の精神で自らの生活圏から敢えて飛び出し、各地で神の教えを積極的に説き、ほとんどすべての場所でウザがられ、時に迫害すらされたムハンマドの方が、よほど町田くんとの共通点が多い。これは考え過ぎか。

 

もう一つは、池松壮亮の言う「この世界は悪意に満ちている」が指す世界と、『 町田くんの世界 』がほとんどオーバーラップしないことである。町田くんの世界とはカントやヘーゲル、またはヴィトゲンシュタインが説明するような絶対的な存在としての世界ではなく、フッサールが言うところの生活世界に近いものだ。世界という言葉の意味を意図的にずらして解釈したに等しく、池松演じる記者を狂言回しではなく、ただのパズルの一ピースにしてしまった。

 

最後に、最終盤のショットおよびシークエンスが『 メリー・ポピンズ・リターンズ 』および『 天空の城ラピュタ 』の、良く言えばオマージュ、悪く言えばパクリであった。かなり長いシークエンスで人によっては冗長に感じるはず。だからこそ、オリジナルな味付けをして、観る側をエンターテインさせる工夫が欲しかった。

 

総評

秀逸な作品である。中学生~大学生ぐらいの層がどのように本作を受け取るのかは分からないが、デートムービーにはなるだろう。逆に、気になるあの子を映画館に誘う時に効果的な作品ではない。町田くん以上の魅力を発することのできる男などそうそういない。男が惚れる男、それが町田くんなのである。仕事に疲れ切ったサラリーマンやOLが、友達になりたい、一緒にご飯を食べたい、と感じてしまうようなキャラなのだ。無名の俳優が主役を演じる漫画の映画化と思い込むなかれ。欠点もあるが、それを補って余りあるエンパワーメントの作用が本作にはある。

現在、【英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー】に徐々に引っ越し中です。こちらのサイトの更新をストップすることは当面はありません。

I am now slowly phasing over to https://jovianreviews.com. This site will continue to be updated on a regular basis for the time being.

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190706091140j:plain

『 真実の行方 』 -若き日のエドワード・ノートンに刮目せよ-

真実の行方 70点
2019年7月2日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:リチャード・ギア エドワード・ノートン フランシス・マクドーマンド
監督:グレゴリー・ホブリット

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190705000511j:plain
映画でも小説でも、多重人格ものは定期的に生産される。一人の人間が複数のパーソナリティを持つというのだから、そこから生まれるドラマの可能性が無限大である。しかし、多重人格ものは同時に、それが詐術である可能性を常に孕む。多重人格が本当なのか演技なのかの境目を行き来する作品といえばカトリーヌ・アルレーの小説『 呪われた女 』や邦画『 39 刑法第三十九条 』などがある。本作はと言えば・・・

 

あらすじ

カトリック教会で大司教が殺害された。容疑者としてアーロン(エドワード・ノートン)が逮捕され、マーティン(リチャード・ギア)が弁護を請け負うことになる。その過程でマーティンは徐々にアーロンとは別に真犯人が存在するのではないかと考え始め・・・

 

ポジティブ・サイド

アメリア 永遠の翼 』や『 プリティ・ウーマン 』ではやり手のビジネスマンを、『 ジャッカル 』では元IRAの闘士を演じ、今作ではBlood Sucking Lawyerを演じるリチャード・ギアは、日本で言えば世代的には大杉漣か。そのリチャード・ギアが嫌な弁護士からプロフェッショナリズム溢れる弁護士に変わっていく瞬間、そこが本作の見所である。

 

しかし、それ以上に観るべきは若きエドワード・ノートンであろう。栴檀は双葉より芳し。演技派俳優は若い頃から演技派なのである。そしてこの演技という言葉の深みを本作は教えてくれる。

 

題材としては『 フロム・イーブル 〜バチカンを震撼させた悪魔の神父〜 』、『 スポットライト 世紀のスクープ 』などを先取りしたものである。多重人格というものを本格的に世に知らしめたのは、おそらくデイヴ・ペルザーの『 "It"と呼ばれた子 』なのだろうが、本作はこの書籍の出版社にも先立っている。Jovianは確か親父が借りてきたVHSを一緒に観たと記憶しているが、教会の暗部というものに触れて、当時宗教学を専攻していた学生として、何とも言えない気分になったことをうっすらと覚えている。

 

本作の肝は事件の真相であるが、これには本当に驚かされた。2000年代から世界中が多重人格をコンテンツとして消費し始めるが、本作の残したインパクトは実に大きい。カトリーヌ・アルレーの『 わらの女 』やアガサ・クリスティーの『 アクロイド殺し 』、江戸川乱歩の『 陰獣 』が読者に与えたインパクト、そして脳裏に残していく微妙な余韻に通じるものがある。古い映画と侮るなかれ、名優エドワード・ノートンの原点にして傑作である。

 

ネガティブ・サイド

少しペーシングに難がある。なぜこのようないたいけな少年があのような凶行に走ったのかについての背景調査にもう少し踏み込んでもよかった。

 

ローラ・リニーのキャラクターがあまりに多くの属性を付与されたことで、かえって浮いてしまっていたように見えた。検事というのは人を有罪にしてナンボの商売で、法廷ものドラマでもイライラさせられるキャラクターが量産されてきているし、日本でも『 検察側の罪人 』などで見せつけられたように、人間を有罪にすることに血道を上げている。それはそういう生き物だからとギリギリで納得できる。だが、マーティンの元恋人という属性は今作では邪魔だった。『 シン・ゴジラ 』でも長谷川博己石原さとみを元恋人関係にする案があったらしいが、没になったと聞いている。それで良いのである。余計なぜい肉はいらない。

 

よくよく見聞きすれば、アーロンの発言には矛盾があるという指摘も各所のユーザーレビューにある。なるほどと思わされた。本当に鵜の目鷹の目で映画を観る人は、本作の結末にしらけてしまう可能性は大いにある。

 

総評

これは非常に頭脳的な映画である。多重人格ものに新たな地平を切り開いた作品と言っても過言ではない。もちろん、その後に陸続と生み出されてきた作品群を消化した者の目から見れば不足もあるだろう。しかし、多重人格もののツイストとして、本作は忘れられてはならない一本である。

現在、【英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー】に徐々に引っ越し中です。こちらのサイトの更新をストップすることは当面はありません。

I am now slowly phasing over to https://jovianreviews.com. This site will continue to be updated on a regular basis for the time being.

『 華氏451(2018) 』 -リメイクの意義を再確認すべし-

華氏451 50点
2019年6月30日 レンタルDVDにて鑑賞
出演:マイケル・B・ジョーダン マイケル・シャノン ソフィア・ブテラ
監督:ラミン・バーラニ

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190704185201j:plain

書物が焼かれる。いわゆる焚書を古代中国の悪習と思うことなかれ。知識は個の強さの基盤であると同時に、権力者にとっての脅威でもある。そのことは『 図書館戦争 』にしっかりと描かれている。日本でも新しい歴史教科書を作ろうと目論む連中がいるが、こうして考えてみると彼ら彼女らの思考は権力者のそれであって大部分の国民を形成する一般市民のそれではないことが良く分かるというものである。

 

あらすじ

書物の存在が許されない世界。モンターグ(マイケル・B・ジョーダン)は育ての親同然のベイティ隊長(マイケル・シャノン)のもとでFireman =昇火士として働いていた。ある時、老婆の家で膨大な量の書物が見つかった。本を焼却処分せんとする昇火士たちの前で、老婆は焼身自殺を遂げる、「オムニス」という謎の言葉を残して・・・

 

ポジティブ・サイド

数十年前は知識=富と考えられていた。特に日本のように土地が狭く、家屋自体もこじんまりしている国では。知識を伝える媒体が書物であり、その書物を所蔵できるだけのエキストラのスペースを家に持てる者が知識人とされた。知識=収入だったわけである。デジタル技術の進歩がそれを変えた。電子書籍リーダー一つで何万何十万冊の本と同等の情報が保持できる。逆に言えば、遍く知識を広めようと思えば、デジタル化をとことん推進すれば良いということになる。インターネット、本作で呼称されるナインは、その一つの結実である。そして現代では中国がGoogleを遮断し、バイドゥ検索エンジンとして推奨しているのは誰もが知るところである。デジタルの情報は容易に操作や加工ができるという点で、素晴らしくもあり、恐ろしくもある。この点を鋭く、かつユーモアに指摘している書物に新城カズマの『 われら銀河をググるべきや: テキスト化される世界の読み方 』がある。興味ある方は一読を。本書の終盤で新城が説くTwitterの在り様は、この映画のプロットと共通するところが多い。さらに興味が湧いたという向きには林譲治の小説『 記憶汚染 』をお勧めしておきたい。

 

デジタル技術ならびにAIに囲まれた生活によって、人間は何を得て、そして何を失うのか。そのことが映画の随所で端的に示される。だが、あまりにも遠い未来の技術ではなく、ほんの数十年先の未来、充分に予見できる範囲の未来であるがゆえの怖さもある。そこに“歴史修正主義”の思想と実践を読み取ることが余りにも容易だからである。SFは文明批判の最も効果的な表現媒体であるが、そのことを充分に力強く本作を描き出している。またclassical musicの”グノシエンヌ”が流れるタイミングに注目をされたし。『 その男、凶暴につき 』のBGMでおなじみだが、本来はこうした意味のある曲なのである。

 

ネガティブ・サイド

冒頭のボクシングシーンは、殴り合いながらも信頼関係、親子の情のようなものがしっかと存在することを見せようという演出なのだろうが、マイケル・B・ジョーダンアドニスクリードでもあるのだ。もっと違う形での殴り合いでも良いだろうに。

 

また、途中までのプロットがそのまんま『 メトロポリス 』である。現代にリメイクするからには、現代的な味付けが必要である。男女のロマンティックな関係を悪いとは思わないが、100年近く前の映画と同じプロットを用いるというのは、脚本家の敗北ではないだろうか。またエンディングも思いっきり『 猿の惑星 創世記 』のそれとそっくりである。これも考えものである。独創的なアイデアというのは、たいてい既に誰かが思いついているものだが、それでもこれらのようなメジャーな作品の亜種、亜流と看做されるようではリメイクの意義を大きく損なっていると判断されても仕方がないだろう。

 

最後に映画そのものの質とは関係のないことを。字幕には字数制限があるため仕方ないのかもしれないが、サラマンダーを火トカゲと訳してしまうと、どうにも間が抜けて聞こえる。Eelもイールで良い。ウナギと訳してしまうと、ぬるぬる捕まえづらく、すぐに地面の下に潜る感じは出るが、やはり間が抜けて聞こえてしまう。

 

総評

全体的に薄暗いシネマとグラフィーも、ダークな世界観と調和している。やや弱いながらもタイムリーなメッセージ性も持っている。マイケル・シャノンマイケル・B・ジョーダンのファンならば、鑑賞しても損は無いのではなかろうか。

現在、【英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー】に徐々に引っ越し中です。こちらのサイトの更新をストップすることは当面はありません。

I am now slowly phasing over to https://jovianreviews.com. This site will continue to be updated on a regular basis for the time being.

『 新聞記者 』 -硬骨のジャーナリズムを描く異色作-

新聞記者 75点
2019年6月30日 MOVIXあまがさきにて鑑賞
出演:シム・ウンギョン 松坂桃李
監督:藤井道人

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190704135859j:plain

映画大国のアメリカでは『 JFK 』を始め、政治の腐敗を鋭く抉る作品が数多く生産されてきた。近年でも『 バイス 』、『 記者たち衝撃と畏怖の真実 』、『 華氏119 』、『 ペンタゴン・ペーパーズ/最高機密文書 』などが製作、公開されてきた。翻って日本はどうか。『 主戦場 』が話題を呼び、そして本作である。日本の映画界も、遂に物申すことができるうようになってきた。

 

あらすじ

新聞記者の吉岡エリカ(シム・ウンギョン)は、不気味な羊の絵をカバーページにした、大学新設計画に関する膨大な資料を受け取った。その周辺を取材する吉岡は、やがて国家的な陰謀の構図に迫っていき・・・

 

ポジティブ・サイド

日本の政治は危機的な状況にある。何を以って危機的と言うかは各人によってことなるだろうが、市民を権力者側の都合で逮捕拘束できるような共謀罪なる法案が成立し、特定秘密保護法などどいう権力者の保身のための法律が存在し、にも関わらず公文書の改竄が行われ、その省庁の監督者である大臣が辞職すらしない国家とその政治状況を指して、危機的という認識を持たない人がいれば、お目にかかりたいものである。そういえば、この大臣、『 主戦場 』で十数年前の国会中継が映し出された時も、堂々と居眠りをしていた。これが我々の選良なのか。暗澹たる気分になってくる。

 

本作は東京新聞の望月記者や元文部科学次官の前川氏などを冒頭の討論番組に出演させることで、スクリーンの向こうとこちら側が同一の世界であるとの認識をより強固にしてくれる。いや、既に各所で指摘されていることだが、大学の新設が総理のお友達事業者ありきで進むこと、レイプ事件のもみ消し、公文書の改竄をさせられた財務省の役人の自殺など、すでに民主国家の腐敗のあり様を極めた感がある日本だが、それを支える組織としての内閣情報調査室にスポットライトをあてた作品はこれまでにあっただろうか。漫画『 エリア88 』の最終盤に内調がちょろっと出てくるぐらいしか思い出せない。この内調なる組織のやっていることのせこさには、新鮮な驚きと落胆、そして呆れがある。詳しくは本作を観てもらうとして、日本の言論空間の大きな一角を占めるようになったインターネットおよび既存メディアへの政治の介入具合には、言いようのない不安を掻き立てられる。そうした仕事のお先棒を担がされる杉原(松坂桃李)は、官僚でありながらも、信頼を寄せる元上司がおり、妻がおり、子どもが生まれる直前であるという極めて私人性の高いキャラクターを上手く表出した。官僚も一皮むけば人間であるということは『 響 -HIBIKI-   』でも指摘した。内調の上司からの「お前、子どもが生まれるそうだな」という言葉を杉原はどう受け取るのか。観客たる我々にその言葉がどう響くのか。思いやりの言葉であると同時に、聞く者の心胆を寒からしめるこの言葉が発されるシーンは、国家の側に属する人間の人間性と非人間性の両方を同時に描き切った名場面である。

 

シム・ウンギョン演じる記者には硬骨の精神を見出すことができる。彼女のバックグラウンドに仕込まれたサブプロットは些か行き過ぎではないかと感じるが、中盤の回想シーンで取り乱す演技、最終盤の電話を受け取るシーンでの恐怖と気概の両方を宿す演技には圧倒された。様々な事情があってシム・ウンギョンがこの役を引き受けたのだろうが、政治への忖度以上に、この役を演じられる俳優が日本の映画界に存在しなかったというのが最大の理由なのかもしれない。それほど圧巻のパフォーマンスである。シム・ウンギョンと大谷亮平の共演がいつか観たい。

 

Back on track. 『 主戦場 』でも感じられたことであるが、日本の政治状況は危機的水準にある。それは、国民が権力の監視を怠ってきた結果に他ならない。税金を公的資金と言い換えていた頃よりも、さらに表面を糊塗するだけの言葉遊び政治と、権力者とそれに追従する者だけへの便益を図る密室政治がより発達してしまった。それは違うと声高に叫ぶ人が現れた。本作は娯楽作品であり、秀逸なサスペンスであるが、同時にノンフィクションとして観られるべき作品でもある。多くの人が本作を鑑賞することを願う。

 

ネガティブ・サイド

やはり、シム・ウンギョンではなく日本人の俳優がキャスティングされなければならなかった。韓国人のシムが駄目だと言っているのではなく、日本の政治の腐敗を撃つのなら、日本人がそれをするべきだ。それも愛国心の一つの形だろう。そうした気骨、気概のある役者または事務所がいなかったということに慨嘆させられる。

 

また、シムの英語は石原さとみよりも立派であったが、agreeの発音のアクセントだけは頂けなかった。まあ、『 L・DK ひとつ屋根の下、「スキ」がふたつ。 』の横浜流星などに比べれば月とすっぽんではあるが。

 

また巨悪の存在が示唆されるばかりで、ここに弱さを感じた。宣伝段階で「官房長官の天敵」というキャッチコピーを使っていたのだから、誰がどう見ても令和おじさんのパロディであると思わせることができる人物を仕立て上げられたはずだ。それぐらいのサービス精神はあってもよかった。『 シン・ゴジラ 』でも中村育二甘利明そっくりに化けさせたのだから、菅義偉のそっくりさんキャラを生み出すのもお茶の子さいさいだろう。

 

総評

ラストの杉原の台詞を何と聞くか。いや、見るか。それによって鑑賞後に残る余韻が変わる。これは意図した演出だろう。気になる人は是非とも劇場へ。Jovianは本作鑑賞後、すぐさま『 銀河英雄伝説 』のヤン・ウェンリーの言葉、「 人間の行為のなかで、何がもっとも卑劣で恥知らずか。それは、権力を持った人間、権力に媚を売る人間が、安全な場所に隠れて戦争を賛美し、他人には愛国心や犠牲精神を強制して戦場へ送り出すことです。宇宙を平和にするためには、帝国と無益な戦いをつづけるより、まずその種の悪質な寄生虫を駆除することから始めるべきではありませんか 」を想起させられた。命よりも大切なものがあるというキャッチコピーで始まるのが戦争で、命より大切なものはないというキャッチコピーで戦争は終わると言われる。個人を自殺に追い込んでおきながら何の自浄作用も働かない今の政治権力の構造には空恐ろしさを感じざるを得ない。願わくば、本作が描くプロットが単なる杞憂、絵空事であらんことを。

現在、【英会話講師によるクリティカルな映画・書籍のレビュー】に徐々に引っ越し中です。こちらのサイトの更新をストップすることは当面はありません。

I am now slowly phasing over to https://jovianreviews.com. This site will continue to be updated on a regular basis for the time being.

f:id:Jovian-Cinephile1002:20190704135918j:plain